第17話 「不確かな未来」
2022年3月1日(火)――
朝起きたときは5℃前後だった気温も、昼頃には20℃近くまで上がり、3月とは思えないほど暑くなっていた。塾の空調が鬱陶しく感じるほどだった。
すでに受験に合格している陽子は、両親の意向もあり塾に行く頻度を減らしていたが、今日はどうしても来たい理由があった。
――さすがに早く着きすぎたなぁ……。
一般試験の合格発表である今日、塾の校舎内には時々、歓喜と悲哀の声がこだましていて独特で異様な空気だった。しばらく教室で座っていた陽子も、そわそわして落ち着かなくなり階段前の休憩スペースへと移動した。
階段を登り校舎へと入る生徒を、何人か見送り一時間が経とうとしていた頃、下の方から憂樹の話声が聞こえた。扉が開くと、友郎と憂樹が入ってきた。
「トモくん! 芦沢くん!」
「――陽子ちゃん! ……受かったよ北高! 俺ら二人とも!」
「えぇっ! ほんと……? よかった……おめでとう」
陽子は自分のことのように嬉しくて、思わず涙が溢れた。
「ありがとう。陽子ちゃんがたくさん教えてくれたおかげだよ」
「ううん。トモくんが頑張ったんだよ。すごいよ二人とも……本当におめでとう」
「愛那の結果、聞いた……?」
「うん、西高合格したって!」
「まじか! ほぼ半年間独学だぜ? すごいなぁやっぱり愛那は!」
憂樹は別れたとはいえ、愛那の吉報を素直に喜んでいた。
「陽子ちゃん。見てこれ。……早速買ってもらっちゃった」
友郎は自慢げにポケットから携帯を取り出した。
「えっ! やったじゃん! これでいつでも連絡――……」
「……? そう、連絡……取れるね」
「――ねっ! いいなぁ新型じゃんっ!」
陽子は、『いつでも連絡取れる』と言いかけて、『いつまで連絡することができる』のだろうと思った。これは、二人を、友郎をより傷つけることになってしまうのではないか。知り得ない不確かな未来への悩みに、一つ一つの言葉が引っかかってしまう――。
「――……もしもし……」
「――あっ……すぐ出たね。トモくん」
「うん。今携帯でゲームしてたから」
「あー。やりすぎちゃダメだよ? 目悪くなっちゃう。……っていうか邪魔だった?」
「ううん。ちょうど終わったとこだったし。大丈夫だよ」
かけるつもりはなかった。でも彼が携帯を買ってもらったことが陽子にとっても嬉しくて、思わずかけてみたくなった。これまでは家電を使っていたため、電話する時間をいちいち約束する必要があったので、いつでもかけられることが新鮮だった。
――本当に出た。声が聞けた。一緒にいなくても、繋がっている気になれる。でも……。
陽子には、電話をかける前に決意したことがあった。
「3月5日、今度の土曜日なんだけど、会えないかな……。それまでは塾休もうと思ってて……」
「あ、そうなの……? 俺は会えるけど、大丈夫? 体調悪いの?」
「ううん、大丈夫。それよりさ――……」
――彼は私と違い、この先何十年と生きていく。私のわがままに付き合わせ、彼の心に傷を負わせる必要なんてない。こんなにも優しくて、純粋で、素晴らしい人。きっともっと良い人に巡り会えるはず――。
「――憂樹!」
杉ノ宮町立第三中学校の隣にあるコンビニにから、憂樹が出てきた。
「おぉっ、愛那。久しぶりだね。なにしてんの?」
「ちょっとおつかいだよっ。憂樹は――?」
「あぁ俺もそんな感じ。そういえば、西高受かったんだって?」
「そーなの! ……憂樹は? 北高」
「俺も受かった!」
「えぇー!」
しばらく駐車場の車止めに座り込み、お互いの近況報告をした。
「――愛那ん家ね……離婚することになったんだ……」
「え……」
「ほら、前からウチの両親あんまり仲良くなかったじゃん? 喧嘩するたび、親の声聞きたくなくてこうやって外に逃げてたんだけど……。なんか良い知らせでもあれば、少しでも明るくなるかなって思って、頑張って勉強して、今日合格の結果伝えたんだけどさ……。パパは特に何も言わず夕方出て行っちゃった……」
「……まじか……」
愛那はなるべく平静を保とうと、時折空を仰いだり、通り過ぎる車を目で追ったりしたが、だんだんと視界が霞むのを抑えられなかった。
「それでね、『小藤町』ってところに引っ越すことになったの。ママと弟と三人で……」
「え、引っ越すの……?」
「うん。ママがここにはもう……住めないっ……って……――」
言い切る前に涙が地面に落ちていた。愛那は悔しかった。両親のことなんかで誰にも頼りたくなかった。甘えたくなかった。ずっと誰にも言わず我慢してきた。それなのに、非道い仕打ちをしてしまった彼の前でなんて泣きたくなかった。迷惑をかけたくなかった。彼に慰めてもらう権利なんて、自分にはこれっぽっちもないはずなのに――。
しばらくの間、隣に座る憂樹の腕に包まれ、胸の中で愛那は泣いていた。落ち着いた頃には、二十三時を過ぎていた。
「……大丈夫そ?」
「――うん……ごめんね」
「ううん。俺は大丈夫だよ。愛那こそ、怒られない?」
「愛那は平気。また部屋
彼女はそう言って無理に笑って見せた。こんな時も彼は優しい。なにも言わなくても、抱きしめられているだけで彼の優しさが、温もりが伝わって、気持ちが楽になる。この愛しさを手放したのは自分だ。触れる資格など自分にはないと感じていた。
これ以上一緒にいるとまた泣き出してしまいそうで、早く後ろを向きたかった。
「それじゃあ……またね?」
「――うん。……気をつけて帰れよ?」
「うん。ありがとう」
二人は別々の道を通って帰った。
2022年3月5日(土)――
――未来のことなんて誰もわからない。生まれ育ったこの町を明後日引っ越ししてしまうのが想像できない。本当に自分が高校生になって学校に通う姿も想像ができない。愛那ちゃんと同じ学校に通う姿も想像できない。あの塾に通わない日々も想像できない。なにが起こるかなんて想像できなくて、誰もわからない。私があと二年と半年ほどしか生きられないということも、本当に想像ができない、実感が湧かない――。
「――おーい。……起きてる?」
「えっ……あ、ごめんっ。それで……なんだっけ?」
ただ時折、すぐ疲れることや、だるさを感じることが増えた気がする。こんな事があるたびに、陽子は自分の病気を実感し、彼と付き合っていく自信を失っていった。
「……今日はもう……帰る?」
「――うん……そうしよっか」
動物園はつまらなかった。いや、きっとそんなことはなくて、動物園だって昔から大好きだったし、二人ならどこでだって楽しむ事ができていたはず。でも今日は違った。陽子は今日、友郎と別れようと考えていた。時折、病気のせいでぼーっとしてしまう頭の中で、ずっとそのことばかりが駆け巡り、目の前の動物に集中する事ができなかった。
夕陽が沈む頃、檻の中の動物たちも家の中へと戻っていき、だんだんと園内に静けさと暗がりが訪れ始める。
「なにか、あった……?」
土曜日にも関わらず、動物園と駅を結ぶ帰りのバスは空いていた。
「――……なにもないよ……」
『なにもない』わけではないが、『なにかあった』わけでもない。ただ強いて言えば、これから別れ話を持ちかけるため気分が落ち込んでいたのだが、そんなことは言えるはずもなかった。
彼もなにかを察したのだろう、バスが杉ノ宮駅についた時も、二人がよく通っていたパン屋が閉店すると書かれた看板を見た時も、なにも言葉を発することはなかった。ただ、陽子が駐輪場の脇でつまずいた時だけ、「大丈夫?」と、手を差し伸べてくれた。困ったような、哀しいような、それでも笑顔でいようとする、複雑な表情をしていた。
「公園――寄ってこっか……」
少し歩いたところで陽子は切り出した。
「……うん。わかった」
彼は理由を聞かなかった。
――これが二人にとって最後のデートとなる。でも、これでいいんだ。
陽子は自分に言い聞かせ、目を閉じるたびに蘇ってくる思い出が溢れないよう、なるべく遠くの空を見上げた。
街灯と月明かりに照らされたモモの花が、薄ピンク色の壁のように公園を囲う。塾の帰り道、たまに寄り道しては、遅くまでいろんな話をした場所だ。いつもより、寒く感じた。
「桜……綺麗だね」
「うん。多分モモの花……かな?」
「あ、そうなの? 俺、花全然わかんないや」
彼は空気を和ますように小さく笑って、ベンチに腰を掛けた。陽子も隣に座ったが、少しだけ間を空けた。それからしばらく沈黙が続き、たまに吹く風が花を散らして小さな公園を綺麗に彩らせた。彼は黙ってまっすぐ前を見つめていた。なかなか切り出すことができない。
「――あそこのパン屋さ……」
「――え?」
聞き取れてはいたが、急に話しかけられたため彼女は思わず聞き返した。
「駅前のパン屋。閉店しちゃうんだね」
「……あっ、うん、ね。……書いてあったね」
――やっぱりトモくんも看板見てたんだ……。
「夜遅くまでやってたからさ、塾の帰りとか俺らよく買ったよね」
「うん……」
「あそこの明太フランス、値段の割にめちゃ明太子ソース多くて、超美味かったのになぁ……」
「うん、そうだったよね……」
「なんかそういうサービスが、お店的には結構きつかったのかもね」
「――うん……そうかもね」
「あ、でも陽子ちゃん引っ越しちゃうから、もう行くこともないのかぁ」
「……そうだね」
彼の声色がだんだんと明るくなり、暗い雰囲気の軌道を無理やり逸らそうとしているのがわかった。
「あ、今日ドッキリGPじゃんっ……やばっ、そろそろ――」
「――トモくん……」
「陽子ちゃんも好きなやつだよっ! もう始まって――」
「トモくん」
立ち上がる彼の、服の袖を掴んだ。
「――……陽子ちゃん……どうしたの……?」
彼は諦めたように再びベンチに腰を下ろし、下を向いた。
「――トモくん……私ね……」
声を出すと、我慢していた涙腺が緩むのがわかる。一気に溢れ出そうになるのを堪え、上を向く。もう一度、ふぅっと息を吐き、少し震える唇を開く。
「私ね……トモくんと……別れたい……の……」
彼は下を向いたままだった。陽子の鼻をすする音だけが公園に響く。
「――……他に好きな人ができた?」
やっと口を開いた彼の声は少し湿気っていた。
「……ううん」
「同じ高校、行けないから?」
「……ううん……そうじゃないの」
「……憂樹?」
「――え……?」
「憂樹のことが好きなの?」
「……全然……そういうことじゃないの」
「じゃあ、どうして……?」
理由まではちゃんと考えていなかった。別れを切り出せば、別れるものだとなんとなく思っていた。でも、そんなわけはなかった。自分だってそうなっていたはず。好きな相手に別れたいと切り出されたら、悲しいし、理由を知りたいと思うはず。なんの理由もなしに、別れを受け入れられるはずなんてなかった。
陽子は、友郎を傷つけていることはわかっていた。でもこのまま一緒にいることで、それ以上の想像できない苦しみが彼を襲ってしまうことを、彼女だけがわかっていた。
「――……俺のこと、嫌いになった?」
彼の言葉に、思わず涙がこぼれ落ちた。泣かないよう握りしめていた両手の甲に雫が落ちる。
『嫌いになった』なんて嘘でも言わない。でも彼はそう思わざるを得ないだろう。そう思われても仕方ないように接していたのは自分だ。こんなにも好きなのに、そう思われる事がこんなにも辛いことなのか。そしてそれほどまでに彼を傷つけて、苦しめているのか。
「嫌いになんてなってないよ……」
これ以上、目の前で哀しそうな顔をする彼を見る事ができなかった。
「――じゃあ……なんで?」
「……どうすればいいか……わかんないよ……」
彼女は堪えていた涙を流し、声を出して泣いた。彼は理由を聞かなかった。
春になり新しい生活や新しい環境になると別れるカップルが多いという。今まで置かれていたものとは異なる環境で、『今まで通りの関係が築きにくい』、『相手に向ける心の余裕がなくなってくる』など諸説ある。――多分陽子ちゃんはこういった類の感情に悩まされている――とでも思ったのだろう、彼はなにも言わずただ陽子の肩を抱き寄せ、安心させる言葉をかけ続けた。その度、彼女はまた大きな粒の涙を流していた。
別れることはできなかった。でもその反面、どこかホッとした気分でもあった。まだ彼と関係を続けられる。また夜に電話をすることができる。また恋人として、会う事ができる。まだ繋がっていられる。
ただ、それはいつか来る苦しみや絶望への遠回りをしているに過ぎないことも、陽子はわかっていた。
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