第22話 「最後の...」
少し冷えた風が残された二人の間を抜ける。時折住宅街を通過していた、高校生達や散歩をする人たちはいなくなり、より一層静かな空気が流れていた。足元に枯葉が落ちてきて、それをしばらく眺めていた。陽子と愛那、二人の話を思い出し、自分の記憶とすり合わせては過去を紡ぎ直していく。もちろんそれでも埋まらない記憶、身に覚えのない話は尽きなかった。その不思議な感覚に友郎の頭は整理が追いつかない。
しばらくして、陽子が口を開いた。
「チケットのこと、信じた?」
「……うん。最初はよくわからなかったけど、ここ最近の記憶がなくなる感じ、片頭痛とかの原因がわかってやっとスッキリしたっていうか……。本当にそんなことがあるんだね。しかもまさか自分も使ってただなんて……」
彼女はクスッと笑った。
「そうだね。トモくんもよく見つけたね、あの駄菓子屋」
「……たしかに、なんで見つけられたんだろう……」
「――っていうか私に使って欲しかったなぁ……チケット」
「――えっ、あぁ……ごめんね……」
「うそうそっ! トモくんも記憶ないもんね」
友郎はバツが悪くなり頭を掻いた。
「時間、大丈夫?」
「私は平気だよ。ママには伝えといたし、パパも今日は遅くなるみたいだから。トモくんは?」
「俺も全然大丈夫だよ」
「――……ちょっと、最後にデートしよっか」
二人は立ち上がり、公園の外周を歩き始めた。
陽子の長い髪が風に揺れ、細くなった頸うなじが見え隠れする。やっぱり、写真で見た時と同じように懐かしさと、大切な人だった面影を微かだけど感じる。
――この子が、俺の彼女だったのか……。
その整った横顔に改めて魅力を感じ、惚れ惚れとする。
「――俺はさ……」
「うん?」
「俺はどんな彼氏だった……?」
彼女はまた前を向き直して、小さく笑った。
「トモくんはね……、純粋で真っ直ぐで、優しくて……、少しバカっぽいとこがあって」
「え……?」
「あははっ。でもね、そこもすっごく良いところなんだよ。上手く言えないんだけど、すごく大好きだったんだ……」
改めて言われると、友郎は照れてなにも返せなかった。
「こういうのって、時間が経つとその時の気持ちだったり、思い出だったり、忘れていくものだと思ってたの。だから別れてもへいきだろうって思ってた」
「うん……」
「でもね、チケットのせいかわからないけど、どれだけ時間が経ってもトモくんのこと、全然忘れられなかった……。毎日一緒の電車乗ってることもわかってたし、愛那ちゃんがトモくんのこと好きなこともわかってたし……。私、すごく辛かったんだ……この約3年間。でも、自分で決めたんだ。私の大切な人を悲しませたくない、私の大切な人の人生の足枷になりたくないって」
「そんな……足枷だなんて――」
「ううん。大切なトモくんには、これから来る明るい未来だけを見ていて欲しいから……私は……私はもう……死んじゃうから……」
「そんなことっ……そんなこと……言わないでよ……――」
彼女の声は湿気っていて、こぼれ落ちないように空を仰いでいた。友郎も、必死で涙を堪えた。彼女との最後の時間は、せめて明るい雰囲気でいたかった。
「ごめんね……またこんな話……」
「ううん……」
「ねぇトモくん、手……繋いでもいい……?」
「うん」
友郎は差し出された手を優しく握った。今の友郎にとって、初めて触れた女の子の手の感触に驚いた。すごく暖かかったが、それ以上に、細かった。
握られた手を見て、彼女はとうとう泣き出してしまった。大粒の涙が彼女の頬を伝い、うつむいて肩を揺らし泣いた。
「うぅっ……ひぐっ……」
鼻をすすり、声にならない声が漏れていた。きっと、付き合っていた頃の思い出が、想いが蘇ってきたのだろう。友郎は抱きしめたくて堪らなかった。しかし、感覚では初対面という意識が強かった。もう片方の手を、その細くなった背中に回すことが、できなかった。
少しして、必死で涙を飲み込んだ彼女はハンカチで顔を拭いた。
「ごめん、ごめん」
と言い、改めて手を繋ぎ直した。その細い指で、さっきより強く握られている気がした。こんな時でも、友郎はドキドキしてしまっていた。彼女はふぅっと溜め息のような深呼吸をし、また、ごめんね、と謝ってきた。二人は公園の正門にたどり着いた。
「ねぇ、私北高に行ってみたい」
「え……? 今から?」
「うんっ。いいでしょ? 最後のわがままっ」
陽子は大人びた風貌とは裏腹に、無邪気に笑う少女のような表情を見せた。
「トモくんが、どんな学校に通ってるのか、知りたい……」
「うん……わかった」
白葉種公園から学校までは歩いて七、八分程だった。道中には特にこれといってなにもなく、ただ住宅街を沿うように歩道を歩くだけの一本道だ。強いて言えば地元の知らない中学校の前を通る程度だった。
「特に、この辺はなにもないよ? 西高は駅が近くて色々お店とかあると思うけど……」
「――いいの。一緒に歩ければそれだけで充分だよ」
「そっか……」
繋ぐ手が、友郎にとってはまだ新鮮で、なかなか慣れなかった。
「あのさ……」
「うん?」
「俺たちの、その……最後のデート? 俺にチケットを使った日、どんなデートだったの?」
彼女は可愛らしい目を見開き、恥ずかしそうに下を向き答えた。
「――言わないっ……ていうか秘密!」
「えっ? なんで?」
友郎は思わず吹き出してしまう。
「なんででもなの! とにかく言わないからね!」
彼女はなぜか恥ずかしそうにしていて、その仕草も口調も、すべてが可愛くて、愛おしくなってきた。
「わかったよ……」
諦めつつも、笑ってしまった。
高校まであと少しのところで、長めの坂を登る。心なしか、彼女の足取りが重く、息も荒くなっているように感じる。
「――大丈夫?」
「うん……平気……ありがとう」
多分、さっき言っていた病気のせいだろうと思い、友郎は繋いでいた手を離すと、彼女の背中に回した。そして反対の手で彼女の手を再度握った。
――こんなとき、なにが正解なのかわからない……。背中をさすっても痛くないよな? それとも肩を貸すべきなのだろうか……。
「トモくん……大丈夫だよ。ありがとうね」
彼女が強がっているのかどうかも、友郎にはわからない。彼女の性格や雰囲気、言葉のニュアンスさえも記憶から消えていてもどかしかった。彼女の発する言葉、仕草の一つひとつに神経を尖らせ、彼女の気持ちをできるだけ汲めるように努めた。
「トモくんは、本当に優しいよ」
友郎の気持ちを察したのか、陽子の言葉に心が少し救われる。別に「優しい」と言ってもらいたくて接しているわけではないが、気持ちが伝わったことが嬉しかった。
二人は秀桜北高校の裏門にたどり着いた。二十時を回っていたが、職員室の明かりがまだ点いていたため正門は避けることにした。
「越えられそう?」
友郎は少し低めな門の上を軽く叩く。
「うん、やってみる。これでも元バスケ部だからねっ」
得意げな声で答え、陽子は両手をついて片足を門にかけた。やはり思うように力が入らなかったのか、体が持ち上がらず上手くいかない。こんな時、背が高くてよかったと思った。彼女の腰を支え、越えるのを手伝った。
「ごめんね……ありがとう。こんなのも登れないの、情けないよね……」
「ううん、そんなことない。気にしないで、仕方ないじゃん」
目の前に体育館があり、左手にグラウンド、右手に校舎があった。
「体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下のね、ここの鍵がいつも閉まってないんだよね」
友郎はそう言うと、校舎に入るスライドのドアに手をかけた。溝に砂を詰まらせたドアが、小さく音を立てながら横に動いた。
「ほら、やっぱり開いた」
「すごいっ! 中に入れちゃうね!」
陽子は小声で喜んだので友郎も得意げな表情をした。靴を手に持ち、靴下で中に入った。
職員室以外の照明は消えており、外からの月明かりと街灯の明かりが、廊下の窓からぼんやりと差し込む。
「なんか、めちゃめちゃドキドキするねっ」
「んね……。バレたら退学かな……」
二人はなるべく音を立てないよう階段を上がった。
蛇口の締めが緩いのか、目の前のトイレから水滴の落ちる音がリズムよく聞こえ、夜の学校の不気味さに拍車をかけた。陽子の、友郎の腕を掴む力が強くなったのを感じた。友郎は気づかないフリをして説明をする。
「俺たちの教室がね……この隣で……、このロッカーが俺のだよ」
廊下に設置されたロッカーの『青木』の文字を指さす。
「ほんとだぁ……」
周りを確認しながら教室に入る。
「それで、D組の……ここが俺の席」
そう言って、音を立てないよう椅子を引き、彼女に座るよう促した。
「ここが……トモくんの席か……そうかぁ」
そう言って机を両手で優しく撫でた。
彼女は、一つひとつに感慨深そうな返事をしていた。噛み締めるように、記憶の隅々に焼き付けるように、目に映る景色を必死に体に取り込んでいるように見えた。
「あっ、ちなみにあそこが憂樹の席ね」
斜め前の方の席を指差した。
「そうなんだぁ……。不思議だな、二人はほんとうに同じ学校なんだね……」
「しかも同じクラスっていうね……すごいよね」
「うん……二人には、ずっと友達でいてほしい」
「そうだね。そのつもりだよ」
彼女はおもむろに立ち上がると、教室内を歩き始めた。
「トモくんと同じ高校だったら、どんな学校生活を送れたかな」
「きっと色々と釣り合ってなくて、周りから揶揄われたかもね」
「――そんなことないよ。それにそんなこと関係ないよ。トモくんと一緒にいられたら、一緒に生きられるのなら……周りのことなんでどうだっていい……」
今朝まで自分の人生に彼女なんていた記憶がない友郎にとって、彼女の言葉はとても現実とは思えないほど、嬉しくて胸を打つ響きだった。
「私ね……、さっきも話したけど、中学一年生くらいから男の人が苦手になっちゃっててね。恋愛とかもってのほかだって思ってたの。でも、トモくんには不思議と心が開けて、こんなに好きになることができたのね」
「うん……」
「もし、トモくんに出会っていなかったら、私、人を好きになったり、こんな幸せな気持ちを知ることなく死んでたと思うと……、本当トモくんには感謝でいっぱいになるんだよ」
カーテンの開いた窓ガラスから、月明かりが彼女の横顔をほんのりと照らす。
彼女から放たれる言葉の一つひとつが、友郎にとってはスケールが大きすぎる話で、正直自分のこととして捉えることができなかった。だが、その気持ちを理解することはできた。
「そんな――……、俺なんか……」
「ううん。トモくんは充分素敵だよ」
時折こちらを見てニコッっと微笑む。
「私ね、勉強だって人一倍頑張ってきたし、スポーツだって誰にも負けないように努力してきたつもり。正直私は結構努力家だって自負してるの。そんな私が言うんだから間違いないよ」
また少女のような笑顔で、得意げな顔をした。
「ありがとう……」
ゆっくりと友郎に近づいて、両手を握った。彼の目をじっと見つめ、すぅっと口を開いた。
「私の分も……生きて……。あなたの記憶を失くしてしまったのは私だけど、私の中ではあの日々が、あなたとの思い出がずっと生きているの。二人で過ごした過去は、トモくんと私にとって紛れもない事実で、永遠なの」
力無い両手が小刻みに震えていて、大粒の涙がポタポタと落ちる。
「どうか……私の分も一生懸命生きて? 本当はトモくんの人生の……、記憶の片隅に置いておいて欲しかったけど、気にしないでね……。一生懸命生きてくれたら……、それだけで私は報われるから……」
今にも消えてしまいそうな、頼りない細く湿気った声が、教室の床に落ちる。友郎は握っていた手を離し、細くなった肩を抱き寄せた。
「俺も……――」
陽子が顔を上げる。
「俺も、もっと陽子ちゃんと一緒にいたかった。もっと、君のことを知りたかった……。こんなに可愛くて、優しくて、友達思いの子が……本当に俺の彼女だったなんて、今でも信じられないよ……」
話していて、目の奥が熱くなるのがわかったが、溢れ出るものが止められなかった。
「俺はきっと……というか絶対、幸せ者だったと思う……。こんなに素敵な人が毎日そばにいてくれたなんて……。俺はその分君を……陽子ちゃんを幸せにできてたかな……? 君はちゃんと幸せだった……?」
「うん……。本当に、すっごく幸せだったよ……」
「――……そっか……」
「私にとって、最初で最後の恋人。短かったけど、幸せな人生だったなぁ……ありがとうね」
帰り道、同じように門を越えて駅へと歩いた。
「夜の学校、怖かったね……」
「――あ、うん俺も怖かった……」
今夜学校に行ってみて、可愛い子と来る夜の学校はあまり怖くないということと、意外とすんなり校舎に入れてしまうことがわかった。
「でも、楽しかった。トモくんと同じ教室に、少しの時間だけど居られたことがすごく嬉しかった。わがまま聞いてくれてありがとうねっ」
「――うん……」
「こうやって、またトモくんと話すことができて、本当に幸せ者だなぁ、私……」
彼女と話していると、自分も捨てたもんじゃないなと思えた。友郎は、自分に少し自信が持てるようになっていた。
二十一時半を回っていて、この時間の電車は少しだけ空いていた。隣同士で座れる席を探し、一つ隣の車両で腰を下ろす。友郎はふいに彼女を壁側へ座らせた。
「そういうとこだよ、トモくんっ」
陽子が嬉しそうに笑いかけてきた。
「――えっ、なにが?」
「きみが『優しい』と言われるとこっ」
「あぁ……そうなんだ……」
友郎は嬉しかった。また少し、自分への自信に繋がった。
――そうか……。きっと、この子がいたから今の俺があるんだ。この子がいたから勉強も頑張れて、手の届かなかった高校にも行くことができて、この子がいたから、中学生時代が楽しくて、塾が楽しかったんだ……。自分に自信を持つことができていたんだ……。なんだよ……俺は与えられてばかりじゃないか……。たくさんの幸せと、充実した人生を……もらっていたのは俺の方だったんだ……――。
電車は陽子の住む黄水仙駅に到着した。彼女は少し眉をしかめて携帯を見ていた。
「パパが……、今もう駅に迎えに来てるって……」
「えっ、そうなんだ……。家まで送ろうかと思ったのに」
「うん、私もお言葉に甘えちゃおうって思ってたのに……」
彼女は小さくほっぺを膨らませていた。
「陽子ちゃん……、俺さ……、デートこそもうできないかもしれないけれど、その……最後まで君のそばにいるよ。……というより、そばにいさせてほしい。こんなことしかできないけれど、毎日連絡だって取れるし、毎朝電車で会えるし、デートってことにしなければいつだって――」
そう言って友郎は言葉を失った。
――……デートって……彼女は『最後のデート』って……言・っ・て・た・……。
「――あっ……そんな……どうして……」
察した友郎は慌てて彼女の腕を掴んだ。
それを見て、彼女は切なそうに微笑んだ。
「ありがとう、トモくん。そう言ってもらえて、本当に幸せだよ、私」
「どうして……陽子ちゃん……」
「私、決意したんだよ。絶対、トモくんのこと悲しませたくない、傷つけたくないって。トモくん優しいから、きっとそう言ってくれると思って、さっき『デート』って提案したの」
電車が去り、静かになったホームには二人だけだった。友郎は言葉が出なかった。
「本当はね? 私の存在とか、チケットのこととか、絶対言わないようにしようって心に決めてたの。だから、少しだけ辛い思いをさせちゃってごめんね。明日から……一日でも多く、幸せな日々を築いてね? ずっと、私は永遠に青木友郎くんが……大好きだよ」
彼女を強く抱きしめ、友郎は声を出して泣いた。彼女の気遣いが、優しさが、愛情が痛いほど胸を苦しめた。こんなにも華奢で、震えていて、きっと想像できないほどたくさんの無理をしてきたはず。たくさんの辛い思いを独りで抱え込んできたはず……。辛くて、苦しくて、上手く声が出なかった。
「陽子ちゃん……ありがとう……。俺と付き合ってくれて、愛してくれてありがとう……。こんなことしか言えないけど、たくさん頼りなかったかもしれないけど……――」
「――全部ひっくるめて大好きだよ、トモくん。君ならきっと素敵な人に出逢える。この元カノの私が……自信を持って保証するよ」
「――うっ……うぐっ……」
陽子は友郎の腕を優しく解いた。
「もう、行くね……。パパ怒るとうるさいからっ」
そう言ってまた眉をしかめ笑った。
「うんっ……ありがとう本当に……俺……陽子ちゃんのこと……大好きだから……」
それを聞くと、陽子は友郎の襟を掴んで引き寄せ、キスをした。友郎にとって最初のキスで、陽子にとっては最後のキス――。
彼女は最後まで涙を見せることなく友郎のもとを去っていった。
友郎はしばらくホームのベンチに座って泣き、陽子は一人、家までの道を泣きながら歩いて帰った――。
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