4 サディストの周囲に流れるもの
翌朝は、いつもより早めに登校する。
僅かな時間で急成長したこの感情は、好意か悪意かただの好奇心か。ともかく僕は、久森の姿を視界に収めたかった。
教室へ入りまず目につくのは、窓際の席の黒い髪。そしてそれを遮るように現れる星野。
「よう九堂」
「聞いてない」
「まだなにも言ってないぞ」
「どうせまた久森の話だろ」
「そうだけど少し違う」
席につく僕の眼前で、星野はなんだか嫌な笑顔を作る。
「どうだった、昨日は」
ああ、なるほど。ダメ押しで僕のプライドを傷つける気か。
しかし残念ながら、僕には収穫があった。たわわに実った禁断の果実が。後悔するといいさ。
「星野。君の期待に応えられなくて申し訳ないが、彼女は人殺しなどしていないそうだ」
その瞬間、星野が固まる。
「それ、久森から聞いたのか?」
「もちろん」
正確には違うが、『少なくとも記憶にはない』と言っていたのだから完全に間違っているわけでもない。
「マジかよ……おまえにそんな度胸があったなんて」
度胸がないわけじゃない。何事にも気力を出せないだけだ。威張れることじゃないけれど。
と、急に星野が真面目な顔で僕の肩に手を置いた。
「じゃあ、これからもよろしく頼むぞ」
「は?」
「昼休みまでに聞いてもらいたいことをまとめておくからさ」
「……冗談じゃない。僕は君たちの仲介をする気はない」
「いいのか? おまえのアダ名はなんだったかなー?」
こっちにもサディストがいた。星野が持つ、唯一久森より性質の悪い部分が、僕の弱みを握られていることだった。
「……わかったよ」
かくしてその日の昼休みには、僕が久森に噂の真相を訊ねたことがクラスメイトの間において周知の事実となってしまう。明日には学年全員の耳に入っているだろう。
こうなったら仕方ない。せめて久森との会話を楽しめるといいのだけれど。
昼食を食べ終え、重い足取りで廊下を歩いていく。
昼休みになった途端に星野から渡されたノートには、久森の肯定派も否定派も関係なく集められたと思われる質問がびっしりと書かれている。今までに溜まりに溜まった疑問をまとめて片付けたいらしい。
自分の名誉のためにも、今日のところは久森に聞いてみるしかなさそうだ。そのあとで星野をどうしてくれようか考えなくてはならない。
図書室に足を踏み入れる。沈み込む心を落ち着かせてくれる木の匂いが、僕を歓迎してくれる。この、外の世界のことを忘れさせてくれるような優しい匂いが僕は好きだった。
そんな場所を彼女も好んでいるらしいという話。奇妙な偶然だけど、疑うまでもなく彼女は見つかった。……なら、どうして今までそれに気づかなかったのだろう。
ともかく、久森は長机の隅で静かに読書をしていた。読書をするときの彼女は『さながら女神のよう』という感想を星野たちから頂いているけれど、実際はどうだろうか。
気づかれないようにそっと忍び寄る。できるだけ近くで観察してみよう。
静寂を凝縮したような瞳が、ゆっくりと文字を追っている。ガラスの作り物みたいな繊細な指でふわりとページを捲っていく。カーテンの隙間から差し込む光を受けて眩しく流れる黒髪と、紅く火照る瑞々しい唇。息が詰まるほど柔らかく脈動するふくよかな胸。
──それを僕は、女神のようとは表現できない。
久森が美人であることは疑いようがないけど、女神というのは美化しすぎだ。抱く印象が中身と乖離し過ぎている。この美しさをあえて比喩するならば……人を誘惑する悪魔。サキュバスというやつだろう。この上さらに殺人鬼であったり死神であったりするのならば、もはや魔女の域である。
彼女に効果があるかは不明だが、できるだけ自然を装ってさらに近づく。
「や、久森。読書か?」
「ええ。他に何をしてるように見える?」
久森は視線を落としたままでそう答えた。確かに見ればわかる。だけどさ、挨拶っていうか……まあいいか。
「聡明な君なら分かってくれると思うが、今日も質問をしに来た」
「やっぱりね。大方、星野くんあたりに頼まれたのではないかしら」
「ご名答。流石だね」
向かいの席に座る。彼女の表情は、心なしか嬉しそうに見えた。
「僕としても不本意なんだけど、答えてくれると有り難い」
「構わないわよ。今日は気分がいいから」
その理由は追求しない。余計なことはしないほうがいい気がする。
「なら遠慮なく」
そしてノートに書かれた文字を、なるべく無心にして読み上げた。努めて機械的に。久森が茶々を入れる隙を作らないように。
久森の返答をノートに書き込んでいく間、僕の脳裏にはこれを読んで混乱に陥る星野たちの姿が浮かんでいた。喜び、嘲り、興味本位。抱く感想は様々だろう。
七つ目の問いに答えると、久森は溜息をついた。
「続きは今度にしない? そろそろ疲れてきたし、次の授業の準備をしないと」
「そうだね、次の機会にしようか」
次の機会。不安になるワードだ。僕はあくまで彼女を観察し会話をしてみたいのであって、星野たちのパシリにはなりたくないのだけど。
「それじゃあね。あなたも急ぐことを勧めるわ」
そう言い残し、彼女は立ち去った。僕はもう一度、手元のノートに目を通す。とりあえず七つの答えを手に入れたので一安心だが、油断はできない。早々に対策を練らなければ、下手をすると卒業まで星野の言いなりになってしまう。どうしたものか……。
「もう……九堂くん、九堂くんってば」
予鈴を聞きながら思慮に耽っていると、不機嫌そうな女生徒の声がした。顔を上げると傍らに一人の女生徒が立っていた。僕と違って勉学に励んでいたのであろう、数学の教科書とノートを持参している。
「……水上さん」
僕に限らずつい『さん』付けで呼んでしまうような、なんとなくか弱い雰囲気を持つ彼女は僕のクラスメイトで、いわゆる優等生だ。共に図書委員の仕事をこなしてきた関係で、気軽に話しかけてくれる。
「どうしたのさ?」
「授業サボる気なのかと思って……」
「そんなことしないよ。考え事をしていただけさ」
「じゃあ行こう? 遅刻しちゃうよ」
「ああ、うん」
少し遅刻してもいいと思うくらい憂鬱だったのだけど、水上さんに言われるとなぜか従ってしまうから不思議だ。小動物のようなつぶらな瞳がそうさせるのか……あるいは何事にも一生懸命な姿か。誰かと違い、彼女には優しい眩しさが備わっていた。
席を立ち、水上さんと共に図書室を出る。それからしばらく歩くうち、僕はふとおかしな質問を思いついた。
「水上さんさ」
「ん、なーに?」
喧しく会話が飛び交う廊下で、前を歩く水上さんは笑顔でこちらに振り向いた。
「久森のこと、どう思う?」
他意はない。参考までに聞いてみたくなっただけだ。
「……実はあたし、結構好きなんだ。久森さんのこと」
意外だった。真面目な優等生であるだけに、久森のことは毛嫌いしていると思っていたのだけど。
「でももう少し人当たりをよくしたほうがいいと思うな。今はいろいろと誤解されてるじゃない?」
「誤解?」
「うん。あたしは信じてるんだ。久森さんに付きまとう悪い噂は全部嘘だって」
全部嘘だと信じてる。たしかに水上さんはそう口にした。不思議だった。二人は真逆とも言える性格だけど、どうしてそこまで信用しているのだろう。理由を聞こうとしたそのとき、『待って!』と叫ぶ男の声が聞こえ、僕たちは立ち止まった。水上さんの視線が──いや、周りの生徒全員の視線がある一点へ注がれている。
視線を追っていくと、そこには件の久森緋奈。久森は男子生徒に言い寄られているようで、辟易したような顔で彼を振り切ろうとしていた。
「いい加減にしてもらえる? 何度言ったらわかるのかしら。私はね、あなたには興味がないの」
「でもさ久森さん、俺の気持ちは本当だよ。それにこのあいだ、俺の作った弁当を美味しいって言ってくれたじゃないか」
「ええ、あれは美味しかったわ。けれど、それがあなたに対する好意だと受け取られるのは迷惑よ。お弁当のためにあなたと付き合えと言うの?」
男のほうはそこそこ整った顔立ちだ。その所為か、久森に対しての弱気な姿勢がより格好悪く見える。
一方の久森は公衆の面前にあっても、容赦という言葉を知らなかった。
「もしも本気で私と付き合いたいと言うなら、私に殺されてもいいってくらいの覚悟を持って出直して来なさい。すでに持っているなら今ここで殺すわ」
流石にたじろぐ男。散々な言われようだ。かわいそうになってくる。
「……わかったよ……」
消え入るような声で呟き、男は立ち去る。また一人、玉砕。久森の完封勝ちである。
廊下は静まり返っている。誰もが言葉を発することを躊躇う中、一人の男子生徒が口を開く。
「振るにしても、もう少し言いようがあるんじゃないのか?」
「あら高見くん。今の私の台詞、先月あなたを振ったときと一言一句違わず言ったのよ。覚えているかしら?」
なんて威力の追い討ちだろう。まるで公開処刑だ。久森のサディストぶりが遺憾なく発揮された瞬間だった。顔を真っ赤にして黙りこくる高見と呼ばれた生徒に、僕は心から慈悲を送る。
そんな彼を無視して久森が教室へ入っていくと、ようやく喧騒が取り戻された。
同時に僕の隣で、水上さんが深いため息をつく。
「あれじゃ、嫌われちゃうのも当然だよね」
「そうだね。久森は全く気にしてないけど」
「うん……みんなと仲良くしてほしいなぁ」
水上さんが包容力溢れる呟きをした瞬間、教室の中から蔵前の怒号が聞こえた。
「久森! アンタまたやらかしたね!」
水上さんの苦笑いに、僕は肩をすくめる。チャイムが鳴る中、僕は再び水上さんのため息を聞いた。
午後の授業を終え、放課後。久森が教室から出て行ったのを確認すると、噂の真相の公開を待ち望み集まってきたファンや反久森派の十数名が、僕の机を取り囲む。
「で、どうだ。首尾は?」
星野の言葉に、僕は無言のままあのノートを取り出す。星野がそれを大事そうに受け取り恐る恐る開くと、皆が一斉に覗き込む。
「なにぃ、俺たちと同い年なのか!」
「まだ一度も結婚してねぇってよ!」
「本当に正真正銘の女なのか……?」
「緋佐森ってレズじゃなかったんだ!」
「ファーストキスもまだだとぅ! 信じられん!」
「剣道初段はマジなのかっ!」
「スリーサイズは秘密かよっ! くそっ!」
単純にうるさい。やはり彼らにとって相当大きな衝撃だったようだ。
かくいう僕は、星野の魔の手から逃げる手を考えるのに必死だったのだけど……やはり難しい。
「よくやったな、九堂」
顔を上げると、星野の形をした悪魔が微笑んでいた。
「俺たちは久森の真実をいくつか手に入れることができたし、おまえの名誉も傷つかない。そんじゃ、明日の昼休みまでに次の質問をノートに書いておくからよろしく!」
よろしく! じゃないよ全く。
ようやく解放された僕は鞄を抱えると、柄にもなく全力疾走する。一刻も早くこの場を離れたかった。
靴を履き替え校舎を出たところで、夕日の眩しさに思わず立ち止まる。夕暮れの静けさと共に爽やかな風が吹きぬけ、汗や閉塞感を拭い去ってくれた。だが不安までは持っていってくれない。どうにかしないと僕は星野の傀儡と化す。このままでは、新たな噂が誕生するたびに駆り出されるはめになる。
久森は面白い人間だが、僕は彼女に関わったことを後悔しかけていた。
心が日本海溝並みに沈没していく中、ようやく足を動かそうとしたとき。
「九堂くん……く・ど・う・くん」
今最も聞きたくない声が後ろから僕を捕らえる。振り向くと、声の主が苦笑していた。
「大変みたいね」
「お蔭様でね。君という存在に蝕まれている最中さ」
あらあら、と上品に笑う。まるで他人事だ。
「──まさか僕を待っていたのか?」
「そうよ。下駄箱で待っていたのに、気づいてくれないからびっくりしたわ。疲れてるみたいじゃない」
どういうつもりだろう。
「もう一度言うけど、それは君のお蔭だ。自業自得の部分もあるとは思うけど」
嬉しそうに笑う久森。ますます腹が立ってくる。
今まで積み重ねてきた僕の自尊心や立場や行動パターンが、彼女一人の存在によって崩れ落ちようとしている。それが鬱勃たるほど腹立たしい。
やはり間違いだった。今まで通り、彼女には無関心でいるべきだったのではないか?
──だというのに。
「ねぇ、九堂くん。一緒に帰らない?」
そんなことを、久森は口走る。
「笑えない冗談だね」
承諾すれば最後、この女の玩具にされるに違いない。畢竟するに、僕の散々な惨状を見てサド心がくすぐられたのだろう。
それに僕が久森と共に下校したなんていう噂が流れてみろ、間違いなくコロされる。
「私は本気よ」
「……僕を陥れることにだろ?」
「違うわ。あなたに興味があるの」
「悪いけど信じられないね。噂を信じてるわけでもないけれど、君自身が信じるに足りない。僕は弄ばれるなんて御免だから」
もう近づかないほうがいいのかもしれない。
アダ名が暴露されるか、星野たちのパシリになるか、彼女の玩具になるか。どれも死ぬほど拒否したい……。
「──そんなつもりは、ないのだけれどね」
そう言った久森は……ひどく、愁いを帯びていたような気がする。
分かったわと呟いて、久森は歩き出す。彼女が僕の傍らを通り過ぎたとき、不思議な香りがした。それは甘ったるくも感じたが、なんと言うか、心が落ち着く匂いだった。
何か声をかけなければ。そう思った。昨日と同じだ。なぜか久森の前では変な風が吹き回る。けれど……何も思い浮かばない。
どうすればいい、なんて言えばいい──必死に頭をひねって、僕はある事実に気がついた。
「久森!」
名を呼ぶと、久森は立ち止まる。かすかにその小さな肩が震えた気がした。振り返りはしない彼女に、僕は自分が何をしているか完全には理解しないまま、語りかける。
「知っていると思うけど、僕が君と話さないと僕にとってよくないことが起こるんだ。だから……また話したい」
「……」
居心地の悪い沈黙。久森が何を考えているのか検討もつかない。そして、生徒たちが訝しげに僕たちを見ながら下校していく中。
「わかったわ」
その一言だけ残して、久森は歩いていった。
「……」
言ってしまった。言ってしまったぁぁぁぁ。また話したいと! 関わりたいと宣言してしまった!
僕は心の中で悶絶していた。なんてことを言ってしまったのだろう!?
周囲には立ち止まり、驚愕の目で僕を見ている生徒が何人かいる。弁解したかったけど、何をどう弁解すればいいのか今の僕にはわからなかった。
ともかく。久森に声をかけようとして気づいたことは、一つは星野たちから押し付けられた件を利用しないと彼女に話しかけることができないという事実だ。そんな動機が必要なほど僕は臆病だっただろうか?
そしてもう一つ。灰色の日常を繰り返し刺激を求めていた僕にとって、彼女が無視できない魅力を持っているのは確かだということ。言うなれば彼女は、ずっと探し続け、やっと見つけた『非日常』。
「ほんと、サキュバスかもしれないな」
危険であると承知していながら、遠ざけることができない。誘惑とはそういうものだ。
もう少し。もう少しだけ、彼女に近づいてみよう。なにも変わらない平和な毎日より、なにかが変わるかもしれない危険な一日を選びたい。
ついでに。久森はあれでも女子である。女子から一緒に帰らないかと誘われて、全く喜びを感じないほど僕は捻くれてはいなかった。
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