第20話 「愛那の葛藤」
2022年4月11日(月)――
雨こそ降らなかったが、入学式にはあまり相応しくないほどに、厚めの雲が空を覆っていた。気温は15℃前後だったが、早くも湿度が高く感じる気候だった。
慣れないブラウスがまだ固く、緊張や不安、期待が入り混じった複雑な足取りで、愛那は小藤町駅の階段を登っていた。
彼女が緊張していた理由はもう一つあった。今ホームに入ってきた、これから乗る電車に友郎も乗っているということを、昨日の本人とのやりとりで知っていたからだ。扉が開いて乗り込むと、約束通りの号車に彼が乗っていた。
「あ、おはよう。友郎くん」
「おー、おはよう。制服……似合ってるね」
「えっ――ありがとう……」
愛那は素直に嬉しかった。学校は違えど、こうやって一緒に通学する事ができることについても、罪悪感を感じつつ内心は喜んでいた。
「あのね、次の駅で
「あ、そうなんだね」
お互いに記憶を失くしているとはいえ、陽子と友郎を会わせることは、なるべく避けようと心がけた。二人の記憶が
「憂樹と同じ学校、なんか変な気分だなぁ。同じクラスになれたらマジ最高だなぁ」
「たしかにねぇ! 愛那も陽子と……」
「……?」
「――じゃなくて憂樹と友郎くんと、同じ学校行けたら楽しかっただろうなって!」
「そうだね。そしたら同じ塾同士で、友達も困らなそうだもんね」
憂樹とは使用する路線が異なるため、友郎とは特に待ち合わせはしていないようだった。
車内のアナウンスが、次の駅に近づいていることを知らせ、電子掲示には「黄水仙」の文字が点滅していた。
「あ、じゃあ友達くるから向こう行くね」
「おう、またね」
「うんっ、また明日!」
愛那は軽い足取りで隣の車両へ移動し、約束通りの号車に乗り込む陽子と合流をした。
「おはよう。愛那ちゃん」
「おはよう、陽子っ。今日から高校生だねっ」
そんな日が数日続いた。愛那の中で、陽子に対する親友という気持ちは日を増すごとに強くなり、それと同時に友郎への想いも強くなっていった。
「おはようトモくん」
さりげなく、呼び方を変えてみた。
「おう、おはよ」
「昨日愛那、寝ちゃって連絡返せなくてごめんね?」
「えっ、いや全然……俺は大丈夫だよ」
この一駅だけの時間が、愛那は大好きだった。もっと彼と一緒にいたいと思うようになった。
「トモくん、今日学校終わったら暇?」
「えっ? まぁ暇っちゃ暇だけど……」
「ほんとっ? 遊ぼーよっ」
「えぇっ……憂樹に悪いよ……なんか……」
友郎は眉をしかめ苦笑いをした。
「憂樹とは……もうとっくに終わってるし、今はただの仲良しな友達だもん」
「でも……俺愛那ちゃんも大切だけど、憂樹のことも大切にしたい。多分、アイツは良い気はしないと思うから……」
「……そんな、ただ遊ぶだけじゃんっ。――まぁでも今日じゃなくてもいっか」
愛那は笑ってみせたが、内心は少し辛かった。自分にとっても憂樹は大切な人で、でももう恋人としては見れなくて……。陽子も大切な人で、でももう友郎との記憶はなくて……。条件は整っているようでいて、それでもなお、お互いの心の中に突っかかるわだかまりがある。なにが正解でなにが間違っているのかわからなくて、もどかしくなっていた。
それでも、愛那はアプローチを続けた。毎晩連絡も取り続けた。
【明日の放課後はどうかな……?】
【土曜日なにしてる? 杉ノ宮に帰ろうかなっておもってるんだけど――】
【カフェだけでも……どうかなぁ】
【中間テスト始まるねぇ……。そうだっ一緒に勉強しない?】
友郎からの返事は決まって「憂樹に悪い」だった。
ふぅっと溜め息をついて布団に沈む。
――友郎くんは本当に優しい。
断られるのは辛かったが、その断る理由すら友郎の良さが表れていて、より彼を好きになる要素となっていた。記憶を失っているとはいえ、元カノである陽子に相談するのはさすがに気が引ける。誰にも打ち明けられない悩みを抱え、目を閉じた――。
愛那はその晩、夢を見た。
白い空間、壁も天井もなくただ白い空間に彼女はいた。目の前には直視できないほど眩い光が差し込んでいて、それは願いを叶えてくれる神様のような存在だった。彼女はその存在に願った。
「神様……。友郎くんと……一度でいいので、デートをさせてください……――」
すると場面はいつの間にかどこかの公園のような場所になっていて、隣には友郎がいた。当たり前のように、恋人同士のように、手を繋ぎあって歩いていた。動物園のような、遊園地のような、大きな公園のような、緑が広がる草原のような場所。二人は笑顔で、雲ひとつない空が眩しかった。
そこにはなんのわだかまりも、しがらみもなく、ただ幸せな時間が流れていた――。
気がつくと朝だった。
眩しい日差しが窓から降り注ぎ、部屋の隅までをも照らしていた。起きてすぐ、彼女の頭をよぎったのはアレのことだった。
「チケット……。使えばいいんだ……」
なんて幸せな夢だったのだろう。現実では考えられない光景だった。でも、現実に叶えられる方法があったじゃないか。思い立った彼女はその日の放課後、小藤町の土手を目指した。
陽子の言っていた通り、小藤町駅から土手は割とすぐで本当に綺麗な景色だった。澄んだ空気、緑一色の坂、煌めく川と赤い橋。
「そっか……向こう側に友郎くんは住んでるのか……」
近いようでいて遠い存在。そんな彼との距離を縮める方法が、ここにある。とりあえず川に沿って歩いてみると、土手を住宅街側へ下った先に古い建物を見つけた。
愛那は駄菓子屋の老婆にことの顛末てんまつを話した。詳細までは話さなかったが、全部見透かされている気もした。今まで誰にも話す事ができなかったことが、涙と共に溢れ出してくる。大切な人を傷つけた事、親友を傷つけた事、それでもなお叶えたい想いがあること。もう、これ以上のことは望まないと決め、チケットを買った。
「優しい子なんだね、その子は」
老婆は優しい笑顔を見せた。
「はい、とても」
老婆に礼を告げ駄菓子屋を後にする。これが今の自分に与えられた、最善の方法だった。これで綺麗さっぱり忘れて、前を向く事ができる。そう思っていた。
「トモくん……今度の土曜日、私とデートして欲しいの……」
チケットに名前を書いた翌朝、雨のせいか通学中の電車は少し混んでいて、二人の距離はいつもより近かった。普段とは違う緊張と、梅雨による湿度のせいで身体が蒸れていた。
「――……うん……いいよ……」
嬉しかった。何度も断られていた分、その一言だけで泣きそうになる。これで、楽になれる。願っていた返事が聞けて、安堵の息が漏れる。
「ほんと……?」
「……うん。たくさん誘ってくれたし、嬉しかったから……」
「……よかった……。あっそれじゃあまた連絡するねっ」
そう言って他の客の間を縫って隣の車両へと移動した。
――よかった……。これで、友郎くんとデートができる……。そして……忘れられる……。
もう、憂樹も陽子も傷つけたくない。このまま全員が幸せに生きていくにはこれが一番だと、愛那は考えていた。
2022年5月21日(土)――
今日が終わる頃、記憶が消えていると思うと昨夜はあまり寝付けなかった。そもそも友郎とデートができること自体、いまだに信じる事ができないほど嬉しいことだった。愛那は覚えたてのメイクで寝不足を隠した。
梅雨で濡れた下り電車に、約束通り友郎が乗ってきた。
「いつもと雰囲気違うね」
「あ、わかる? 可愛い?」
「――えっ、うん……いいかんじ」
「ありがとっ。よかった」
友郎と愛那の最初で最後のデート。でも別れ話があるわけでもない。今日まで知り合いで、友達同士で、愛那にとっては恋人で。でも明日からお互いに他人になる。不思議な感覚だった。実感だって湧いていなかった。記憶にこそ残らないけれど、一番可愛い自分でいたかった。
二人がたどり着いた場所は、西福寿駅だった。前にテレビで放映されていた人気のカフェに愛那は行きたかった。
「駅はたしか……東口……ひがし……あっ、こっちだ」
彼女は携帯と案内板を交互に見ながら駅の出口を探した。
「俺らの住む町とは全然違うね。駅もおっきいし、駅前もめちゃめちゃ栄えてるね……」
「んねっ! 緊張するねなんか!」
愛那は楽しくて仕方なかった。憂樹とのデートでは、デパートのゲームセンターばかりだった。それも楽しかったが、こういったデートに彼女は憧れていた。
「ちょっと歩いた先にね、お洒落なカフェがあるんだよ。前から行ってみたかったの〜」
「来れてよかったね」
「うんっ! トモくんのおかげ!」
傘をさす分、二人の距離が離れてしまうのが愛那にはもどかしかった。
たどり着いたお店には「Books Village Cooking」と書かれていた。
「ぶっくすびれっじ……クッキング?」
「うんっ。カフェと本屋が一緒になってて、本を買ったり借りたりしてカフェで読めるんだって! あとそこのハンバーグプレートも美味しいらしいの!」
愛那はテンションが上がっていた。
「でも愛那、こういうとこ初めてでなんか緊張する……」
「わかる……。俺らまだ高校生だもんな。俺もこういうとこ初めてだ」
二人は三時間もの間、そのカフェで色んなこと語り合った。小学生の時のこと、中学生の時のこと、高校生活のこと。お互いに珈琲が飲めないことや、彼はアボカドが好きだが高いからトッピングをしなかったこと、スペイン語で「明日」を「マニャーナ」と言うことを彼が昨日のテレビで知ったということ。
「これからマニャって呼ぼうかな」
「なにそれやめてよっ」
愛那は楽しくて、嬉しくて、幸せだった。でも二人には「これから」なんてなくて、幸せな気持ちと同じくらい、悲しくもなった。彼の過去の話に恋愛の話はなく、彼の中から「陽子」の存在が本当に消えていることを感じ、少し恐ろしくもなった。カフェを出る頃には、雨は止んでいた。
「また、会えるかな……」
もう会うことはないとわかっていて、それでも聞いてみたかった。
「うん、会おう。すごい楽しかった」
「よかった……。ありがとう」
電車で少し遠くのカフェへ行き、ランチを食べて語り合って解散。たったそれだけのデートだった。でも愛那にとっては今までで一番楽しいと感じたデートだった。
「今日は愛那のわがままに付き合ってくれてありがとう」
家まで送ってもらうつもりはなくて、先に友郎が電車を降りるのを見送ることにした。デートを拒んでいた彼にチケットを使ったことを、心のどこかで後ろめたく感じていたせいでもあった。
本当はもっとゆっくり話をしたかった。今日の、これまでのお礼をしたかった。最後の彼を目と心に焼き付けておきたかった。本当に明日忘れてしまっていても、ふと思い出す事ができるかもしれない。もうお互いに知らない存在になると思うと、やっぱり寂しくなってくる。チケットを使ったことを半ば後悔しつつ、これでよかったんだと言い聞かせた。
彼は何も知らない。月曜からまた、一駅分だけ愛那と一緒に通学する生活がやってくると思い込んだまま、閉まる扉の向こうで手を振っていた。電車が完全にホームから離れるまで涙は流してはいけない。
――さようなら。ありがとう。大好きでした……。
どんよりとした重い雲が空を覆っていて、一人残された愛那の心も重く沈んでいた。
カフェで友郎がトイレに立ったとき、開きっぱなしの彼の携帯から自分の連絡先とトーク履歴を削除しておいた。そして今、自分の携帯からも削除をした。以前陽子から聞いた通りのことをし、記憶を消す準備はできた。不思議と、もう心は落ち着いていた。寂しい反面、明日から悩みのない生活が始まると思うと、少し嬉しくもあった。清々しい気持ちで目を閉じた。
翌朝、カーテンを閉め忘れた窓からの眩い光で、寝過ぎたことがわかった。目を開けて真っ先に口から出た言葉は、
「……忘れて……ない」
だった。記憶が消えていなかった。自分の中に、「友郎」という存在が確かにあるのだ。昨日までとなにも変わらない、普通の日曜日だった。
――やっぱりあのチケットは嘘……? でも友郎くんと陽子は記憶が消えたはず……。
訳がわからずしばらくベッドの上で考え込んでいた。そして気がついた。
「『掟』……破った……?」
急いで携帯を確認し、その理由がわかった。あのカフェで頼んだハンバーグプレートを、愛那は数枚写真に収めていた。その背景に、ピンとこそ合ってはいないが、確実に友郎が写っていた。
「うそ……――」
――だとすると、彼の方も記憶がある……? 掟を破った代償は……?
思い立った時にはもう玄関を飛び出していた。住宅街を抜け土手まで走る。向かった先はあの駄菓子屋だった。
老婆はいつも通り何食わぬ顔で営業をしていた。愛那はことの顛末を伝えた。老婆は険しい顔をして、そして哀しそうな顔をした。
「そうか……――」
深い溜め息と、深刻そうなその目が、愛那の不安を掻き立てる。
「……あの――」
「彼の……」
愛那が口を開くと同時に老婆が話し出した。
「彼の記憶は消えてしまっておる。しかし、アンタの彼に関する記憶は今後一生消えることはない。何度彼とデートしようとも、必ず彼は記憶が消え、アンタの中の記憶は残り続ける……。それが『掟』の代償じゃ……」
「――そんな……」
愛那は友郎が大好きだった。でも、友郎は元彼の親友であり、自分の親友の元彼でもあった。だからこの恋は叶うことはなかった。でもだからと言って割り切れず、ずっと想いを抱えてきて苦しい思いをした。そんな彼を忘れたくて、チケットを使い最初で最後のデートをした。にも関わらず、彼を忘れることができなくなっただけでなく、自分は彼の記憶に残る事ができなくなってしまったのだ。ずっと一人で、叶わぬ思いを抱えて生きていかなければいけないのだ。
老婆は慰めてくれた――。
月曜日、いつもの時間、いつもの電車に乗ると、いつもと同じ場所に友郎はいた。でも、彼と目が合っても、いつもと反応は違った。挨拶も会釈もなく、携帯をただ見ていた。金曜日までとは違った世界が、そこには広がっていて、嘘のようで、夢のような感覚だった。そして、辛く苦しくなった。
こんなことなら、最初から陽子と待ち合わせする車両に乗ろう、そうしてなるべく自分の中から友郎の存在を消そう、と努めることにした。
でも上手くいかなかった――。
数日は堪えて、抑える事ができた感情も、薄れるどころか日に日に増す一方だった。
そしてある日、あの車両に乗り込み、友郎の目の前に立った。目が合って、彼は一瞬恥ずかしそうに下を向いたが、愛那は見つめ続けた。そして言った。
「――突然……すみません。私、秀桜西高校の一葉愛那と言います……。えっと、その……今度の日曜日……デートできたり……しないでしょうか……?」
精一杯の勇気を振り絞った。目は、逸さなかった。
「えっ、えっと……え? 俺ですか?」
「はいっ……突然すみません……」
彼は周囲の目を気にしつつ、どこか嬉しそうな顔をしているように見えた。
「えーっと……はい、大丈夫ですけど……」
「――ほんと? ……よかった、ありがとう……」
彼は恥ずかしそうに、でも嬉しそうな顔をしていて、それを見て愛那も表情がほころぶ。
――よかった……。また話せた。やっぱり……友郎くんが好きだ……。
そして二人は日曜日にデートをし、再び彼だけが記憶を失った。それから愛那は彼のことを諦め、もうその車両に乗ることはなかった。
2023年11月6日(月)――
月日は流れ、愛那は高校二年生の秋を迎えていた。この一年半、友郎への想いは相変わらずで、時折こっそり隣の車両を覗いては、一人恋焦がれ、
今日もその予定だった。今日もただ遠くから見つめている予定だった。なのに、扉が開くと、目の前の席に友郎が座っていた。目が合った。だいたい3秒くらいだっただろう。見知らぬ二人が目を合わせているにはあまりにも不自然な秒数だった。
――どうしてこの車両に……?
鼓動が速くなっているのがわかる。胸の奥の奥に秘めていた感情が、抑えていて気づかないふりをしていた感情が静かに呼び起こされる。ただ遠くで見つめているだけでよかった。それだけで抑えられていたのに……。
平静を装って久しぶりにイヤホンを取り出す。ここ数年、音楽なんて聴いていなかったが、なにかしていないと落ち着かないほど緊張が走り、少しだけ手が震えた。
次の駅で陽子が乗ってきた後も、変わらず冷静にいつも通りを演じた。陽子はそんな愛那に気づいていないようだったが、一瞬だけ友郎のことを見たような気がした。その目に、愛那は一瞬だけ違和感を覚えた。
2023年11月7日(火)――
翌日、やっぱり同じ座席に友郎はいた。嬉しくて、目が合うと微笑んでしまった。昨日一晩、彼のことをずっと考えていた。やっぱり大好きで、大切な人だと感じた。
気のせいか、携帯越しに彼がこちらを見ているような気がして、嬉しかった。
放課後になり、部活へ向かう陽子に別れを告げ一人家路についた。でもなんだか今日は真っ直ぐには帰りたくなかった。たまにそういう日があると、決まってあの土手に行っていた。あそこから眺める景色が、空気が、どんな悩みも浄化してくれるような気がして好きだった。
階段を登ると、夕陽の暖かい光が水面を照らして揺れていた。深く深く、深呼吸をした。
「あれ……――」
視線の先には、一人の高校生が駄菓子屋へと入ろうとする後ろ姿があった。
「友郎……くん……?」
そんなはずはないと思いながらも、恐る恐る、ゆっくりと駄菓子屋へ近づき中を覗いてみた。そこにいたのは友郎だった。なにやら店の老婆と話をしていたかと思うと、机に向かって何かを書き出した。目を凝らして見ると、それはあのチケットだった。
――ガタンッ
一瞬動揺した愛那は、足元の看板を蹴飛ばしてしまった。そして気づかれないうちにその場を走り去った。
――友郎くんが……あのチケットを……? そもそもどうしてここが……?
彼女の心を満たしたのは不安や焦りの類だった。一体誰の名前を、なんのために……。そんな思いが彼女の胸を掻きむしった。ただほんの少し、ほんの少しだけ希望を持っていた。そのチケットに書かれた名前が「一葉愛那」であることを。
でも彼の記憶からは自分の存在は消えてしまっている。愛那は布団に潜るも、なかなか眠れなかった。
次の日、彼はまた同じ車両に乗っていた。同じ車両だったのだが、なぜかいつもとは違う場所で離れていた。愛那には、それがなぜだかわからなかった。もっと近くに来て欲しい、私に声をかけて欲しい、デートに誘って欲しい。そう願っていた。それでも彼は話しかけては来なかった。そして次の日もまた同じ状況だった。その日の夜も、あまり眠る事ができなかった――。
2023年11月10日(金)――
この日愛那は十五分の寝坊をした。3日間連続で寝不足だったつけが回ってきたのだ。
急いで駅の階段を駆け降り、いつもより二本後の電車に駆け込む。普段から二本早い電車に乗っていたため授業には間に合うのだが、これでは彼に会うことができないのだ。
息が整う前に電車の扉が開いた。目の前には、なぜか友郎が座っていた。
――あれ……どうして……?
そして彼もまた、驚いた表情をしていた。まるで、「なぜ君もこの時間の電車に?」と言わんばかりの表情だった。愛那は思わず、上げた足を降ろした。――が、すぐに乗り込み何事もなかったかのように、呼吸を整えイヤホンを取り出した。やっぱり手は少しだけ震えていた。
――まさか、今日会えるとは……。友郎くんも、寝坊かな……?
寝坊したため、陽子には先に言ってもらうよう連絡をしておいた。だからあと数駅は友郎と二人きりになる。嬉しい反面、緊張もしてきた。なるべく意識していない風に見えるよう努めた。しかし彼は話しかけてこないまま、秀桜西高校の最寄り駅へ到着してしまった。
――もう、チケットは他の誰かに使っちゃったのかなぁ……。
諦めて、電車を降りた時だった。
「すみません」
背中に声をかけられた。
えっ、と小さく声を漏らした。そこには、緊張した様子の笑顔を見せる友郎が立っていた。
「と、突然すみません……。俺、秀桜北高校二年の青木っていうんだけど」
「えっ? あ、はい」
思わず口元に手を運ぶ。手が少し震えていた。
「も、もしよかったら……今度の日曜日、俺と……その、デートしてほしいんだけど……」
――えっ……うそ……どうして……?
心臓が跳ね上がる。
彼から目を逸らすことができない。
――だめだ……。嬉しくて……泣いちゃいそう……。
愛那は両手で顔を覆い、肩を震わせ泣き出してしまった。通行人がちらちらと二人を見ているのがわかった。
――あぁ……こんな日が来るなんて……嬉しすぎるよ――。
「あの、本当にすみません、気にしないでください……」
泣いたことに、勘違いしてしまった友郎が頭を下げてきた。愛那は慌てて訂正した。
「いえ、少しびっくりしてしまって……。私でよければぜひ……」
涙を拭いながら笑顔を見せた。
「え……え? いいんですか?」
「はい、いいですよ。私、一葉愛那って言います。秀桜西高校二年です」
にこりと微笑んだ。友郎は恥ずかしそうに下を向いていた。
「あ、青木友郎です」
「青木くん。よろしくね」
そう言って愛那は右手を差し出した。友郎は慌てて右手を制服の裾で擦り、彼女の手を優しく握った。初めて繋いだ彼の手は少し暖かくて、少しゴツゴツしていて、優しかった。
――こんな嬉しいことがあっていいのかなぁ……。
彼と目が合うたびに、まるで現実じゃないかのように感じてしまう。でも今は目の前の幸せに素直に浸ることにした。
その後二人は時間と場所だけを約束し別れた。午前中は病院で定期検査があるため午後から会うようにしてもらった。
軽い足取りで階段を降り、学校へと向かった。空は晴れ渡り、愛那は体の芯から体温が上がっているのを感じていた。
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