第9話 「告白」
2023年11月20日(月)――
薬のおかげで少し偏頭痛は落ち着いた。しかし、胸に残るモヤモヤとしたしこりは解消されていなかった。今日が月曜日なんてことは関係ない。友郎の心に渦巻く、灰色に濁った水は彼をどことなく憂鬱にさせる。
原因はわかっていた。昨日の朝から机の上にある写真と、映画の半券だ。友郎は重い身体を起こし、写真に手を伸ばした。
――きっと……この子は知り合いだ。それも、ただの友達ではない。もっと親しい、まるで恋人のような――。
確信はなかった。ただ、直感でわかる気がした。この子を知っている。でも会ったことがあるという記憶がない。その奇妙な感覚を抱き、友郎は部屋を出た。
枯葉が落ちて、地面に敷かれた落ち葉にそっと重なる。足音がカサカサと鳴り、黄色と橙色の混ざった絨毯の上を駅まで歩く。
北からの風がホームを通り過ぎ、人々の暖を攫っていく。吸い込んだ空気が鼻の奥でツンとなる。
――写真の人が誰なのか、考えても答えは出ない。
でもこの電車に乗ることでわかる気がしていた。理由はわからないが、記憶の何かがそう言っていた。階段を降りてすぐではない、10メートルほど歩いた先、三車両目の後方乗車口。
――たぶん、ここだ……。ここに乗ることで、なにか答えが……。
車内の空気はいつもとなにも変わらなかった。ただ友郎の頭の中だけが、違和感を抱えていた。「小藤町」の文字が電子掲示に表示され、アナウンスが聞こえた時、彼の中で時が止まった――。
――乗ってくる。あの写真の子が……。
具体的な関係性こそわからないが、自分にとってすごく大切な人である気がする……。
ブレーキ音がブーンと鳴り、間もなく電車が止まる――。
心臓の鼓動が速くなる。
ドアが開く――。4、5人が乗り込んだ後、一人の女子高生が乗り込んだ。
――写真の子だ……。いや、確かに写真の子なのだが、もう一人の方だ――。
そこにいたのは、友郎が――懐かしい――と感じた方じゃない女の子だった。
その名も知らぬ彼女は友郎と目が合うと、ニコっと微笑んでから目を逸らした。ポケットからイヤホンを取り出し、携帯をいじりだす。
――この不思議な感覚はなんだ……? この子は一体……俺にとってのなんなんだ?
恐怖にも似た感覚に鳥肌が立つ。
――確認しなくちゃいけない。この人は誰なのか……。
次の駅に着く間際、友郎は立ち上がり、彼女の目の前に立った。彼女は驚きつつも、照れた表情で顔を赤らめていた。その表情が可愛くて、友郎は思わずたじろぐ。
「あ、あのすみません……、聞きたいことがあって……降りてもらってもいい……かな」
小声で伝える。
「――えっ……。――はい、わかりました」
彼女はあっさりと応じてくれ、二人はホームに降りた。数人のサラリーマンや高校生が二人を横目に電車へと乗り込んでいく。
電車のモーター音が遠ざかり、誰もいなくなったホームに、今秋一番の冷たい風が吹き抜けた。
一呼吸をし、友郎が口を開く――。
「あの――……、なんか俺、最近記憶がおかしくて……色んなことを忘れちゃってるみたいなんだよね……」
彼女は黙って友郎を見つめている。
「あ、変なこと言ってるよね」
「――ううん」
彼女はゆっくり首を振った。友郎はもう一度、ゆっくり深呼吸をした。
「……それでね、俺の部屋に写真があってさ……君も、写っていたんだけど……」
「――うん」
「その――失礼なんだけど……君は……誰……ですか……?」
向かいの下り線ホームに電車が到着して、再び周囲を騒音が包み込む。彼女は一度下を向き、およそ5秒間の沈黙を挟んだ後、何かを決意したように、再び顔を上げた。
「私は……愛那です。一葉愛那って言います」
そう言った彼女の声は湿気っていて、今にも雫がこぼれ落ちそうな大きめの瞳は、友郎の目をじっと見つめていた。
――一葉……愛那……。聞いたことが……ある。いや――ないのか……? これはデジャヴ?
よくわからない感覚。知っているようで知らない。初めて聞いたようで、聞いたことがあるような響き……。友郎の頭は混乱していて、次の言葉が出なかった。
「――ごめんね、友郎くん。きっと、わけがわからないよね」
彼女が再び口を開いた。友郎の心臓が大きく脈打ち、体を小さく揺らす。
――わけとは……? どうして俺の名前を……?
呼吸が少し荒くなるのがわかる。一方で、彼女は落ち着いていた。
「今日の放課後、時間あるかな? 北高の近くの、
「――え……、うん……」
「デートしよ。そこで……全部話すね」
「デート……? うん、わかった――」
彼女はそう言って、ふぅっと溜め息をつきながら青いベンチに腰を下ろした。ぼぉっと遠くを見ていて、しかしなにも見てはいないような、そんな哀しい目をしていた。
席を二つ空けて、友郎も腰を下ろす。ひゅうっと秋の風が吹いて、足元の枯れ葉達を踊らせる。再び静かになったホームで、ようやく心臓が落ち着きを取り戻してきた。
沈黙を破ったのは、次の電車の到着を告げるアナウンスだった。
「行こっか」
すっと立ち上がり、気まずそうに、横目で友郎を見る。
「――うん」
二人は同じ乗車口に立ち、車両が停車するのを待った。
「あのね……隣に座ってもいい?」
「――えっ……うん、いいよ」
「ありがとう――」
彼女は切なそうに、けれども嬉しそうに微笑んだ。その表情が、友郎の海馬に眠る記憶に刺激を与える。
――あれ――。やっぱり見たことある気がする……。
でも、思い出すことはできなかった。ただ……、彼女を「抱きしめたい」と思った。なぜだかはわからなかったが、自分が抱きしめないと、壊れてしまいそうな、そんな弱く、優しく哀しい表情だった――。
「それじゃあ、放課後に――」
西高の最寄駅で、彼女は降りていった。会話は一つもなく、ただ沈黙が流れた車内だった。
誰かに対して、これほどまでに複雑な感情を抱いたことはあっただろうか。嫌悪、不審、懐疑、同情、そして、好意――。
教室に入っても、斜め後ろの席の憂樹は絡んでこなかった。不思議に思い、友郎から声をかける。
「おっす――」
「――おうっ……おはよ」
憂樹は友郎の機嫌を伺うような目をして返事をした。
――あれ? なんだっけ――俺ら、なんか気まずかった気が……。ダメだ、思い出せない……。
「あれ――、なんかおまえ変じゃね?」
なにもなかったかのように、肩を叩く。
「――え? い、いや普通だよ」
二人はお互いに、平然を装って会話をした――。
その日の授業は終始、放心状態だった。写真の二人が瞼の裏に焼きついて、他のことを考える余地など彼の頭にはなかった。今日、彼女の口からなにが話されるのか。自分は何を知ることになるのか。なぜ自分には記憶がないのか――。
下校時刻のチャイムが鳴り、各々が家や部活へ向かう中、友郎は椅子に座ったまま動けずにいた。公園に行くのが怖くなっていた。それでも行かなければ、この胸のしこりは解消されない。憂鬱な気持ちはなくならないのだ。
昇降口横の、体育館へと続く渡り廊下を、練習着に着替えた憂樹が歩いていた。ふと校庭をみると、野球部の一年生であろう部員が、せっせと道具の準備をしていた。柵の外へ視線をずらすと、校門へ向かう友郎の後ろ姿が見え、思わず声をかけた。
「――おい! トモ!」
友郎の足が止まり、振り向く。声の主が憂樹とわかり、こちらに戻ってきた。
「――なに?」
一息おいて、憂樹は口を開いた。
「おまえに何があろうとも、何を知ろうとも……俺たちは親友だからな」
そう言って、いつになく真剣な眼差しを友郎に向けた。
友郎は少し戸惑ったが、これから自分が白葉種公園に行くことを、憂樹は知っているのだと悟った。
「――アホ……当たり前だろ」
特に核心には触れず、お互い「わかっている」という笑みを浮かべ、二人は別れた。このやりとりが、友郎の心を不思議と勇気づけた。なにがあろうと、自分には憂樹がついている――。
16時前、空はだんだんと霞み始め、太陽が沈む準備をしている。公園の入り口では自転車が数台並んでいて、小学生たちがベンチでカードゲームをしていた。懐かしい光景を横目に、敷地内へと足を踏み入れる。
左右には公園を囲う沿道がある。赤みを帯びた葉が屋根となり、床となり、まるでトンネルのようなその道を、友郎は一人歩いていく。一年生の頃、学校終わりに何度か憂樹や凌達と遊びに来た公園。今となっては遠い昔のようだった。
少し開けた場所に出ると、ベンチが二つ並んでいて、小さめの時計塔が立っている。住宅街に面した出入り口となっていて、駅から歩いてくるにはここが一番近い入り口だった。
ベンチに腰を下ろし、三十分くらいが経った。公園の外壁に沿って、入り口へと近づいてくる足音が聞こえた。時折枯葉を踏む音が混じり、それはどうやら二人分の足音のようだ。
姿を現したのは――、写真の二人だった。
「あ――」
「あっ、トモくん――……覚えて……ないよね」
今朝会った愛那、じゃない方の女の子が、口を開いた。綺麗な長い髪を風が揺らす。彼女は写真よりも痩せていた、というより少し頬がこけているように見えた。
――写真で見た子……懐かしくて、すごく大切な人……。でも誰なのか、わからない……。
「――あっ……ごめん……なんだか、上手く思い出せなくて――」
「ううん、いいの。仕方がないことなの。……ごめんね、混乱させたよね」
自分はなにを謝られているのかわからない。愛那は――一歩後ろで下を向いていた。
「私は……陽子って言います。――
「え――」
心臓がドクンっと脈を打つ。視界がぐらついて、二人が遠くなるような感覚を覚える。
「――大丈夫……? 座ろっか。……愛那ちゃん、私から話すね? 全部――」
陽子はやけに冷静で、落ち着いていた。二つのベンチに分かれて座る。小学生たちの声が遠くに聞こえて、消えてゆく――。
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