第26話 婚約とは破棄しないもの
楠木菜津は柿原家と縁があり、「異能」持ちである。
さらに言えばその押し出しの強い性格で、新入りながら女学校の生徒たちを仕切ろうという気概があり、おそらくあまり好かれてはいないが誰からも無視されにくい存在となっている。
決定的な場面を目撃された以上、下手にごまかして言いくるめたりせず、むしろ仲間に引き込めという玲の判断は、敦からしても妥当と思えるものではあった。心情的には抵抗があるとはいえ。
「俺は政府機関所属の『異能』持ちで、葉室絹というのは仮の姿。これは幻惑の異能っていえばいいのかな、本当は男だよ。いまは調査の必要があって女学校に潜入している。あっちの可愛い女の子の中身は、ご推察の通り、高槻敦くん。胡桃さんのお兄さんで、俺の助手をしている」
昼休みが終わっても教室には戻らず、校舎の裏に身を隠して玲がてきぱきと事の次第を説明をする。
菜津は腕を組んで感心した様子で話を聞いていたが、敦にくれる視線には若干の切なさがこもっていた。
「敦お兄様は、いつから入れ替わりをなさっていたのですか」
「合同ダンス練習の日は、もう入れ替わっていた」
つまり聞きたいのは「そこ」だろうと、敦はすみやかに答える。
言動の端々から、菜津がダンスの練習相手となった「高槻敦」に並々ならぬ思い入れを持っているのは感じていたが、残念ながらその相手は敦ではなく胡桃というのが真実である。
未練がましく、菜津に確認をされた。
「では、柿原の若様と一緒に私を
とても頷きにくい。
事実を的確に表現しているとはいえ、これでは敦と星周はただの意地悪な男である。自分のしでかしたことであるから、そこまでは受け入れるとしても、入れ替わりが終わった後、果たして胡桃を素直に女学校に戻して良いのだろうかという心配が、新たに浮上してきた。
全女学生に憧れられる、とは。何かのきっかけで「あのときは入れ替わっていた」など知られようものなら、胡桃はどういう扱いになることか。
(女学生たちに、胡桃が狙われる……!)
危機感を覚えて、敦は菜津に向かって言う。
「認識そのものは正しいが、吹聴しないで欲しい。僕の評判が下がるのは構わないんだが、胡桃には平和な女学校生活をまっとうしてほしいと願っている。特別視するのは、好ましくない。そもそも、入れ替わり自体がひとに知られてはならないことなんだ。事情を打ち明けている君は、異例の扱いだ」
とにかく妙な言質をとられたくない一心で、敦は畳み掛ける。
菜津は真剣な顔で聞いていたが、すっと手のひらを正面にして、待ったをかけてから発言をした。
「敦お兄様は、ご自分の要求ばかり口になさいます。私に手の内を明かしつつも、ここで見たことは黙っていろとは。それはもう、ご自身のなんらかの目的完遂のため、いわば『邪魔をするな』という意味で私に協力を要求していますよね? では、私もそれに見合ったものを要求する権利があるはずです」
玲が、噴き出した。
敦は「敦お兄様? お兄様になった覚えはないが?」とよほど言いそうになったが、つっかかっている場合ではないと思いとどまる。
口を曲げながら、かろうじて聞き返した。
「要求とは?」
ごく真面目な顔をして、菜津は言い切った。
「婚約者になってください」
曲がった口が、戻らない。
「それは……つまりどういうことだ」
頭がうまく働いていないのを危惧しつつ、敦が問いかけると、菜津は憐れみのようなものを顔に浮かべて答える。
「察しが悪くて幻滅ですわ、お兄様」
「君のお兄様ではない」
「話の腰を折らないでくださいませ。つまり、中身がどちらだったとしても、全女学生が憧れているのは『敦お兄様』なのです。私の婚約者だったら、私にとってこれほど面白いことはないですよね?」
「面白……君にとって……僕は」
もはや玲は、腹を抱えて笑っている。
面白さだけで婚約者の指名を受けた敦は、うんざりとして目を閉ざした。
勝手にしろと言い捨てたいところだが、何しろ相手は「異能」においては名家であり、高槻家との婚約も「突飛ではない」ところが、厄介である。
婚約というのは結婚の約束なのだから、よほどのことがない限りはそのまま結婚するということだ。
敦と菜津が。
ため息をこらえて目を開き、敦は菜津を見据えて言う。
「星周に対するあてつけとして、僕が理に適った相手であるのは認める。それにしても、やりすぎだろう。婚約を破棄できなければ結婚まっしぐらだぞ」
「破棄の必要が? お兄様は、私と結婚したくないということですか?」
「……っ!!」
話が噛み合わない。
いったい菜津は何を言い出したのだと、敦は言葉に詰まってしまったが、横からすかさず玲が口を挟む。
「頓珍漢なことを言っているのは君だよ、敦くん。婚約したら結婚をする、破棄前提の婚約などありえない。高槻家と楠木家といえば、なんの問題もない良縁じゃないか。いったいこの流れの、何にひっかかっている?」
「なんでいま、不思議そうに聞いてきた? ひっかかるだろ、すべてに」
明らかにおかしな道筋が出来上がっていて、進めば落とし穴があるのは確実だろうに「道はひとつだろ」と、いつの間にか二人がかりで詰め寄られている。どうなっているんだ? と思いつつも、とっさに言い返すことができなくなった敦は、どこから間違えたのか順を追って考えようとした。その繊細な思索を、おとなしく待つ二人ではなかった。
「敦くんをからかうのは、このへんまでとして。潜入捜査の内容なんだけど、どうも妖魔に協力している人間がいるらしいんだよね、この女学校の中に。誰か心当たりないかな? 直感的に、話してみて変だなと思った相手はいなかった?」
しれっと、機密すれすれの内容を口にする玲。言い過ぎではないかと焦る敦を差し置き、菜津は「変……」と呟き、周囲に視線をすべらせてから、声をひそめて言った。
「図画の松方先生は、変わっていると思いました」
それまでの人を食ったような態度が一転して、緊張感のある表情をする。敦は思わず居住まいを正したが、玲は飄々とした口ぶりのまま笑顔で問いを重ねた。
「どういう意味で?」
わずかに逡巡してから、菜津が答えた。
「私、見てしまったんです。松方先生は、恐ろしく不吉な絵を描くんです。ご覧になってみるのが早いと思いますわ。暗黒に沈む夕暮れのような、別世界の太陽のような……」
自分が見た「絵」について、菜津は適切な言葉を探すように表現を重ねていく。そして、首を傾げながら「とにかく見てみるのが早いです」と言って、続けた。
まるで異界への門のような、暗い絵を描いているんです、と。
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