第4話 その告白は、予想外 

 そして妖魔は言ったのだ。


“助けてくれてありがとう”

“人間、大好き”

“本当は、戦いたくない”

“ぼくを殺して”

“弱点はここだよ、ほら、早く!”

“もう誰も傷つけたくない! 君の手でぼくを殺して!”


 その言葉に嘘偽りのない純粋さを見出し、すっかりほだされた退魔師は、妖魔へと微笑みかけて、無防備に両手を広げた。


「『殺せるわけがない。君と私はもう、友だちだ』」


 高槻敦たかつきあつしは、目の前で楽しげにその言葉を紡ぐ唇を見つめていた。

 語られている内容は、およそ悪夢の中でも類を見ない最悪の部類の話だった。

 しかも、悪夢などではなく「紛れもない現実」として、相手は語り始めたのだ。


(古来より、意思疎通が成功したことはないとされてきた妖魔が、怪我で死にかけていたところを退魔師に救われて、共に暮すうちに人間の言葉を覚えた。そして、己のそれまでの残虐な行為を悔いて泣き叫んだ……)


“ぼくを殺して”


 心が通い合ったと信じた退魔師は、その申し出を断った。「殺せるわけがない」と――


 敦の目の前で、にやりと唇がいびつな笑みを形作る。


「それが、退魔師の最後の言葉となった。妖魔はただ、効率よく人間を殺すにあたり、有用とおぼしき言葉を覚えたに過ぎない。両手を広げて無防備に妖魔に近づいた退魔師は、首を跳ね飛ばされて即死。そして妖魔は、しばらく共に暮らしていた彼を、ためらいなく喰った。その肉を噛み締め、甘い血を啜りながら思ったのは『存外に楽な狩りだった。これからはこの方法でいこう』ということだ。そして、以降そうした。つまり、言葉を覚えて人間の世界に溶け込むという――」


 近年、妖魔との遭遇率は目減りしている。その理由は、表向きには「討伐が順調に進んだ結果」とされており、より詳しい情報を把握している研究機関内でも「個体数の減少」「異界との門が閉じたのではないか」などと言われていた。研究機関と連携し、ある程度最新の情報が下りてくる帝国大学に在籍している敦は、そこまでを事実として把握している。


 しかし、目の前の男は敦に、それは正確ではないと言い放ったのだ。

 妖魔はただ、戦略を変えたのだ、と。


「心は妖魔のまま、決して人間の情を解すことなく、人間の姿をとって人間の言葉を話しながら、人間の隣で暮らしているものがすでに、大勢いると」


 確認するように敦が繰り返すと、「大勢かどうかはわからないが、可能性としては、十分にあり得る」と男が答えた。


「楽に狩れるなら、誰だってその方が良い。警戒されぬよう近づき、食べたいだけ食べる。運が悪ければ、見つかって戦闘になる。だけど、今のままうまくいけば、そうだな。まるで『人間同士の痴情のもつれ』みたいに状況を整えるすべを備え、自分が関与した痕跡すら残さぬ妖魔も、出てくるんじゃないか。だってほら、人間と妖魔は戦っているわけだけど、べつに人間同士だって『一枚岩』じゃないし、仲が悪い個体もたくさんいるだろ? 妖魔が関与せずとも、人間同士が殺し合うことくらい、普通に起こり得るわけだから」


 くすくすくす、と楽しげに笑っているのは、葉室絹はむろきぬによく似た青年である。

 ふわふわとして陽に透けるような茶色がかった髪に、舶来品の人形めいた甘い顔立ち。垂れ目がちで、左目の下の泣きぼくろが妙にあだっぽい。長身に縦縞の三つ揃えをぴしりと着こなした姿は様になっていたが、敦からすれば兄として男として妹の胡桃に近づけてはいけない類の人間だ、との危険な匂いを嗅ぎ取らずにはいられない。


 こんな男と、胡桃の姿のまま二人で甘味処にしけこむなど冗談ではない、というのが正直なところであるが、絹との待ち合わせの場に現れて「絹の兄のれいだ。王様の『王』に、命令の『令』と書いて玲だよ。絹は所用で来られなくなった。敦君に、伝言を預かってきた。まずはお茶でも」と誘われたのだ。


 敦としては「人目もありますから、胡桃の姿で男性と二人というわけにはいきません」と、帰ろうとしたのだが、見越していたように「君が調のはわかっているんだ。知りたいことを教えてあげるよ」と引き止められてしまい、やむなくお茶をすることになった。

 そして、絹の秘密話を始めるような雰囲気のまま、甘味処であんみつを食べながら、さきほどの話が始まってしまったのだ。

 即ち、妖魔はすでに人間社会に入り込んでいて、君の隣にもいるんだよ、と。


(……よく食えるな)


 玲は、血なまぐさい話をした後とは思えないほど気楽な様子で「このクリーム最高」と言いながらあんみつを頬張っている。一方の敦は、添えられた匙を手にすることもできないまま、黙り込んでいた。

 その様子を目にして、玲はおっとりと笑った。


「本当にかわいいよね、胡桃のお兄様。今すぐにでも、食べてしまいたいくらいだ」


 敦は、げんなりとした表情で「あのなぁ」と口にする。いつもなら、胡桃の姿で人目のあるところでしとやかさに欠ける言動はげんに慎んでいるのだが、このときばかりは素であった。


「玲お兄様の『食べる』は、不穏過ぎましてよ。まるで『人間の暮らしに溶け込んでいる妖魔』なるものが意図する意味合いの方にしか、思えませんわ」

「ん?」


 きょとん、とした顔で玲は目を瞬いた。

 それから、とろけるような笑みを広げて敦を見つめて言った。


「似たり寄ったりだけど、一応私は人間のつもりなので、食糧的な意味合いではなく性的な意味で言っているよ」


 ぶちり、と堪忍袋の緒が切れて、敦は勢いよく立ち上がる。


「正直に言えば良いという意味ではなくてよ! 胡桃にそんな汚らわしい言葉を聞かせようっていうなら、この僕が相手になるからな!」


 冷静さを失ったせいで、言葉が乱れた。

 大声と動作のせいで周囲のテーブルから視線が集まり、それに対して玲は「なんでもないです」とばかりの余裕のある笑みを振りまいてから、敦に向き直った。


「私は敦君でも全然いいよ。相手してくれるんだ?」

「曲解するな阿呆。相手をするというのは、決闘の意味以外にない。胡桃を卑猥な目で見るな、汚らわしい」

「君は敦君だろ? 私はいま、敦君に卑猥な視線を向けている」

「詭弁はよせ。胡桃の姿をしているときは、僕に向けられる視線は胡桃に向けられているのと同じだ」


 中身は敦とはいえ、胡桃の姿のときに近づいてくる男は、兄として許しがたいのであった。しかも、聞くに耐えない冗談を口にしたとあらば、本物の胡桃と出会う前に速やかに討ち取ろうと算段をする程度には、苛立つ。


 その意味では、洒落た着物に袴姿で可愛らしく着飾った胡桃の姿で出歩くというのは、胡桃を周目に晒す危険と隣合わせだ。そうと知りながらも、敦から胡桃に頼み込んで絹との密会デートを口実に縁をつないできたのは、玲が言い当てたように「絹を探っていたから」に他ならない。


 心配させぬよう、胡桃には「恋仲だ」と言い、絹に対しても不審ではない程度の対応をしてきたつもりであったが、敦の心情的には甘やかさとは無縁の関係であったのだ。


 葉室絹には、なにか大きな隠し事がある――


 火災の折、縁あって高槻の家に絹を迎えて数日接しているうちに、敦は確信した。絹の所作には、訓練を受けた者特有のそつのなさがあったし、会話の端々には相手を探る諜報員のような質問がさりげなく入りこんでいた。

 ただの女学生とは、到底思えなかった。


 彼女が胡桃の「親友」であることを危ぶみ、自分も接点を失わないようにと「恋人」の立ち位置を志願して、その目論見を探ることに決めた。

 とはいえ、決して不快感を与えぬよう礼を尽くしてきたつもりであった。

 だが、敦の企ては絹に気づかれていたらしい。

 密会デート三回目となる今日この場に本人ではなく、玲が来たのがその証だ。


 そこまでは敦にも思い当たるところはあったのだが、およそ玲の始めた打ち明け話が想像とは違いすぎて、対処に困っているところであった。

 まさか、現代における妖魔の実態が主題になるとは。

 藪をつついて蛇が出た、どころではない。


(これが本当なら、大変な話を聞いてしまったことになる……が。なぜいまこの話を。このひとが?)


 そもそも葉室玲なる人物は信用できるか否か、そこからであった。


「まず、座ろうか?」


 玲に促され、敦は舌打ちをしたい気分ながらも椅子に腰を下ろして、玲と向き直る。


「先程の話は、なかなかに興味深い内容であったと思います。ただ、どうして私にそれを話すことに決めたのか、そこをお聞かせ願えませんか」


 湯呑みで茶を飲んでいた玲は、特段引っかかった様子もなく「うん」と頷いてから「絹を探っている君には、人間に成りすました妖魔について打ち明けてしまうのが、手っ取り早いと思ったんだ」と今までになく不穏な前置きをして、続けた。


「妖魔の側にもそれなりに頭を使う者がいてね、真っ向からぶつかり合うよりも、もっと根本的に完全に人間の抵抗力を削ぐ方法を考え始めた。……なんだと思う?」


 胸を黒く染め抜く不安に表情をくもらせながら、敦はぽつりと答えた。


「『異能』を奪うことだと、思います。長期計画が可能なら『異能』を持つ子が生まれぬように人間の世界に溶け込み、策を張り巡らせて、反撃されぬ状況を作り上げたところで一気に侵攻する」


「ご明察」


 敦の回答を耳にして、玲は満足げに笑う。

 口にするのも嫌な可能性を言葉にしてしまったことで、敦はこめかみに脂汗をにじませつつ、青い息を吐き出した。


(妖魔の出現率はたしかに減り続けているんだが、『異能』も生まれにくくなっている……。無理な「掛け合わせ」や、現実的な利益を第一にし継承を無視した縁結びの弊害だとして、減り続けたときに大攻勢があったらたまったものではないと、危ぶんでいた……)


 それゆえに、敦は政府の異能管理部門を進路にと考えていたのだ。異能を持つ一族の者の中には、緊急の呼び出しも少なくなってきたこの時代、築き上げた財に物を言わせて事業に色気を出す者も多い。だが、敦は古式ゆかしい義務感から、依然として対妖魔戦略こそが異能持ちの優先すべき責務と考えていた。


 玲の話は、その敦にとって、まさに求めていた「妖魔側の最新情報」と言って良い。

 しかし、すぐさま真に受けるわけにはいかない。

 つまり「玲の情報源はいったいどこなのか」だ。

 胃が、とても痛い。


(いまこの場で雌雄を決するのが、最善手とは思えないが)


 ただ一つはっきりしているのは、話を聞いてしまった以上「また次の都合のよろしいときにデートをと、絹さんにお伝えください」と言って何もなかったように解散するわけにはいかないということである。


 敦は、腹をくくって尋ねた。


「それで、玲お兄様、並びに葉室一族とは、いったい何者なんですか?」

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