第40話 久々に芽生えた明るい兆し

 まさか、死ぬまでこの状況が続くわけないよな?


 再度、藤田は自問した。


 続く気がする。

 

 間髪容かんぱついれず肯定した


 いやなら離婚すればいい。


 いとも簡単に答えが出たが、実行に移す勇気はない。

 だが、このままでは雅美と義母の言いなりのまま。

 今後の人生をどう歩むべきか悩んでいたとき——。


「孫がいるわ」


 唐突に義母が言った。


「どういうこと?」


 雅美がスナック菓子を食べる手を止めた。


「あのね、婦人会のみんなに言われたの。

 孫がいないなんてかわいそうって」

「ママを馬鹿にするなんてひどい」

「そうよね、やっぱりそう思うよね。

 だから、孫がいるのよ」


 百貨店で物を買うような調子で義母が言い放つ。

 藤田はいつも通り会話に参加せず、家事をしていた。


「ちょっと、あんた。無視するんじゃないわよ」


 雅美がスナック菓子を藤田に投げつけた。


「な、なんだい?」

「なんだじゃない。ママの話を聞いたでしょう。孫がいるんだって」


 雅美の言葉に藤田はぞっとした。


 大嫌いな相手と肌を重ねるなど想像するだけで気色が悪い。

 それに、義母の面子めんつのためだけに子供を作るのはどうかと思う。

 だが、雅美が子供を作ると言えば逆らえない。


 でも、もしかしたら赤ちゃんをさずかったら……。

 子を産み、育てることで雅美や結婚生活に変化が生じるかもしれない。


 久々に芽生えた明るいきざしだった。

 結婚で裏切られたが、血を分けた子供なら藤田を家族として接してくれるかもしれない。

 期待が膨らんでいった。


「やったわ、これであたしももうすぐおばあちゃんよ」


 雅美が妊娠し、義母は喜びを爆発させた。

 これまで通り欲したものを確実に手にして満足そうだ。


 父親になる。


 実感がわかない。

 そのせいか、嬉しさよりも雅美に触れないですむという解放感がまさった。

 いまはそうでも次第に父親になるという自覚が芽生え、人生の新たなステージへと進んでいくのだろう。


「お腹の子が濃厚なチーズケーキを食べたがってる。早く買ってきて」

「もうお店は閉まってる時間だから我慢して。

 明日、仕事帰りに買ってくるから」

「いま食べたい、すぐ食べたい!」


 食に関するわがままが以前にもましてひどくなった。


「生まれてくる子にブランドの服を着せたいから、もっと稼いできな」

「不景気で仕事が減っているんだ、無理だよ」

「アルバイトすればいいじゃない」

 

 妊娠の影響なのか以前よりも怒りっぽくなった。


「生まれる瞬間を最高画質で撮らなきゃ。

 だからさ、カメラ専門店でパンフレットをもらってきたわ」 

「わぁ、良さそうなカメラじゃない。絶対にこれよ」

「あたしもこれがおすすめ。じゃあ、決まりね。さっさと買ってきて」


 義母は以前とは比べものにならないほどの出費を平気で要求してきた。

 雅美と義母の横暴さは確実に増している。

 だが、生まれてくる子のためならばと藤田は耐えた。


「やったわ、女の子よ」


 義母が病室で小躍りした。


 僕は父親になったんだ。


 生まれたばかりの娘を目にしてようやく実感した。

 これまでの行いが報われ、この先は実を結び、花が開くのを待つばかり。


「ほら、よしよし。ママですよ」


 看護師に促されて雅美が娘を抱いた。


 次は僕の番だ。


 期待に胸を膨らませて待っていると、看護師と目があった。

 いよいよかと思った矢先、邪魔をするように義母がしゃしゃり出てきた。


「次はばあばの番よ」


 義母が雅美から娘を受けとり、慣れた手つきであやしはじめる。


「ほらほら、かわいい子ね……じゃあ、看護師さん、あとはお願いするわね」


 看護師がなにか言いたげな様子を無視し、娘を預けた。


「お願いしまーす」


 早く行けとばかりに雅美が看護師に声をかける。

 父親に抱っこさせるのをうっかり忘れたという雰囲気は一切ない。

 明らかに故意だ。

 わかっているが抵抗しようがない。

 すでに娘は連れていかれた。


 これほど雅美に対して怒りを覚えたことはない。

 どんなにひどい扱いを受けようが、金をむしり取られようが辛抱してきた。

 だが、故意に娘を抱っこさせてもらえないのは我慢ならない。


美紅瑠みくる、いい子ね」


 ある日、仕事を終えて病室に行くと雅美が娘に呼びかけていた。


「いま、なんて言った?」


 聞き慣れない単語に藤田は首を傾げる。


「あんた、耳が悪いの? 美紅瑠って言ったの」

「いや、聞こえてるよ。

 僕が聞きたいのは美紅瑠ってなにかってこと」


 藤田が質問をすると、雅美はきょとんとした顔をした。


「は? 娘の名前に決まってるじゃない」


 さも当たり前のように答える。


「ちょっと、待って。勝手に名前を決めたのか?」


 ふつふつと怒りが沸きおこってくる。


「勝手じゃない。ママと相談して決めた」


 抱っこさえてもらえない以上の怒りを覚えた。

 娘の名前を決めるのはいい。

 だが、一言くらい相談してほしかった。


「僕は父親だ」


 言いたいことは山のようにある。

 これまで通り全て飲みこみ、波風を立てないのが一番いい。

 頭では承知しているが、感情が今回ばかりは黙っていなかった。


「なに言ってんの、美紅瑠はあたしの子。

 ママとあたしの手で育てる」


 雅美が豪語ごうごする。

 

 料理や掃除など、家事が全くできないのに子育てだって?

 できるわけがない。

 

 藤田は心のなかで笑った。

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