第一章 異世界の謎

第6話 名無しの権兵衛

 この世界はおかしい、矛盾に満ちている。


 七志ななしは腕を組んだ。


 ここへやってきてそれなりに時間が経過している。

 それなのに、空腹も尿意も感じない。

 日の傾きや気温の変化といった自然現象も一定のままだ。


 なぜだ?


 時計がないので時間の経過がわからない。

 体内時計を信じるなら一日以上は経過しているはず。

 それなのに生理現象が生じない。


 明らかにおかしい。

 時間の概念がないのか?

 まさか、そんなことは……。

 いや、あり得る。


 この世界は異常だ。

 だが、それに対して文句を言ったところではじまらない。

 ここではそれが当たり前だと順応していこう。


 ふっと息を吐きだす。


 未知の世界への恐怖が全くないといえば嘘になる。

 心を占める感情のほんの一部に恐怖があり、残る大部分は期待であり願いであった。


 ここには現実世界にはない「消滅」という現象がある。

 骨ごと肉体を一瞬にして消しさってしまう。

 現実で肉体を消滅させる方法があるにはあるが、大掛かりでそう簡単にできない。

 だが、ここでは土蛇に襲われることで可能になる。


 肉体の死はもちろん、人生そのものを最初からなかったことにしたい。

 記録上ではもとからなにもないが、幾人いくにんかの記憶には残っている。

 それも消しさりたい。


 消滅が肉体だけでなく、人生や他者の記憶さえも消してしまうものであればいいのに。


 いつもと違う思考回路を辿っていると気づき、慌てて深呼吸をした。

 なにもせず、ただ願うのは弱気になっている証拠。

 手の甲をつねり、辺りを見渡す。

 何者の気配もなく静まりかえっている。


 あれ——土蛇がまた現れるはずだ。


 木のそばを離れ、隠れる場所がない見晴らしの良い場所を求めて歩いた。

 どのタイミングで出現するのかわからないが、襲うという習性があるのなら必ずやってくる。

 隠れずに堂々と歩いていれば、いずれ必ず出会える。


 しばらく歩きつづけていると、突然地面が波打った。

 土が盛りあがり、蛇型になっていく。


 予想通りだ。


 土蛇は這うようにして迫ってくる。


 来い! 逃げるつもりはない。


 七志は土蛇を睨みつけた。


 消滅が死とは限らない。

 わかっている。

 それでも消滅が死であることに望みをかけたい。

 一刻も早く死にたい、それだけだ。


 土蛇が七志の目前まで来たところで、鎌首かまくびをもたげるように伸びあがる。


 これでやっと解放される。

 自分からも養父からも……。


 土蛇の先頭部分がふたつに裂け、上空から下降してくる。

 土蛇の裂け目が七志の頭部から飲みこむ。

 肉体的な苦痛を覚悟した。

 だが、痛みはない。

 型にはめられたような窮屈さと窒息しそうでしない絶妙な息苦しさがあるだけだ。


 どうやって俺は消滅していくのだろう。


 好奇心のせいか恐怖を感じない。

 ただ、期待した。

 なにもかも消滅してしまうようにと……。



 ※※※


 いつどこで生まれ、両親は誰で、名前はなにか七志は知らない。

 それでも生きてこられたのは養父——桐谷の存在があったからだ。

 物心ついた頃、自分自身のことを知りたくなって桐谷に聞いたら話してくれた。


「生後間もないおまえは、繁華街のゴミ箱に捨てられていたんだ。

 そのまま放っておいてもよかったんだが、なぁんとなく拾っちまってな。

 そのおかげで、おまえはこうして生きている。

 俺に感謝するんだな」


 七志の素性については語らなかった。

 本当に知らないのか、隠しているだけなのかはわからない。

 だが、詮索せんさくは不可能。

 桐谷が黙っているなら他の誰もが口を閉ざす。

 桐谷を疑い、意見するなど恐ろしくて誰もできない。


 二十年ほど桐谷のもとで暮らして身近に接してきたが、未だに謎に包まれた存在だ。

 凶暴な連中を寄せつけない殺気を発するときもあれば、養父らしく穏やかな表情も見せる。

 どちらが本当の顔かわからない。

 謎多き桐谷は養父として、様々なものを与えてくれた。


「おまえは名無しの権兵衛ごんベえだから、よし、今日から七志と名乗れ」


 名前にはじまり、住まいや衣服、食べ物など生きるために必要なものをくれた。

 だが、ただより高いものはない。

 それに気づいたときにはなにもかも手遅れ。

 与えらたものの代償として、敷かれたレールをひたすら走るという人生を歩む結果になった。

 

 七志は戸籍を与えられず、人目を忍んで生きた。

 普通の子供のように義務教育を受けられず、特殊な経験を積む毎日。

 学校に通う代わりに肉体を鍛え、射撃を習い、盗みの技術を磨く。


 友達はひとりもいない。

 顔見知りは桐谷の仲間ばかり。

 耳にする会話は盗み、殺し、暴力団の抗争こうそうなど血生臭い話だ。

 最初は意味不明で恐怖を感じていたが、次第に慣れた。

 話を理解し、自分なりに咀嚼そしゃくして分析していく。

 そうしなければ生きてけないと気づいたからだ。


 成長するに伴い、育てた恩を返せとばかりに桐谷は様々な要求をしてきた。

 最初は盗みや詐欺といった軽犯罪。

 うまくこなしていくたびに難易度が上がり、桐谷と出会ってから十二回目の春のある日——。


「こいつを今日中に殺せ」 


 桐谷が鋭い目つきで見知らぬ老人の写真を七志に手渡した。

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