第4話 天国でも地獄でもない、見知らぬ世界

 いつまでたっても体に異変を感じない。


 綾香は目を閉じたまま思った。


 物理的に考えれば頬に風を受けて意識が飛び、そのあと肉体に衝撃を受けるはず。

 それなのに、少しも感じない。

 何事もなかったように……。


 おかしい。

 なにかが……。


 綾香は恐る恐るまぶたを持ちあげた。

 視界に多数の枯れ木としおれた草が飛びこんでくる。

 誰も住まなくなって久しい廃村のようだ。


 ここはどこなの?


 廃村のような景色をいくら眺めても場所が特定できない。

 見知らぬ世界。


 わたし、死んだの? 

 ここは地獄?


 両手で身体中を触りまくった。

 感触を感じる。


 死んだのなら、肉体はないはず。

 ということは、生きているってこと……なの?


 首を傾げた。

 

 生きているのか、死んでいるのか。

 そんな簡単なことがなぜか確信をもって答えられない。


 どういうことなの?


 視線を下に向けた。

 しっかりと足がある。


 生きてる?

 ううん、そんなはずない。

 死んだ……そう思いたいけど。

 それならここは地獄?


 辺りを見渡した。

 生気を感じない場所ではあるが、地獄と呼ぶには恐怖度が低い。


 わからない。

 だけど、地獄ではない気がする。

 だとするなら、天国?


 それは絶対にないと首を激しく横に振った。


 どうなってるの?


 現状を把握しようと記憶を辿った。

 脳裏に勤務先の会社の屋上の景色が浮かんでくる。

 出入り口に向かって去っていく女性の後ろ姿、転落防止のフェンス——。


 死のうとした。


 フェンスに手を置き、足を上げて越えていく。

 下を向けば道ゆく人がありのように小さく見える。


 一歩踏みだせば終わり。

 綺麗に消える。

 命も悩みも……。


 全てが終わるはずだった。

 なのに、なぜかこんなところにいる。

 生死不明。

 加えて天国でも地獄でもない、見知らぬ世界に。


 ここはどこ? 

 どうなってるの? 

 どうすればいい?


 疑問が襲いかかってくる。

 それをかき消すかのように背後から悲鳴が聞こえてきた。


 わたし以外に誰かいる。


 不安のなかに小さな光がともった。

 声がする方角を探り、そちらに向かって駆けていく。

 背丈ほどある枯れ草を払いのけながら走った。

 ほどなくして発見。


 いた。


 目視できるぎりぎり範囲。

 その隅に中年女性がいた。

 呼びかけようとしたが、寸前で声を飲みこんだ。

 本能的に身を隠し、悲鳴の主である女性に注目した。


 女性がときおり振りかえりながら走っている。

 視線の先には奇妙な物体があった。

 茶色の細長い物体が女性を追っている。


 蛇? 

 ううん、違う。

 だったら、なんだろう。


 考えがまとまるより先に見知らぬ物体が女性に追いつく。

 綾香は息を飲み、目を見開いた。


 物体の先端部分がせりあがる。

 数秒の静止のあと一気に降下し、女性を襲う。

 女性の甲高い悲鳴があがった。

 物体はその声ごと女性を飲みこむ。


 !


 綾香は悲鳴を出さないよう、慌てて両手で口を覆った。


 女性を飲みこんだ物体は形を変え、それから一気に崩壊。

 最終的にはその姿を消した。


 な、なにが起こったの?


 綾香は息を止め、物体が完全崩壊した場所に目を凝らした。

 先ほどまでいた女性がどこにもいない。

 手品のように一瞬にして消えてしまった。

 謎の物体と共に……。

 

 背筋に冷たい汗が流れた。


 死にたい——。


 その思いはいまも同じ。

 少しも変わらない。

 でも、あんなふうに恐怖から逃れるために懸命に走り、しまいには消されてしまうのはいやだ。


 綾香は大きく息を吐き、周囲を見渡した。

 辺りにひとも謎の物体もいない。

 

 襲われる心配はないとほっと胸をなでおろした。

 だが、楽観できる状況にない。


 なにが起きたのかわからない不安感。

 物体に襲われる恐怖心。

 他に誰もいない心細さ。

 

 心が落ちつかない。

 だが、解決できない問題はいまは放っておく。

 いまはできることやるしかない。

 そうすることで、少しでも不安感をぬぐえるのならば……。


 わたし以外に誰かいるかもしれない。

 ううん、きっといる。

 さっきの女性みたいに。


 探そう。

 こんな世界でひとりでいるなんて無理。

 誰かと協力してこの苦難を乗り切る。 


 綾香は震える右手を左手で押さえた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る