3 ファーストコンタクト
適当に授業をこなし、特になにも起こらぬまま放課後となる。いつも通りの一日だった。
久森に対してのアプローチもできなかったが、誰もそのことを切り出して来なかったのはやはり期待などしていないからだろうか。アダ名のことは油断できないが……。
それにしても。
正直なところ、自分がどうして久森に興味を持てないのかが不思議だった。彼女の長所は人並み外れて魅力的だと思うし、短所は致命的だ。でも、否定も肯定もする気はない。好みの問題と言ってしまえばそれまでだけど、生徒の大半が意識している彼女に興味を持てないのは、やはり自分が異端なのかもしれなかった。
「はぁ……」
吐く息ですら、僕を見捨てて逃げていく。人影が疎らになった校内で、僕は一人、教室の窓から空を見上げていた。
今日に限って天気予報を確認しなかった僕の手元には傘などない。もう少しで止みそうな空模様だったので待っているのだが、中々思う通りにいかず早三十分。明日の予習にも飽きて、いっそ家まで走り抜けてしまおうかと思っていると、ふと声をかけられた。
「九堂くん」
紫色の淡い声。振り向くと、教室の出入り口のところに──久森緋奈が立っている。
「あなたが最後だから、帰るときに鍵をかけていってもらえる?」
見回すと、確かに僕たち以外は皆、帰ってしまったようだった。
あぁ分かった、君も気をつけて帰りなよ……普段の僕ならそう言ったと思う、けれど。
「ちょっと待って。良ければ、質問に答えてくれないか」
相手はあの久森緋奈。彼女が初めて話しかけてきたチャンスを逃すまいと思ったということもあるが、それ以上に僕が変な風を吹き回す原因になったのは、夕日だ。雨を降らす雲を突き抜けてまで降り注ぐそれが、いつも以上に艶やかに彼女を照らすのだ。
橙色で浮かび上がる彼女の姿は、確かに美しかった。その中にあっても未だ漆黒に佇む彼女の髪もまた、確かに神秘的だった。それらを、もう少し見ていたいと思ってしまった。
僕の言葉に久森は逡巡したのち、頷いた。
「いいわ。でも、なるべく手短に済ませてね」
そして手近な席に座った彼女と、最後列の席の僕。異常なまでに広く感じられる教室で、僕たちは初めて言葉を交わした。
「今から君に、いくつかの噂の真相を聞きたいと思うんだけど……」
「あら、九堂くんも噂なんてものを気にするような人だったのね」
久森がいきなり茶々を入れる。
「普段のあなたは、そんな低俗な人には見えなかったのだけれど」
なるほど。確かに見下されている気がする。
「そんなふうに見てもらえていたのは光栄だね。一応言っておくけど、僕は頼まれているだけだ。真相を確かめるようにね」
「そうなの? ならこの話はおしまいね」
つまらなそうに唇を尖らせるその仕草は可愛らしいのだが。
「どうしてさ?」
「知りたいのなら直接聞きなさいってことよ。人伝なんて失礼でしょう」
ご尤も。
「それにね、あなたは他の人と少し違うように見えたから答えてあげようかとも思ったのだけれど、そうでないのなら答える義理はないわ」
そう言って、小さく笑みを作る。それが腹立たしく思えた。……彼女は知っているのだ。
僕が、彼女の肌や髪に一瞬でも見とれたことを。
「あなたが私のことを知りたいっていうのなら、考えないこともないわよ?」
あくまで『アナタ』が望むなら、考えてあげる。
その言葉は、誘惑だった。突撃していった先人はこうして道を踏み外されたのだろう。
久森は……サディストだ。その笑顔からは、僕に『君のことが知りたい』と言わせることで、その自尊心を満足させようとしていることが窺い知れる。あるいは、今まで自分に興味を示さなかった僕に、屈辱を味わわせようとしているのか。
アダ名のこともある。ここは従っておいたほうがいいかもしれない。
興味があると嘘をつけばいいだけだが、嫌な気分……。
「分かった、認めるよ。僕も気になる。君の噂が真実なのかどうか」
「そう? なら、特別に答えてあげるわ」
多分、久森は僕が屈辱を味わっていることを知っている。だから、僕が低俗かどうかは関係なく、答えてくれる気になっているのだ。
「それじゃ、一つ目。君に近づいた者は殺されるというのは本当かな」
荒唐無稽な問いだ。だけど価値はある。おそらく星野たちからすれば結婚話や去勢説について確かめたいのであろうが、僕の興味はそこにはない。
久森も予想していなかったのだろう、一瞬だけ目を見開いた。
この噂が本当だとしたら、目の前にいるのは殺人鬼か死神のどちらかだ。それはそれで面白いし、そうでなくとも彼女の不意を突けたのだから意味はあった。
「そうね──」
窓に叩きつけられる雨音が、やけに煩い。
「──殺したと言えば殺したし、殺してないと言えば殺してないわ」
「曖昧だね。どういうこと?」
「少なくとも、実際に誰かを殺した記憶はないのだけれど。火のないところに煙は立たないと言うじゃない?」
自分で言うのか、それを。
久森は続けて、当然のようにのたまう。
「私ね、人を殺す夢をよく見るの。相手は嫌いな芸能人だったり知人だったり、とにかく夢の中で容赦なく殺したわ。それを考慮するなら、私は間違いなく人殺しね」
「君はとても変わっているな」
彼女がその夢を誰かに話し、そこから噂が一人歩きしたというところだろうか?
「それにね、九堂くん」
だが、夢の話など前座であるかの如く、彼女は言い放つ。
「私は常々思っているのよ。人を殺してみたいと」
「……それは、そういう衝動があるってこと?」
そんな話は聞いたことがなかった。
「そう。言っておくけれど本当よ」
彼女は平然と肯定する。躊躇いも悪びれる素振りも、欠片ほども見せない。
それからなにかを思いついて、首を少し傾げる。
「九堂くん、殺人症候群って知っているかしら?」
星野がなにか言っていたな……。よくは知らないので首を横に振ると、彼女は少しだけ嬉しそうに言った。
「人を殺したくなる病気だそうよ。実在するかは知らないけれど、私がそれを発症しているという噂を聞いたの。くだらないけれどもしかしたら……そうなのかもね」
だから、人殺しの夢を見た朝は、とても気分がいいのだと。彼女はそう言った。
「だとしたら、とても面白いと思わない?」
「さあね。現実味がないとは思うよ」
「そう。他に質問は?」
「いや……ない」
「なら、先に帰るわね。噂のことを直接聞かれるなんて初めてだったから、楽しかったわ」
素早く立ち上がり、教室を出て行く。一度も振り返ることはなく。僕は一人、取り残された。
他に聞きたかったことがないわけではない。ついでに星野たちが知りたいと思っていることを一つくらい土産にしようかと思っていた。
気が変わったのは、想像以上の事実を手に入れることができたからだ。
殺人衝動を持っているなど簡単には信じられない。だが、彼女はあの久森緋奈である。普通の人間と並べて考えることなどできはしない。
ようやく、彼女に対して興味が湧いた。彼女は想像以上に面白い人間だった。殺人衝動を持ち、人殺しの夢を楽しむ。揺るぎない魅力を持ちながら他人を寄せつけない彼女の秘密。それを知る数少ない人間となった自分。
僕の中で、久森への興味が増大していく。
彼女は普通の人間とは違う。やはり彼女は、僕の日常に刺激を与えてくれるかもしれない。
立ち上がり窓の外へ視線を移すと、夕日が僕の眼を射す。
雨も雲も、彼女と共に消えていた。
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