第6話 錯綜する疑惑

 天鵞絨ビロード張りの座面の座り心地が、大変良い。

 柿原家の馬車は、揺れがとても少なくてすばらしい。

 それが、緊張しすぎて具合が悪くなっているいまの胡桃にとって、和める要素のすべてだった。


とデートだなんて、光栄の極みです」


 並んで座った星周が、実に機嫌の良さそうな声で言っている。

 端整な横顔が甘くほころんでいるのをちらりと見て、胡桃は苦々しい思いを噛み締めていた。

 この男こそ、現在の胡桃にかつてない緊張を味わわせている張本人である。


 新橋色ターコイズブルーに赤い菊の描かれた銘仙に、紫紺の袴を合わせ、髪にリボンを結んだ胡桃は、たしかにどこからどう見ても敦ではなく、胡桃本人だった。

 しかし、それを認めるわけにはいけないのだ。「いい加減にしろ」と、すぐさま冷水を浴びせかけるように言う。


「胡桃じゃない、僕は敦だ。二人のときまで、その演技はやめろよ。疲れるんだよ、こっちは」


 距離が近いせいで、肩が触れ合いそうだ。さすがにもうばれているのではと、内心では諦め始めている胡桃であるが、指摘されるまでは「敦」と言い張る。それがどれほど苦しく、無理があろうとも。


胡桃自分の姿で「仮装をしただけの敦だ」と言い続けるのは、自分でも混乱します……。でも、これで押し通すしかないんですよね)


 星周に、無理矢理に着物を剥ぎ取られたわけではなく、引きずられて家を出てきたわけでもない。

 胡桃は自分で着替え、勝手口から家を飛び出し、表門まで回り込んで待っていた柿原家の馬車へと乗り込んだのだ。

 きっかけこそ「敦に星周からの面倒事を押し付けたくない」の一心であったが、今日のデートに応じてしまったのは、胡桃の好奇心が勝ってしまった面が大きい。


 なにしろ、双子の兄が自分の姿を借りて、親友と密会中なのである。応援する気持ちに嘘はないが、一方で「敦だけいいなぁ」と羨む気持ちもあった。

 胡桃が外に出るときは女中の付き添いがあるし、学校とて送り迎えがある。

 自由のなかった胡桃にとって、こんな機会はもうないかもしれないと思えば、逃すことはやはり惜しかった。

 たとえその同行人が、明らかな厄介事を抱え込んでいる兄の友人で、しかも胡桃に対して並々ならぬ執着を見せている柿原星周なのだとしても。


「君が敦だと言うのなら、敦なんだろうけどね。それでもいまは、大変奥ゆかしく清楚なお嬢様の姿なわけだ。こうして話ができるだけで、男なら嬉しくもなるだろう」


 星周は、面白がっているかのように瞳を細めて、胡桃を見つめてくる。

 やや薄暗い車内にあっても、陰影のはっきりとした美貌は怯んでしまうほど研ぎ澄まされていて、直視し難いほど整って見えた。

 胡桃は落ち着かない気持ちで目を逸らし「べつに胡桃は奥ゆかしいわけでも」ともごもごと呟く。


 そのとき、不意に星周がかすかな衣擦れの音とももに腕を伸ばしてきて、肩にかかる胡桃の髪を背に払いながら、首に触れてきた。

 硬い指先が肌をなぞり、細さを確かめるように、首に軽く指をまわされる。

 ぞくぞくぞくっと、得も言われぬ感覚が背筋を駆け抜けて、胡桃は小さく悲鳴を上げた。


「なにをするっ……」


 狭い車中ということも忘れて、無遠慮な手から逃れるべく立ち上がろうと腰を浮かせる。


「敦、危ない。頭をぶつける」


 星周は素早く胡桃の腰に片方の腕を回すと、力ずくでその動きを抑え込んだ。なおも逃れようとする胡桃の抵抗を涼しい顔でねじ伏せて「悪かった」と低い声で囁きつつ、もう片方の手で袴の上から足を押さえつけつつ「立つな、危ないから」ともう一度繰り返した。

 状況的に、ほとんど抱き合うような体勢となり、胡桃は体を硬直させる。頭の中は真っ白だったが、なんとか言葉を絞り出した。


「いきなり、びっくりするだろう。首をさわられたら」

「ああ、本当にすまない。噛みつきたくなるくらい、綺麗なうなじが見えて、つい」


 噛む? 予想だにしない言葉に、胡桃は瞠目する。

 もしそれが彼の愛情表現だとしても、明らかにおかしい。

 胡桃は呆然とし、大きく目を見開いたまま、すぐそばの星周の顔を見上げた。


「君は退魔で妖魔と接しすぎて、自分まで妖魔化してるんじゃないのか。ふつう、人間は人間を噛まないはずだ。それとも、柿原の男は噛むのか? 婚約者や、妻を」


 目を瞬いて、視線をぶつけるようにまっすぐ見返してきた星周は、五秒ほど静止した。

 突然、過剰な動作で胡桃を押さえつけていた手を両方ともぱっと放し、身を引いた。

 上背も肩幅もある自分の体格を失念していたようで、がつんがつんと音が出るほど背もたれや壁にぶつかりながら、胡桃と距離を置いて座り直す。

 呆気にとられたままそのていたらくを見守ってから、胡桃は思わず手を伸ばして星周の肩に触れた。


「大丈夫か、今の。派手にぶつけたよな? 痣になってないか?」

「あ、いや、大丈夫だ。このくらい、俺はなんてことない。痛くもない」


 答える顔が、言葉とは裏腹に、痛そうに歪んでいる。

 胡桃はやや呆れながら「どこをぶつけたんだよ?」と言い、星周の肩から腕をさすった。


「……っ」


 星周が息を呑み、声にならない悲鳴を上げた。


(そんなに痛いの? 意地っ張りすぎませんか?)


 胡桃としては、怪我人救護程度の心づもりであったが、星周は顔を合わせるのを避けるように完全に反対側を向いてしまい「もう大丈夫だから、やめてくれ」とかすれ声で懇願をしてきた。

 何やら、思った以上に被害が甚大な様子である。

 よほど「怪我なら、脱いで見せてみろ」と言おうとした胡桃であるが、寸前でその言葉を呑み込んだ。

 星周の耳が、視認できるほど赤く染まっている。血ではなく、体温の上昇の方の意味合いで。


「恥ずかしがりすぎだろう……。僕に情けない姿を見られたのが、それほど恥ずかしいのか」

「違う、そうじゃない」


 腑に落ちないものを感じつつ胡桃が尋ねると、星周が言下に否定してきた。

 そして、色白の肌を目元まで染めながら顔だけ向けてきて、早口に言った。


「胡桃さんに体を触られているみたいで、焦ったんだ。敦だとわかっているのに、押し倒すところだったぞ。可愛いも休み休みにしてくれ」


 なぜか、言いがかりをされている。

 胡桃はむっとして、即座に返した。


「『馬鹿も休み休み言え』みたいなこと言っているけど、勝手な言い分すぎる。可愛いっていうのは、星周の感じ方の問題だろ。僕のせいじゃない、胡桃のせいでもない」


 胡桃が言い返すと、星周は胡桃に向き直り、きっぱりと言った。


「そうだ、つまり二人とも可愛いんだ。敦も胡桃さんも。どうかしているくらいに、可愛い」


 どうかしているのは星周の方だろと、胡桃は納得いかない思いから、彼の行状を並べ立てる。


「いきなり触ってきたり、噛みつきたいといったり、それで僕が動揺したら力で押さえつけてきたくせに。自分は僕に触られただけで、惨めに逃げ回って、真っ赤になって震えて。乙女か? 純情可憐な乙女か? いい加減にしろ、付き合いきれない」


 言うだけ言うと、憤然として腕を組み、目を瞑る。

 見た目には静寂を保っているだろうが、頭の中は蜂の巣をつついた騒ぎどころではない。


(星周様は、まだ私のことを兄様だと思っていて、胡桃本人とは気づいていないってことでいい? だけど、姿形は胡桃だから、兄様だとわかっているのに押し倒しそうになったってこと? つくづく、兄様に近づけてはいけない方ね。今後のお友達付き合いについて、兄様には再考いただかなくては)


 いつ何時、自分の代わりに兄がこの男に押し倒されてしまうか、わかったものではない。想像するだけで、ぞっとする。しかも、その欲望の発露は「噛みつきたい」なのだ。危険しかない。


 かくなる上は、今日のこのデートで、彼と絶交する機会でもうかがうべきだろうか? 敦には事後承諾で、誠心誠意謝罪するとして……と胡桃が物騒な算段を始めたところで、星周がぼそりと言った。


「いきなり触ったのは、悪かった。不意をついたんだ。君がどうしても敦ではなく、胡桃さん本人に見えたものだから、不思議に思って……」


 胡桃は、すうっと目を見開き、星周へと視線を向けた。

 星周はその視線を受け止めて、控えめな声で話を続ける。


「これはまだ未確認の情報だが、変な噂を耳にした。『人間に成りすます妖術を用いて、人間の間で暮らしている妖魔がいる』と。それで、敦と胡桃さんは双子とはいえ、これほど完璧に成り代わることができるのは、妖術でも使っていない限り、説明がつかないんじゃないかと疑ってしまった。申し訳ない」


「ああ、いや、そういう理由なら……」


 喉が干上がったまま、胡桃はなんとかそれだけ答えた。


(双子で入れ替わっているわけではなく、妖魔が介在していると疑われていた? 人間に成りすます妖魔……聞いたこともない、けど)


 嫌な予感が、胸をかすめる。

 胡桃が想定した最悪の展開は、自分が「敦ではなく胡桃だとばれてしまう」ことだった。

 しかし、星周が想定したのが「双子の入れ替わり」ではなく「妖魔の成りすまし」であるならば、胡桃だとばれた時点で「敦でない以上、胡桃ですらない。嘘をついていたということは、妖魔である」と決めつけられる恐れはないだろうか。

 それは、胡桃が考えているよりさらに証明も言い訳も難しい事態である。


(どうしよう……。話がこじれる前に、打ち明けてしまうべき? 「私は胡桃であり、兄と入れ替わっているだけです」と。今なら、落ち着いて話せるわけですし)


 切羽詰まった状況で、ばれてから釈明するより、よほど良いかもしれない。

 だが、話が一度落ち着いたところであえて蒸し返すほどでもないようにも思う。

 無言のまま葛藤していた胡桃の横で、実にさりげない調子で星周が言った。


「そういえば、見せてもらったことはないけど、敦は軽い変化へんげの術なら使えるって俺に言っていたことがあるよな。『その気になれば、胡桃に化けるくらいならできる』って」


「え? ああ、うん。言ったかな、そんなこと。言ったかも?」


 胡桃は返答を曖昧に濁して、笑いながら視線を逸らした。


(星周様と話すことになるとは想定していませんでしたから、兄と星周様の会話はすり合わせたわけでもありませんし、わかりません……! でも、兄様はご自分の異能を星周様に打ち明けているようでしたから、何か言ったのかも。もしかして、私と入れ替わっていることをそれとなく冗談めかして暗に示したのでしょうか)


 変化の術と、言えなくもないかな? と胡桃は一応納得しておく。

 その胡桃の横顔にじっと視線を向けながら、星周がもう一度口を開いた。


「もしかしていま、その変化の術を使っているのかな? 見た目はすっかり胡桃さんなんだよ。敦と知らなければ、絶対にわからない」


「あははは。じゃあそういうことにしておく。変化の術ね、うん」


 あまり長引かせたい会話でもなかったので、胡桃は適当に切り上げる。

 星周は、ふっと息を吐き出して視線を外し、「なるほどね」と呟いた。

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