15 突き刺すもの

「ただいま」


 二人の声が重なる。すると待ち構えていたかのように素早く、母さんが顔を出した。


「おかえり~まーいいわね、手を握っちゃったりなんかして! 緋奈ちゃん、お弁当はどうだった?」

「おいしかったです、とても」

「そう! よかった! キッチンに置いておいてね、洗っておくから」

「あ、私、洗います」

「あらほんと? 助かるわぁ。お買い物忘れちゃってね。行ってくるからよろしくね!」


 母さんはリビングからバッグを取ってくると、その嵐のようなテンションのまま出かけていった。


「君って女子力高いよね、意外と」

「意外と、は余計よ」


 エプロンを着て二つの弁当箱を洗う緋奈を、キッチンの入り口から見つめる。それに気づいた緋奈は少しだけ頬を赤く染め、ジト目で睨んできた。


「……何よ」

「いや……なんでもないよ」

「変態」


 こんなやり取りでも幸せを感じてしまうのは、久森緋奈という底無し沼にハマってしまっているからだろうか。なんにしても、僕は『何か』に敗北してしまっている気がする。

 そのとき、インターホンが鳴った。なんとなく……今日はまだ終わってくれないような気がした。


「はい」


 受話器から聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。


『その声は九堂様ですね。私です、零次です』

「え……零次さん?」

『緋奈さんはいらっしゃいますか?』


 どうすべきだろう。正直に答えたら、緋奈がここにいることがバレる……いや、向こうが本気で探せばすぐかもしれないが……考えすぎても肯定したことになる。

 かすかな間で何かを理解したのか、零次さんは少し穏やかな声で言った。


『ご安心を。これは私の単独行動です。旦那様に報告する気はありません』


 うーん、と考え込んでいると横から緋奈が割り込んできた。


「待ってて、零次さん。今鍵を開けるわ」


 そして、受話器を壁に戻す。


「いいのか?」

「彼は信頼できるわ。大丈夫よ」


 玄関に行き、鍵を開け扉を押し開ける。そこに、あの青年が立っていた。彼は緋奈を見て安心したのか、優しげな表情をしている。


「緋奈さん……よくご無事で」

「あなたもね。お父さんの様子はどうかしら?」

「それは……変わりありません」

「そう。よかったわ。それで……今日はどうしたの?」

「はい。旦那様があなたを屋敷から追い出したと聞いて……私個人であなたを探しておりました」

「どうして……?」

「私は久森家に仕える身。そしてあなたは久森家のご令嬢です。それで十分でしょう?」


 緋奈と顔を見合わせる。緋奈は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「私が直接仕えているのは旦那様です。けれど、私はあなた方の味方でもありたい。ですから緋奈さん。困ったときはいつでも呼んでください。出来得る限りのことはさせていただきます」

「ありがとう、零次さん」


 それでは、と踵を返す零次さん。背後に停めてあった、あの黒い車に乗り込むのを見ていると、緋奈のスカートのポケットからスマホの着信音がした。緋奈はそれを取り出し、画面を確認する。


「……神崎さんだわ……」


 ピタリ、と零次さんの動きが止まる。


「はい。……はい。え? ……ちょっと待ってください!」


 神崎さんのほうが勝手に切ったようだ。緋奈は……かすかに震えていた。


「緋奈?」

「吾妻第一公園で……水上さんが、大変なことになってるって」

「水上さんが?」


 どういうことだ。なんでわざわざ緋奈に連絡してきたんだ……?


「ど、どうすればいいかしら、まゆきくん……」

「……」


 らしくなく動揺している緋奈。きっと、自分のせいで誰かが傷ついたのではないかと……彼女の優しさが、それを恐れているんだ。相手が誰であろうと。

 僕は迷わず、目の前の青年に声をかける。


「零次さん、僕らを乗せて行ってくれませんか。吾妻第一公園なら学校の近くだ。電車より早く着くはずです」


 冗談かもしれない。本当だとしても、緋奈に知らせる意味がわからない。『大変なこと』というのがなんなのかもわからない。

 だから──これが、一番手っ取り早く事態を把握する手段なんだ。

 逡巡する間もなく、零次さんは頷いてくれた。


「お二人とも乗ってください。行きましょう」



 吾妻第一公園は、僕らが通う高校の目と鼻の先にある。ベンチといくつかの遊具がある程度の小さい公園だ。その脇に車を停め、僕らは公園内に足を踏み入れた。

 辺りはすでに暗く、僕ら以外には誰もいない。そして外灯に照らされているのは、間違いなく水上さんだった。神崎さんの姿は見当たらないが……。水上さんは、踊るようにして紙をバラまいていた。何個も肩に提げたバッグから取り出しては、何枚も何枚も。


「──杏ちゃん」


 緋奈は呟くと、足元に落ちている紙を拾う。そこには──『突き刺しジャックの正体は久森緋奈』と書いてあった。他の紙にも同じことが書いてある……。

 緋奈と零次さんが息を飲む。僕は紙を踏みつけて、少し水上さんに近づいた。


「水上さん」

「ああ……来ちゃったんだね」


 口調は穏やかだが、表情は憎しみを詰め込んだ鬼のようだった。


「噂を広めてる最中かな」

「そうだよ。どうしてここがわかったの?」

「……リークがあってね。それにしても、君……随分と無茶苦茶なことをするね」

「九堂くんこそ、なかなか緋奈ちゃんが突き刺しジャックの犯人かどうか確かめてくれなかったよね。もう待ちくたびれたからどうでもいいけど……うちの高校は噂好きな人が多いでしょ。これでも効果はあるはずだよ」


 星野が匿名希望と言っていたが、水上さんの依頼だったのか。


「残念だけど、今の緋奈にはこんな突拍子もない噂は定着しないよ。みんな、緋奈の『普通』な部分を知り始めてるからね」

「……ほんと、ウザい」


 水上さんの目つきが、さらに鋭くなる。


「緋奈ちゃんはね、転入生だったの。すごくかわいくて、頭もよくて……あたし、すぐに大好きになっちゃった。緋奈ちゃんに近づきたくて……隣に立ちたくて、あたしは必死に勉強して、同じくらいの成績にできた頃、あたしたちは自然と仲良くなれた……はずだった。誰が流したのかわからない噂が緋奈ちゃんを取り巻いて、そうしたら、緋奈ちゃんは心を閉ざした。ずっと一緒にいたあたしを……捨てた」

「それは違うわ」


 緋奈が首を横に振る。胸を押さえ、切なそうに揺れる瞳で訴える。


「言い訳になるけれど……あのとき、噂や嫌がらせに不貞腐れて酷いことを言ってしまったわ。だからあれは本心じゃなかったのよ。あのあと、謝ろうとしても無視されたから、私のほうが捨てられたと思ってたの……ごめんなさい」


 頭を下げる緋奈。結局、どちらの記憶も正しかったのか。

 緋奈の言葉に、水上さんは顔を真っ赤に燃やして足元の紙を蹴り飛ばす。


「もう遅いんだよ! 高校で再会したとき、緋奈ちゃんはもうあたしなんて眼中にないみたいだった。もう一度好きになったから、頑張ったけど……結局、九堂くんには勝てなかった! 否定されて、ああ、やっぱり私は間違ってたんだって思ったよ。だから……」


 泣いている。泣き叫んでいる。涙を流しながら、水上さんは何かを取り出した。それは、外灯の光を反射して銀色に輝く──包丁。


「もう、いいんだ」

「杏ちゃん!?」


 水上さんがその刃を喉に押しあて、緋奈が叫ぶ。その瞬間、僕の横を駆け抜ける黒い影──零次さんが、包丁を弾き飛ばした。すごい人だ……。

 糸が切れたように崩れ落ちる水上さんを、零次さんが抱き止めてゆっくりと寝かせる。その傍らに、緋奈が両膝をついた。僕も傍へ急ぐ。


「あは。死ぬのも失敗しちゃった……」

「杏ちゃん……ごめんなさい。私のせいだわ」


 緋奈も水上さんも、二人して泣いていた。水上さんの死を回避できたことを喜ぶべき……だろうか。


「ねえ、杏ちゃん。私たち、相性は悪くないと思うの。だから私の……友達になってくれないかしら」

「無理だよ……恋人じゃなきゃ……嫌だよ……」


 解決には程遠いのかもしれなかった。それでも、二人は一歩前進したように思える。僕にできることはあるだろうか……。

 これからどうすればいいか、考えていたそのとき。

 ──パチ、パチ、パチと。間隔のある拍手の音が聞こえてきた。

 入り口のほうからだ。見ると……誰かいる。ジーンズとシャツは共に黒で、その上から薄いコートを羽織っている。フードを深く被っているので表情はわからない。その黒ずくめの誰かは、拍手をしながらゆっくりと公園に入ってきた。

 零次さんが立ち上がり、僕らの間に立つ。彼と黒ずくめの距離が5メートルほどになったところで、黒ずくめは立ち止まった。

 あの出で立ち……まさか突き刺しジャック……?

 黒ずくめはコートのポケットからまたしても包丁を取り出す。……けれど、あれは。


「私が飛ばした包丁ですね」


 と、零次さんが呟く。その通りだ。あれは、水上さんが持っていたもの。見えにくいが銘などのデザインが共通している。

 黒ずくめは包丁を持っていないほうの手を零次さんに向け、横にひらひらと振った。……どけ、ということか?

 どういう意味だ。皆殺しにする気はないということか……なら、誰を殺す? なぜ殺す? この三人の中で殺される理由があるのは。

 ──まさか。

 僕は立ち上がり、黒ずくめに尋ねた。


「あんたもしかして……神崎さんか?」

 その瞬間、黒ずくめと零次さんが弾かれたように走り出す。

 突き出された刃を零次さんはかわし、黒ずくめの腹部に掌底を打ち込む。黒ずくめは吹っ飛び、バラまかれた紙の上を転がった。フードが舞い上がり──咳き込むその顔は。


「零次……あんた強すぎ」

「三咲様……」


 やっぱりだ。零次さんが様付けで呼んだことが、確信を生む。


「どういうこと……?」


 緋奈の疑問に、神崎さんは顔を背けるだけだった。


「緋奈。神崎さんが理人さんの愛人だよ」

「え!?」


 僕の言葉にも、神崎さんは何も言わない。


「ずっと気になっていたんだ……神崎さんは何がなんでも緋奈を殺人犯に仕立てあげたいと思っている気がしたから。緋奈の家にお邪魔して、理人さんと愛人がアダ名で呼び合ってると聞いたとき……理人さんが、愛人のことを『みっちゃん』と呼んでいると聞いて、もしかしたらと思った。神崎さんの名前が三咲だと思い出したんだ。もちろんこれは仮説に過ぎなかったし、こじつけのような気もしていたけど……神崎さん、あんたにはもう一つ……四つ目の理由があった。緋奈を殺人犯にしたいわけが」


 神崎さんが小さく笑う。零次さんが息を飲む。一度緋奈のほうを見ると、彼女は不安そうに僕を見上げていた。あまり言いたくないけど、仕方ない。


「あんたは緋奈が邪魔だったんだ。前妻の娘である緋奈は、あんたと理人さんの関係からすれば外側の人間。緋奈さえいなくなれば……あの家はあんたと理人さんのものになる。あんたはそれを狙っていたんだ」

「……まあね」


 神崎さんは怖いくらい明るい笑顔を浮かべている。


「殺人衝動のことは知ってたから、九堂くんを焚き付けて緋奈ちゃんと多く接触させ、九堂くんを殺してもらおうとしたんだ。失敗に終わったみたいだけど」

「でも神崎さん。緋奈が本当に殺人を犯してしまったら、理人さんの会社にも影響が出る。理人さんの世間体を考える性格のことは考えなかったのか」

「どうでもいいよ、そんなの」


 そんな風に、つまらなそうに吐き捨てる。


「あの人とあたし、二人の愛の巣ができればそれでよかったんだ。それだけであたしは……はぁ。今日は杏ちゃんを偶然見つけたから、緋奈ちゃんを呼び出して直接殺そうと思ったんだけど……まさか零次までつれてくるとは計算外だよ」

「あんたそれでも刑事か?」

「だーから初対面のとき言ったでしょ。『一応』刑事だってね。……さて」


 神崎さんが立ち上がる。改めて包丁を、僕らへ向けた。


「悪いけど、死んでもらうよ」

 再び零次さんと組み合う神崎さん。二人とも強いみたいだけど、彼女が零次さんに勝てるとは思えない……。

 神崎さんがほんの一瞬だけ、視線をこちらへ向けた。──悪寒が走る。

 組み合ったまま、神崎さんが楽しそうに言う。


「零次、あんたは倒せないかもだけど……こんなのはどうかな!?」


 やばい、と思った。

 神崎さんはコートのポケットからナイフを取り出し、緋奈に向かってまっすぐに投げた。

 やばい、と思った……ところまでしか考えていない。気がつけば僕の身体は緋奈の前に飛び出していて。


「まゆきくん……?」


 隠し持ってたのか……というかどんな腕力だよ……。

 お腹が熱い……燃え盛る炎のようだ。身体に力が入らない。僕を抱き止めた緋奈ごと、二人で倒れた。


「緋奈、無事……?」

「バカ、自分の心配をしなさい……!」


 緋奈の瞳からは涙が溢れ出ている。また泣かせてしまった。笑っていてほしいのに。


「二人とも」


 声をかけてきたのは、水上さんだった。


「ナイフは抜かないほうがいいよ。血が溢れちゃうから。九堂くんはもうちょっと頑張って……ほら」


 ──どこからか、サイレンの音が聞こえてくる。神崎さんが零次さんを振りほどき、後ずさった。


「黒ずくめさんが来たときに、あたしが通報しておいたんだ。なんか危険な気がしたから」


 そう言った水上さんを、神崎さんが睨みつける。


「……くそ」


 公園の出口に向かって駆け出す。それを零次さんが追っていき、二人は暗闇に消えていった。

 そこへパトカーが到着し、警官が僕らのほうへ走ってくる──あ。眠くなってきた……体力の限界だ。


「まゆきくん! まゆきくん!」


 緋奈のかわいい声が聞こえる。幸せだなぁ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る