17 愛憎の戦い
結局、私は言わなかった。スマホにまた、神崎さんから連絡があったことを。警察にも、まゆきくんにも。
病院の階段を降りながら、私はまゆきくんに告白されたときのことを思い出していた。私が振り下ろした刃を、あの人は避けようともしなかった。私に殺せるわけがないと……謎の自信を持っていた。
そして……あの人は、私のことを好きだと言ってくれた。
ああ、なんて馬鹿で愚かで酔狂なのだろう。この人は本気で私を信じているんだ……。私のような、人間の出来損ないと一緒にいたいと言う。だから──この人を離したくない。ずっとそばにいたい。そう思った。
病室でまゆきくんの顔を見て、とても幸せな気持ちになった。あの人の笑顔は、いつだって私を明るい場所に連れ出してくれる。だから私は、あの人の笑顔が好き。
あの笑顔のおかげで決心できた。あの人のために、杏ちゃんのために、私自身のために。
私は、神崎さんの誘いに乗ることにした。
実は今、杏ちゃんの捜索願が出されている。居場所を知っているのは私と神崎さんだけ。理由は簡単で、神崎さんが杏ちゃんを連れ去った犯人だからだ。
『水上杏を返して欲しければ、十二時に一人で久森家に来い。警察に知らせれば、彼女の命はない』──それが神崎さんからの誘いだった。なぜ私が呼ばれたのかはわからない。けれど、杏ちゃんを助けるには従うしかない。
でも……神崎さんは本当にうちにいるのだろうか。私たちの証言、それから杏ちゃんが行方不明になったことで、この辺りは警察の監視の目が厳しくなっている。神崎さんが父の愛人だとは証言していないけれど、うちに捜査の手が及んだとも聞いている。そんな場所に、果たして留まっているだろうか。
……考えても仕方ない。選択肢は一つしかないのだから。
そして十二時ちょうど。私は久森家の玄関に到着した。インターホンのボタンを押す。しばらくしてドアを開けたのは、零次さんではなく父だった。
「……お父さん」
いつもと同じ、金色の紋付き袴を見にまとっている。
「久しぶり……ってほどでもないか。ま、入れよ。彼女たちがお待ちかねだ」
父に続いて、家の中を進む。特に変わった様子はなさそうだけれど……。
「お父さん、零次さんは?」
「ああ、あいつはちょっと邪魔だったんで俺がしばいておいた。あいつの助けは期待するなよ」
「なんてことを……」
「安心しろ、殺しちゃいない」
「そういう問題じゃ……!」
「それより、ほら」
私たちが辿り着いたのは、屋敷の裏にある武道場だった。畳が敷き詰められた十メートル四方のもので、以前は私や零次さんが父を相手に空手の稽古などをしていた。
その隅に……スーツ姿の零次さんが倒れている。慌てて駆け寄り抱き起こす。アザだらけの顔が痛々しい……。
「零次さん! 零次さん!」
「……緋奈さん……申し訳ございません。神崎を止めようとしたのですが、旦那様には敵わず……」
「ううん……ありがとう。待っていて」
立ち上がって振り向く。ちょうど、入り口から神崎さんが入ってくるところだった。太いロープを引きずってきたようで……その先で、杏ちゃんが縛られている。
「杏ちゃん!」
「今は気絶してるよ」
神崎さんは笑顔だ。心の底から楽しそうに笑っている。……気持ち悪い笑みだ。
「いやあ、来てくれたんだねぇ緋奈ちゃん……まあ来るしかないかー」
「お父さん……この人を匿っているの?」
「まあな」
「今日だけだよ」
神崎さんが一歩、こちらへ踏み出す。
「いつまでも隠れていられないことくらい、あたしもわかってる。でも捕まる前にやっておきたいことがあるんだ。だから君を呼んだ──」
そして、神崎さんは私を指差した。
「緋奈ちゃん。今日ここで、君を殺す。そうすれば、あたしとリヒティの愛の巣は完成するんだ……!」
「よっ、みっちゃん! 俺も嬉しいぞ!」
拍手する父。もう本当に、私は必要ないんだな……。悲しかったけれど、それ以上に私は呆れていた。揃いも揃って、何があればあんな思考になるのだろう……。
「──狂ってる」
「大好きなパパを取られたからってそういう言い方はよくないよ、緋奈ちゃん。君だって人殺しなりかけでしょ?」
私は……殺さない。今なら自信を持ってそう言える。
「私は人殺しなんてしないわ。あの人が……信じてくれているから」
「なるほどねぇ。のろけてくれるねぇ! アハ!」
神崎さんが高らかに笑う。本当におかしくなってしまったのだろうか。
「……はぁ。ねえ緋奈ちゃん。始めに聞いておきたいんだけど……殺人症候群って実在すると思う?」
……久しぶりに聞いた言葉だ。まゆきくんとの会話や、学校での噂。いつどこで聞いても、下らない、存在するわけがない……そう思っていた。
意図がわからないまま、私は首を横に振る。
「思いません」
「そう……そう! よかった! 安心したよ。実はね、君の同級生で、殺人症候群が実在するかまだ聞いていないのは……君だけだったんだ。これで全員。全員が、殺人症候群を否定してくれた! おかげで決心ついたというか、納得できたというか……」
「は……?」
「あたし一人じゃ、自信が持てなかったんだよね。自分が殺人症候群なのかどうか。自分の殺人衝動が、病気のせいなのかどうか。でも……ようやく確信を持てた。そう、あんな病気は存在しない。あたしは、あたしの意思で、人を殺したんだ! たくさん! たくさん! アハハハハ!」
たくさん殺した──。やっぱり。
「そう……。自分が病気の影響を受けて人を殺したのなら、プライドがそれを許さない。だから自分の意思で殺人を犯したという確信が欲しかったんですね」
「ま、そんなところだね」
「そして神崎さん……あなたこそが」
「ハハ……そう、突き刺しジャック──ジャクリーンだけどネ。このご時世、一人で十人以上殺すなんてすごくない? あたしは殺人犯として……それを誇りに思うよ!」
「──狂ってる……!」
繰り返し発せられたその言葉に、神崎さんはようやく表情を変えた。不快感を露にし、憎しみのこもった視線を私に向ける。
「どうしてそんなこと言うのかな。あたしと君の違いは、実際に殺したかどうか……そんな些細なことくらいだと思うけど」
「……もう一つありますよ。違い」
「へえ?」
「選んだパートナーがマトモかどうか」
お父さんが目を見開いた。
「ほう、親離れできたようだな」
「ごめんなさい、お父さん。お父さんのこと大好きだけど……私、敵には容赦しない主義なの」
「そうか。なら、遠慮せず殺されてくれ。死体は、そうだな……どっかに埋めるか」
「ふふ、それじゃあさ、緋奈ちゃん」
神崎さんが両手を大きく広げる。
「お話はもう終わりにして……始めようか?」
そう言ってポケットからあの日も使っていた……杏ちゃんの包丁を取り出す。右手に握り、恍惚とした表情で見つめた。
「これ気に入ったよ。なーんとなくあたしの手に合うんだよね。あ、心配しなくてもちゃんと研いであるよ……」
獲物を狙う猛獣のように腰を落とす。その刹那、神崎さんは風を切り裂くように走り出した。足音を置き去りにするようなスピード。瞬きをした直後、包丁の刃が私の左胸に迫っていた。
──まだ、大丈夫だ。
ゆらり、と。右斜めに体勢を落として包丁をかわす。その勢いを右足に乗せて、思いきり床を蹴った。彼女の眼前に迫ると、左手で彼女の右腕を掴み、片襟背負を仕掛ける。
「はッ!」
彼女の身体は簡単に宙を舞い、床に叩きつけられた。彼女は両目を見開いたが、すぐに飛び起き私と距離を取る。
「なにさそれ……空手でも習ってたの?」
「ええ、お父さんに鍛えられたの。零次さんと一緒にね。しばらく教わってなかったけれど……案外覚えているものね。それに、これでも学校ではスポーツ万能と言われているのよ」
神崎さんが舌打ちをする。
「だから零次のやつ、強かったのか……けど、いくらなんでも君があたしをどうにかするには無理がある」
「やってみましょうよ。ほら」
ちょいちょいと指を曲げ、神崎さんを挑発する。……こんなことをしたのは初めてだ。
神崎さんは口角を上げ、包丁を握り直した。
「──死ね」
私の左胸を目掛け、走り出す。次は早めに左へ避ける。それから、右手のひらの付け根で彼女の胸を打つ掌底打ち。彼女がよろけているうちに再び体勢を落とし、飛び上がって肘で顎を打ち抜く。
彼女の身体が畳の上を転がっていった。
「みっちゃん!」
「……なんだよ、今の……」
「痛かったかしら? 神崎さん、知っている? 掌底打ちはね、お腹より胸の辺りを叩いたほうが有効なのよ」
「くそ……」
よろよろと立ち上がる。走るスピードは落ちていないので体力はまだありそうだけど──左胸を狙ってくる動きも変わらない。
左手で彼女の右腕を掴み、右手で襟を掴む。左前方に踏み込みながら彼女の体勢を崩す。大外刈だ。ふくらはぎで彼女の右足を刈り、投げ飛ばす。彼女の背中と後頭部が、床に叩きつけられる。それから包丁で反撃を食らわないよう、すぐに離れた。
「ふざけんなよ……」
悪態をつきながら立ち上がる。
「こんなことある? 刃物を持った大人が、丸腰の女子高生に……」
イライラしながら苦悶の表情を浮かべる彼女に、私は涼やかに言う。
「神崎さん、あなた……突き刺しジャックとしてのこだわりなのでしょうけれど、私の左胸を狙いすぎだわ。だから動きが読みやすい。他の場所を狙ってみたらどう?」
「アドバイスする余裕すらあるっての? ああ、イライラする……いいよ。やってやるッ!」
また走り出す。今度はどこ狙いか読めない……けれど、大丈夫だ。
横から二本の腕が伸び、神崎さんの右腕を掴む。彼女が振り向くと、そこにいたのは。
「零次!?」
驚いて動きを止めるその横顔を目掛け、私は走った。怒り、憎しみ、悲しみ、哀れみ……色々な感情を全力で、全身全霊で……右膝に込めた。──これで、終わらせる。
「はああッ!」
神崎さんがこちらを見る。彼女が初めて、顔を恐怖に歪ませた。そして私は床を蹴り、彼女の顔を粉々に砕くくらいの気合いで……飛び膝蹴りを食らわせた。彼女の身体がかすかに宙に浮く。私は着地し、次の瞬間には顔を見合わせるまでもなく、零次さんと同時に回し蹴りを繰り出した。神崎さんの脇腹に向かって。
神崎さんが吹っ飛び、転がりながら壁にぶつかって、動かなくなった。
「みっちゃん!」
お父さんが神崎さんに駆け寄り、抱き起こす。どうやら意識はあるようだった。
「ごめんリヒティ……もう……だめっぽい。最後のは……効いたな」
私は、零次さんが起き上がるのを見て、それに気づかれないように神崎さんを挑発した。お父さんは神崎さんに夢中だったので無視。案の定、あのとき神崎さんは迫る零次さんに気づかないでいてくれた。だから……勝てた。
「零次さん、ありがとう」
「いえ。全ては緋奈さんのおかげです。お強いままで、驚かされました」
零次さんと笑い合う。この人は、本当に頼りになる……。
父たちのほうを見ると、神崎さんがスマホを取り出していた。
「ねえ、リヒティ。負けちゃったし、もう疲れちゃったし……いいよね」
お父さんは少し考えて、頷いた。
「みっちゃんがいいなら……俺も構わんよ」
お父さん……世間体より愛を取るんだ。二人は……本気で愛し合っているということなのだろう。
「神崎さん。あなたはお父さんのどんなところを好きになったの?」
「そうだなー……いつのまにか心を奪われていたよ。あのね、緋奈ちゃん。心を奪うってのは、自分のモノにする……つまり殺すことと同義なんだ。あたしはリヒティに殺されて……新しいあたしになった。だからこんな結末も……リヒティのおかげだから後悔はない。相手と一緒なら、どんな世界でも、どんな場所でも、どんな終わり方でも構わない。それが殺されるってことなんだ。君もそういう相手に出会えたら……幸せだと思いなよ」
そして彼女は、自ら警察に通報した。それは彼女自身だけでなく、久森家を壊すことも意味している。父や父の会社、零次さんはどうなるのだろう。わからない。
わからないけれど……たぶん大丈夫。乗り越えていける。そう思った。なぜなら、私はもうあの人に殺されているから……。
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