第19話 声なき呼びかけ

「高槻さまは、本当にダンスがお上手でいらして。男子学生には書生崩れも多いでしょう、踊れるひとなんてそうそういないかもしれないと思っていましたが、杞憂でしたわ。明日もよろしくお願いしますね」


 ダンスの練習時間の終わりに、菜津は敦に扮した胡桃のそばにわざわざ近寄ってきて、朗らかにそう言い放った。

 菜津が口を開くと、ぴんと空気が張り詰める。言動の強さもあって、他の女学生はおいそれと近づけない気配が漂うのだ。


(私は楠木さんとこれまで話すことがなく、あまり気づいていませんでしたが、どうも皆様から何かしら恐れられていますね。おそらく、わがままですとか、ご自分の意志を強く通そうとするところがあるとか)


 いまも「自分のお気に入りの高槻兄」に、他の女学生は寄り付かないで欲しいという態度を、堂々と押し出している。


 これでは、出会い頭の星周のつれない態度も責められないと、胡桃は実地で納得するに至った。

 菜津の強引さというのは「少しでも甘い顔をしたら、それだけ攻め込まれて領地を削られる」たとえるならそういった危機感を覚えるほどなのである。

 目的を高槻兄である敦に定めたらしい菜津は、周囲に対して何一つ遠慮することもない。

 その言い方であれば敵を作りますでしょうとハラハラするようなことも、平気で口にする。


「高槻様は、この女学校に妹御もいらっしゃるのですから、男子学生の中から悪い虫がつかぬよう見張る意味でも、ぜひ練習は皆勤で参加なさるべきですわ」


 これは、男子学生たち、とりわけ星周に対しては格別の嫌味の意図があるように思われた。

 菜津は、星周の方を一切見ずに、敦に扮した胡桃だけを見てにこにこと笑っている。胡桃としては、いささか頭痛を覚える状況だ。


(本気で悪い虫対策をするのであれば、男子学生たちとの合同練習そのものがあまりよろしくないと思いますが、これはお上の意向でしたか。楠木さんは早速こじらせていますし、それでなくとも年頃の男女が一同に会すればどうなることか。道ならぬ恋に落ちる者がそこかしこに。ほら)


 胡桃があたりを見回せば、女学生たちから一身に熱い視線を向けられているのは、まさに胡桃である。普段、女学校の中では縁が薄い相手まで「お兄様素敵……」と頬を染めて呟いている始末。


 心境としては「私、何かしましたか?」というところなのだが、声に出して言うことはできず、返答を待っている菜津に対しても、控えめに微笑むにとどめた。

 それだけで、辺りから悲鳴じみた呻きが漏れ、囁きが耳に届く。


 胡桃とて彼女たちの一員なので、その反応の意味はうっすらと思い当たるのだ。

 つまり、恋に恋をするお年頃で、素敵な相手が目の前に現れたとあらば、胸の高鳴りが抑えられなくなるのだろう。

 中身は高槻胡桃なんですけどと、よほど打ち明けて、女学生たちの目を覚ましてあげたい気持ちでいっぱいである。


「今日は楽しかったです! 柿原の若様、またね!」


 本物の敦はと言えば、裏声の演技から所作まですっかり板についた様子で、星周に天真爛漫に笑いかけていた。入れ替わり期間がつづがなく完了した暁には、もれなくいま胡桃が集めているこの視線をそのまま引き継ぐことになると、自覚はあるのだろうか。胡桃は、不思議で仕方ない。

 その横で、星周はといえば「胡桃に扮した敦」に対して実に感じよく微笑んで、頷いて見せている。


(やりすぎですよ、お二人とも。特に、兄様。胡桃にはそんな愛想はないですよ。だいたい、私がどこかの若様にそれほど露骨に媚を売ったら、兄様は大激怒ではないですか? なぜ私の姿でそれをしますか! しかも星周さま相手に!)


 引っ込みがつかなくなりますでしょうと、心の底から思っているものの、表立って妨害することもできないのが、いかにも歯がゆい。


 この二人は、合同練習の間ダンスを披露することはなかったものの、品位を落とさぬほど良い距離感で睦まじく談笑をしていて、やはりずいぶんと視線を集めていた。

 可憐で強気な胡桃(に、扮した敦)が星周にだけ見せる、明るい笑顔。

 強引な菜津にまったく取り合わず、胡桃(に、扮した敦)だけを目に入れても痛くないとばかりに甘やかな笑みで見つめる星周。

 控えめにいって、あまりにも美しいその光景は、まるで舞台か映画活動写真のポスタァを見ているかのようであった。


 男子学生たちは「敦の妹さんも、星周が相手であれば」と勝手なことを言っており、女学生たちもまた「私もいつかあんなお付き合いができたら」と、そこかしこで話し込んでいた。


 星周はおそらく男子学生の間でも飛び抜けて美しい面差しをしているが、女学生から人気を集めているとすれば、その容姿以上に、菜津に対しての毅然とした対応と、胡桃ひとりにだけ優しさを向ける一途さであろうと、胡桃には思われた。

 周りの女学生たちが彼の魅力に気づいたらしいのを悟って、胡桃の胸はざわついている。


 それでは引き揚げますと、一団となってぞろぞろ移動する男子学生たちに混ざりながら、女学校を出て大学方面へと歩き出すも、胡桃の気持ちは落ち着かないままだ。

 ふと、目の前に星周の背中があることに気づいて、無言で見上げる。


 星周さま


 声に出さずに呼びかけたとき、星周が黒髪を揺らして肩越しに振り返る。

 透き通るような瞳と視線がぶつかった瞬間、敦は隣に追いついてきた書生風の男子学生に肩を掴んで抱き寄せられた。


「敦、妹御は胡桃さんと言ったか。いやぁ、あの高飛車さは実に癖になる。ああいう嫁と賑やかな家庭を持つというのも、男冥利に尽きるのではないか」


 肩に食い込む指に、ぞわっと怖気が走る。

 すぐに、腕を伸ばしてきた星周に男子学生の手は引き剥がされた。


「俺の前で、胡桃さんへの劣情を語るとはいい度胸だ。受けて立つが?」


 異国風の服をすらりと着こなした長身の星周が、高い位置から威圧するとかなりの迫力がある。

 胡桃は息を呑んだ。

 学生は「はいはい、わかったわかった。あれだけ見せつけられちゃあね。お熱いことで」と飄々として悪びれない様子で言うと、先を行く一団の中へと紛れていった。


 最後尾で立ち止まった胡桃と星周は、遅れる形でその場に残ることになる。


(みんな、行ってしまう)


 早く行かないとと思ったところで、星周が胡桃の手を掴んだ。


「最初から、二人で抜け出すつもりでしたでしょう? これでいいんですよ、行きましょう」


 そう言うなり、胡桃の手を握りしめたまま、逆方向へと歩き出したのだった。

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