第8話 犬の生き方

 七志ななしは大きく息を吐いた。


 ——断る。


 初めて言った。

 いつもは了解と答えて電話を切る。

 だが、今回は自然と言葉が出た。

 ずっと言いたかった、でも飲みこみつづけてきた一言を……。


 スマートフォンからはなにも聞こえてこない。

 怒ったなら電話を切ればいい、怒鳴どなればいい。

 だが、桐谷は無言を貫いている。


「断る」


 念を押すようにもう一度言った。


「七志、おまえ……」


 これまでに聞いたことのない調子で桐谷がつぶやく。

 その先にどんな言葉が続くのかわからない。


 桐谷は黙っている。

 沈黙に耐えられなくなり、七志は無言で電話を切った。


 途端に恐怖感がわいてくる。

 命のやりとりをして感じる死の恐怖とはまるで違う。

 とても静かで冷たい。


「くぅん」


 犬の甘えたような鳴き声が、そこはかとない恐怖を打ち消した。

 犬はまだあんぱんをあきらめていないようだ。

 数口かじったあんぱんを見つめている。


 空腹な七志と犬に対し、あんぱんはひとつ。

 腹を満たせるのはどちらか一方。


 犬っころのことなんて知るか。


 七志は犬に見せつけるようにしてあんぱんにかぶりついた。


 この世は弱肉強食。

 生きたければ奪うしかない。

 食べたければ俺を襲え。

 襲うなら死を覚悟しろ。


 ターゲットに狙いを定めるときの目つきで犬を見る。

 この目で睨むと相手は十中八九、恐怖におののく。


「くぅん、くぅん」


 ところが犬は恐れるどころか、なおも甘えた声ですがりつくように見てくる。

 七志は警戒心の欠片も感じない犬の態度にあきれた。

 そんなことで生きていけると思っているのだろうかと不思議でならない。


「おまえは馬鹿か」


 威嚇いかくするように言った。

 だが、犬には全く通用しない。

 逃げもしなければあきらめもしない。

 視線で訴え、七志の足に頭をこすりつけてこびを売る。

 全てはあんぱんのために。


 俺には絶対できない戦い方だな。


「ちっ」


 七志はあんぱんを両手で持ち、ふたつに裂いた。

 その一方を犬に差しだす。


「わん!」


 元気よく吠え、あんぱんにかぶりつく。

 うまそうに平らげ、再び視線を送ってくる。


 もっとくれ。


 犬がそう言っているように聞こえる。

 このままでは全部奪われかねない。

 慌ててあんぱんを高々と持ちあげた。

 これであきらめるかと思いきや、敵もさるもの七志の膝に乗ってあんぱんを狙う。


 これは戦いだ。

 食料を奪うか、奪われるか、まさに生存競争。


 七志はなおも手を伸ばす。

 犬は後脚を膝に残したまま立ちあがり、前脚を七志の顔面に置いた。

 ぷにっとした感触に驚き、思わず手を下ろしてしまった。

 すかさず犬があんぱんにかじりつく。


 しまったと思ったときには手遅れだった。

 犬はすでにあんぱんを美味しそうに頬張っている。

 奪いかえすことは不可能。


 ま、負けた。


 七志は肩を落とした。


 これまで多くのターゲットと死闘を繰りひろげてきたが、一度だって負けなかった。

 だから、いまもこうして生きている。

 それなのに負けた。

 しかも、弱そうな犬っころに……。


 犬を見た。

 あんぱんを食べおえ、きょとんとした表情をしている。


「兄ちゃん、すまんな」


 突如、背後から声をかけられた。

 犬に気を取られていたせいか、まるで気配を感じなかった。

 慌てて振りかえると、杖をついた老人が立っていた。

 薄汚れた衣服に手入れされていない髪と髭。

 公園でよく見かけるホームレスの風体ふうていと似通っている。


「この犬、飼い主に捨てられてなぁ……。

 いまみたいにねだるしか餌を得る方法を知らん、勘弁かんべんな」


 老人がにっと笑った。

 ちらりと開いた口からぼろぼろの歯がのぞく。


「生きていけないな」


 誰に言うでもなく七志はつぶやいた。


「かわいそうだが仕方ない、それが現実だ。

 でもまぁ、今日は生きのびた。

 兄ちゃんのおかげでな」

「えっ?」

「兄ちゃんがあんぱんを与えたから、犬は餌にありつけた。

 一食分、助かったよ」


 また老人がにっと笑った。

 今度はどことなく狡猾こうかつな感じがする。

 どういうことだと思案していると、犬が嬉しそうに老人の足に頭をりつけた。


「じゃあな、兄ちゃん」


 老人が敬礼するようなポーズを取った。

 その隣りで犬が元気よく吠える。

 呆然とする七志をその場に残し、老人は右足を引きずって犬と共に去っていった。


 犬っころにあんぱんをやる必要なかったんじゃないのか。

 放っておいてもあのじいさんに餌を貰える。

 それなのに哀れなふりをして赤の他人にねだるなんて……。

 とんでもない犬だな。

 血を流さずに俺に勝ったばかりかだますなんて。


 七志は空っぽになったあんぱんの袋を丸めてポケットに突っこんだ。


 犬っころも必死なんだな。

 生きるためにじいさんや俺に媚びている。

 それをやめたら生きていけないとわかっているからやめられない。

 俺はこれからどうするかなぁ。


 七志は沈みゆく夕日を眺めつづけた。

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