第10話 「陽子」
三年半前――
2020年4月8日(水)――
淡い黄緑色の花をもつ浅黄桜あさぎさくらが満開を迎え、ここ
春とはいえもう既に気温は高く、久しぶりに着たセーラー服が少し暑苦しい。
先週入学式を終えたばかりの一年生達は、まだ堅そうな上履きを、慣れない下駄箱から丁寧に出していた。サイズの合わない制服を着た男の子達が、これまた慣れない雰囲気で挨拶を交わす。
今日から中学二年生の
始業式の後教室に戻ると、新しい教科書が配布され、それぞれに名前を記入するのに緊張をしたが、二年生になったという実感が湧いてまた少し気分が上がった。
教材を整理していると、知らない男子生徒に話しかけられる。
「茉枝さんだよね? 俺、元2組の高橋っていうんだけど、よかったら連絡先教えてくれない?」
「――あー……ごめん。私、携帯持ってないんだよね……」
「あっ……そっか……――」
陽子にとっては精一杯の笑顔だったが、高橋は露骨に落ち込んだ背中を見せ、席に戻った。
陽子本人の不安とは裏腹に、彼女は男女問わず人気があった。運動神経は抜群、成績も優秀で、学年で一桁台に入るほどだった。容姿端麗で人当たりも良く、先生からの信頼も厚かった。一年生のうちに、7回告白された伝説すら持っていた。
そんな彼女はいつしか、男子と接することが苦手になっていた。今日みたいに嘘をついて、はぐらかすこともしばしばあった。
新学期初日の今日は、授業や部活動が休みになる。早めの下校に生徒達は午後の予定を立て始める。陽子はこんな日だって、夕方には塾に行かなければならない。彼女の両親は勉強にうるさく、成績は少しの低下も許さないほどで、彼女はウンザリしていた。
夕方、いつもより家を出る時間が遅くなり、授業開始の五分前に塾の階段を登り切った。
教室に入ると、最前列しか席が空いていなかった。ふと隣に目をやると、知らない男の子が座っていた。陽子は躊躇ためらいつつも隣に腰を下ろす。
「あっ――」
その男の子は陽子をチラッと確認し、軽く会釈をして少し姿勢を正した。
「――あ……どうも」
教室の後方に目をやると、男女がコソコソとこちらを見て笑っていた。憂樹と愛那だった。いつもは三人で授業を受けていたが、今日は隣に座れないことに陽子は気分が落ちていた。
講師の松浦が忙しそうに教室に入ってきた。
「はい、えー今日からこのクラスに一人、新しい仲間が増えたぞ――。青木友郎くんね! みんなよろしくな〜」
「あっ……青木です。よろしくお願いします」
隣の席の男の子だった。急なフリに緊張した面持ちで腰を少し浮かし、笑顔を見せ挨拶をした。
「茉枝、悪いけど青木くんまだワークとかの用意できてないから、隣、見してあげて!」
「あ、はい……」
松浦の指示に、内心
「――ありがとう」
友郎は頬を少し赤らめ、また軽い会釈をした――。
別に特別な印象はなかった。
ただ、背が高そうだな――、くらいの、普通の男の子だった。
初日だからか、一所懸命にノートを写す姿に少し感心した程度で、慣れてきたら他の男子みたいに授業中も遊び出すんだろうな――、くらいに思っていた。
休憩時間になると、憂樹と愛那が陽子のもとへとやってきた。――隣の新入りはどんなもんですか――、といった表情だろうか。そんな二人と一緒に座れない陽子は、少し不満げな顔を見せた。
「なんで今日来るの遅かったのー?」
「始業式のあと、家帰ったら時間が中途半端でさ。少し寝ちゃったら、『やばっもうこんな時間っ!』って感じでさぁ。ママも今日に限って残業でいなかったし……」
ケラケラと笑う憂樹と愛那をチラッと見て、友郎は用もなしに筆箱をいじっていた。
「自販機いこっ! コンビニ寄る時間なくてさっ」
「いーよっ」
陽子の提案に、愛那と憂樹は快諾した。
「青木くんも行こうぜっ」
憂樹の突然の絡みに友郎は、えっ、と顔を上げる。同時に陽子も、えっ、と憂樹を見る。
「……あ、うん! ありがとう」
友郎は緊張しつつも嬉しそうな表情を見せ、鞄から財布を取り出した。初対面である他校の男子生徒に、より一層苦手意識を感じていた陽子はあまり気が進まなかった。
廊下を歩きながら、憂樹が体を友郎に向ける。
「俺、
「一葉愛那っていいます! よろしくね。――んで、この子が美人で成績トップの『才色兼備』、陽子ちゃんだよ」
「ちょ、やめてよ愛那ちゃんっ。……あの、茉枝、陽子です」
「――あ、青木友郎です。……えっと、学校では『友郎』とか『トモ』って呼ばれてます」
「ちょっ、おまえら敬語かよっ! 固いわ!」
イケイケそうな憂樹が場を和ませてくれる。愛那はそんな憂樹とはあまり似合わない、礼儀正しさを兼ね備えた可愛らしく元気な子だった。緊張気味の陽子は、『美人』と呼ばれるにふさわしい、整った顔の上品でおしとやかな子だった。これが四人の最初の出逢いだった――。
「身長何センチ?」
憂樹が友郎の頭の上を見て聞いた。
「百七十八センチだよ」
「でかーっ」
一同が声を揃えて驚いた。友郎は嬉しそうににやけていた。
「あ、財布忘れてたわっ」
「えーっ。愛那も持ってきてないよー。もうっ」
憂樹が財布を取りに教室へと引き返した。彼が奢ると聞いていた愛那は、ムスッとして後を追って教室へ戻っていってしまった。途端に気まずい空気が残された二人を包み、陽子はバツが悪そうな顔をした。
「――あ、あの……俺に、奢らせてよ。ほら、ワーク見せてくれてるし……」
たまらず友郎が口を開いた。
「えっ――いや、いいよ、悪いよ……」
陽子は思わず断った。なんとなく貸しを作るような気がして、気が進まなかった。
「ううん。本当に奢らせてよ。まぁ、大したアレじゃないしさ……」
そう言った彼の顔がまた赤らんでいるように見えて、陽子にとってそれがどことなく彼の『純粋さ』を表しているように感じ、心が少しだけ緩んた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……。コレにしようかなっ……――」
陽子は遠慮気味にカフェオレを指さした。友郎は嬉しそうな顔をして小銭を入れた。
「……はいっ。――どうぞ」
「――ありがとう。……あっ青木くんは? なににするの?」
「……そうだなぁ。俺もコーヒーにしようかなぁ」
と、あまり悩む素振りを見せずに、『ブラックコーヒー』のボタンを押した。その当たり前のような選択に思わず、
「ブラックコーヒー飲めるんだ。大人だね」
と、口をついていた。
「あー、うん……全然、俺苦いとか……思わないよ? ――……普通に美味いし、眠気覚ましにも、ほら、いいって言うじゃん?」
あまりにも彼が動揺した様子なので、陽子は思わず笑ってしまった。
「……え――もしかして……ブラック飲めないの?」
すると、友郎は顔を真っ赤にして、
「――え! の、飲めるよ! ……ほらっ――」
と大きな声を出すと、その場で缶の封を開け、一気飲みを見せた。その必死さが、その強がりが、その純粋さが、陽子のツボを刺激して、腹を抱えて笑った。
――あぁ……なんだかいい人そうだなぁ――。私、自然に笑えてるなぁ……――。
「――なんでそんなに笑ってるの……?」
ムスッとした彼の一言が、また彼女を笑わせる。
財布を取って戻ってきた憂樹と愛那は、廊下の角で二人を見つける。
「あれ――あの二人もう打ち解けあってるじゃん」
「ほんとだぁ……。すごい、あの陽子が男子と……。――なんかお似合いかもね」
こうして出逢ってすぐ、友郎は陽子にとって数少ない、大切な「男友達」となった――。
それから四人は一緒に授業を受けるようになった。憂樹と愛那が隣同志でいつもイチャついていたため、自然と陽子の隣には友郎が座っていた。いつの間にか自然に会話ができるようになり、二人の距離が近づくのにそう時間はかからなかった。
友郎が塾に入ってから一ヶ月程経った頃から、授業が終わると憂樹と愛那の二人がいつの間にか、先に帰ってしまっていることがあった。そんな時は決まって愛那から一言だけメッセージが送られてくる。
【あとは二人で仲良くしてください♡】
別にそういった意味で意識したことはなかった。陽子にとって友郎は、ただ話しやすい男友達だった。しかしこんなことを毎回言われると、いやでも意識するようになってしまう。
「――もぉ……」
少し呆れたように溜め息を吐いた。
「どうした?」
「――あ、ううん。なんでもないよ」
「また、あの二人いないね――」
「――ね。また一人で帰らなきゃだ――」
そう言って、墓穴を掘ったと思った。咄嗟に訂正しようと思って彼を見ると、目が合ってしまった。
「あ……よかったら……俺送るよ」
「え――。……うん。ありがとう……」
思わず、素直に甘えてしまった――。申し訳なくて一瞬断ろうと思ったが、受け入れることで、遠回しに自分の気持ちを伝えられる気がした。伝わってしまってもいいとさえ思った。
そしてなにより、まだ一緒にいたいと思っていた。陽子はそんな自分に驚いてもいた。
彼はやっぱり頬を赤らめていて、そんな表情をされた陽子も、うつ向き頬を赤らめた。
帰り道、歩いて十分程度の道のり、会話は特になくて、恥ずかしさと妙な緊張だけがあった。それでも心は暖かくて、落ち着いていた。
中学二年生の春、『好き』という感情がよくわかっていなかったけれど、多分こういうことなんだろう、と彼女は感じた。
雨が上がり、濡れた地面を生暖かい風が撫でる。心地良くて、楽しくて、思わずフフッとにやける。友郎もそれを見て笑みをこぼす。
「……なぁに?」
「――え? ううん」
雲間から月明かりが漏れて、二人の頬をほんのりと照らした――。
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