第5話 「水族館」
2023年11月12日(日)――
高まった気持ちは静まることを知らないまま、デート当日を迎えた。
幸いにも午前中で雨は止んだが、気温は8℃くらいで寒く、地面の所々には水溜まりがあった。もし雨が降っていたら相合傘ができたかも? なんてありもしない妄想を膨らませる。
そもそも本当に彼女は来てくれるのだろうか――。
二人が住む町の間に位置する駅、
バスを利用するため、乗り場を事前にチェックしておこうと案内板に目を細める。デートをなるべく円滑に進めるよう心がけ、降りるバス停も執拗に確認した。というよりなにかしていないと、心が落ち着かなかった。だんだん迫り来る待ち合わせ時間に比例して、鼓動の波打つ速度が速くなるのを感じていた。
待ち合わせは、よくわからないモニュメント像の前にした。なんとなく、そこが適しているように感じたからだ。彼女はまだ来ていないようで、用もないのに携帯の待受け画面を左右にスライドして、『何かしている人』の雰囲気を醸し出していた。
「こんにちは」
突然の女の子の声に勢いよく振り向く。愛那だった。
ベージュのウールコートを身にまとい、首元には少し大きめのマフラーを巻いている。髪はゆるく巻かれていて、耳には小さなピアスが光っていた。普段の制服姿とはまた違った可愛さがそこにはあり、友郎に緊張が走った。
「あ、こんにちは」
友郎は小慣れた雰囲気を装うが、照れてしまい直視することができない。
「今日は、よろしくお願いします」
礼儀正しく、綺麗な姿勢。しかしどこか親しみのある笑顔に友郎は惚れ惚れして、思わずどもってしまった。
「いや、こちらこそっ。よろしくお願いします」
周りを行く人たちが、ちらちら愛那を見ているのを感じる。やっぱり人目を引く魅力が彼女にはあるんだと友郎は思った。と、同時に一緒にいる自分に少し劣等感を抱く。
――これだけ可愛くて素敵な子だから、今までたくさんの男に言い寄られてきたんだろうなぁ。きっと俺なんかより格好良いやつばかりだっただろう。チケットの力を借りたとはいえ、今日を素敵な一日だったと感じて終わってほしい……。
「お昼ご飯は食べた?」
「うん食べたよ。青木くんは?」
「うん俺も」
「そっか。もしどこか寄りたかったら遠慮なく言ってね」
そういってなぜかクスッと、彼女は笑うように微笑んだ。本当はなにも食べてなくて、というより緊張で喉を通らなくて、今になって少しお腹が空いてきたことが、彼女にはバレているような気がした。
バスに乗り二人が向かったのは「大英水族館」だった。
水族館は初デートにオススメだかなんだかと、いつか読んだ本に書いてあった気がした。それに、特に会話が盛り上がらなかったとしても、ガラスの向こうの魚達が彼女を楽しませてくれるはず。友郎が水族館を選んだ決め手はそれだった。
バスの座席は狭く、少し厚着をした愛那と右肩が密着してしまう。気持ち悪がられないようにと、友郎は左足を軽く通路に出して座っていた。
「もっとこっちおいでよ」
そう言って、彼女は友郎の服の袖を軽く引っ張った。
「あ、うん」
二人の肩がぐっと寄り添う。心なしか彼女の表情が、照れているような気がした。
もうなにも言うことはなかった。デートはもうこのバス内だけでいい。この時間がずっと続けばいいとさえ、彼は思っていた。
バスは水族館の大きな入り口の前で停車する。スタッフが二名、軽くお辞儀をして乗客を館内の受付へと案内した。入り口にはペンギンの親子の等身大模型が、記念撮影ブースとして設置されていた。
――帰る時、あそこで写真撮りたいな。
と思ったが、『写真や記録に録る』ことはしてはならないことを思い出し、少し落ち込んだ。
「ここの水族館を選んでくれてとても嬉しい」
その一言が聞けてとりあえず一安心をした。
想像以上に、彼女は水族館を楽しんでくれた。元々水族館が好きで何度も行ったことがあるそうだが、ここの水族館は初めてだったという。二人が住んでいる町に近いというだけで、特別なにかあるわけでもないのに彼女は喜んでくれ、あっという間に一時間が過ぎた。
「ねぇ見て! ナポレオンフィッシュだよ!」
そう言って、水槽まですぐそこなのに、小走りで駆けてく姿がとても可愛くて、友郎はにやけそうになる頬を押さえた。
彼女が得意げに口を開いた。
「ナポレオンフィッシュって、なんで『ナポレオン』っていうか知ってる?」
「えっ」
友郎は驚いた。二つしか知らない魚に関するトリビアの一つが、先に彼女に言われてしまったからだ。
「う〜ん……。わからん!」
気の利いた面白い答えを考えたが思い浮かばなかった。
すると愛那は嬉しそうな顔をして、
「頭のコブがね、ナポレオンが被っていた帽子の形に似ているからなんだって!」
「あぁ、なるほどね」
「知らなかった?」
「うん、初めて知った」
それを聞くと、彼女はクスッと笑った。
「じゃあ俺からね」
「うん!」
彼女は目をワクワクさせた。友郎は残りの手札を使う。
「『海のパンダ』とも呼ばれる、水族館でも人気の生き物は?」
「――えーっと……あれだ! イロワケイルカだ!」
「――え! なんで知ってるの?」
「なんでも知ってるのだよ」
そう言って愛那はいたずらに笑った。無邪気なその姿が、自分に気を許しているサインに感じて友郎は嬉しかった。
――あぁ、なんて可愛いんだろう。俺、バチとか当たらないかな……。まぁ別に当たっても構わないなぁ……。
壁の矢印に「ペンギンの世界」とあった。そこには、この大英水族館の目玉ともいえる、ちょっとした有名なペンギンの子供がいるのだ。
「ここの水族館のペンギンにね、体の模様に小さい『ハートマーク』のような斑点がある子がいてね、『スイちゃん』って言うんだって。見に行ってみようよ」
事前にこの水族館について少し調べていた彼はちょっとだけ得意げに話した。
「――そうなんだ! 探してみよっと!」
愛那は楽しそうに応えてくれた。
――「みよっと」の言い方が可愛い……。
友郎の口が緩んだ。
ペンギンゾーンの部屋は想像より遥かに大きく造られており、人工的に緩やかな波を起こして海や砂浜をリアルに再現していた。天井は本物の空のように施され、時間に合わせて明暗を調整し昼夜を再現するのだという。室温も低めに保たれており、まるで屋外にいるかのような錯覚を二人は感じていた。
「うわぁ〜! すごぉ〜い!」
「――すごぉ……」
想像以上のクオリティにあいた口が塞がらない。
岩の崖から飛び込むペンギンや、砂浜を走り回るペンギン、従業員用扉の前で餌を待機するペンギンなど、様々だ。
「ねぇ見て! 子供のペンギンがたくさんいるよ!」
「ほんとだ!」
砂浜には木で作られた小さな家がたくさんあり、中から外の様子を伺う小さなペンギンがいた。時々穴から顔を出す仕草がたまらなく可愛かった。
「っかっわいいぃ〜……。やばいやばいっ」
どうやら想像以上に楽しんでくれているようで友郎は嬉しかった。なにより、可愛いものを素直に可愛いと思えるその姿が、彼にとっては一番可愛いと感じるのだった。
階段を降りていくと、水中の様子を下から見ることができた。ザブンという小さな音と共に飛び込んだペンギンが、白い泡を花のように纏いながら自由に泳ぐ姿は、神秘的で何度見ても飽きることがなかった。
「可愛いねぇ」
「うん、可愛いし――なんかすごいね……」
友郎はうまく言葉にできなかった。
「あれ……あの子じゃない? スイちゃんて!」
愛那が指を差す方向に目を凝らすと、確かに、脇腹あたりに黒い斑点模様があるのが見えた。ハートマークかどうかはよくわからなかったが、まぁこんなもんだよな、と友郎は思った。
「ほんとだ……よく見つけられたね」
「うん! やったね!」
彼女は相変わらず嬉しそうな顔を見せた。
ペンギンの世界を後にし、トイレを済ませた愛那が戻ってきた。
「ペンギン可愛かったなぁ……。スイちゃんも元気そうだったし――」
「あれ――、知ってたの?」
「――あ、ううん……」
友郎は思わず尋ねると、愛那は「あっそうだ」、といった顔をして話題を逸らした。
「友郎くんて……好きな魚はなに?」
――あれ? 今のは……。
と思ったが何事もなかったかのように友郎は考えた。
「ん〜……ブリ……が好きかな……」
「――え、ブリ……? ブリて……なんで……?」
と彼女は腹を抱えて笑い出した。
好きな魚なんて考えたこともなかった友郎は、つい刺身を想像し口にしてしまった。だが、愛那にはウケたようで良かったと一安心をした。
――この光景を忘れたくない。彼女とずっと過ごしたい。
チケットの効果が本当なら、明日には二人の記憶はなくなってしまう。チケットに名前を書き込んだことを少し後悔しながら、友郎は愛那を目に強く焼き付けた――。
「イルカのショー、今日は午後の部は水槽の点検でやらないんだね」
愛那が残念そうに案内の看板を指差した。
「あたし、イルカが大好きなんだよね」
「そうだったんだ」
「うん……でも今日でペンギンも好きになった!」
そう言って、今日見たペンギンの何匹かを思い出しては、あんな子がいた、こんな子もいた、と楽しそうに友郎に話した。友郎にとって、夢のような時間だった――。
到着してから約二時間が経ち、想像していたよりもあっという間に感じた。
出口付近にあるお土産屋へと入ると、目の前のカラフルなキーホルダーに目が行った。それは愛那が通学用の鞄に付けていたイルカのキーホルダーだった。つい口に出そうになったが、そこまで見ていたと知られると彼女に引かれてしまうかもしれないと思い、気づいていないフリをした。
――どこの水族館でも売ってるもんなのかな? 俺も同じものを買って、お揃いで鞄に付けたいな……。
そう思った時、愛那が口を開いた。
「何かお揃いで買おうよ」
「え?」
意外な提案に友郎は驚いた。
「あ、嫌なら全然いいんだけど……」
「いや、欲しい! 買おうよ!」
彼女が恥ずかしそうに焦るため、友郎は必死で提案に乗った。
――こんなこともあるのか……。どこまでがチケットの効果なのだろうか。
二人は相談した結果、ペンギンのストラップをお揃いで買うことにした。あまりにも愛那が嬉しそうな顔をするため、友郎も心から喜んだ。筆箱などに付ければ、離れていても繋がっているような、そばに感じていられるような、そんな気がしていた――。
閉館時間が近づいていたため、帰りのバスは混んでいて座ることができなかった。あまり話すこともできなかったため、暗くなる外を眺めていた。彼女もそうしていた。
――なにを思っているのだろう。なにを考えているのだろう……。
十五分程で、バスは百合野町駅のロータリーに到着した。
「家まで送らせてよ」
「え……悪いよ。逆方向だよ?」
「たった一駅じゃん。全然平気だよ」
「……うん、ありがとう。じゃあよろしくっ」
愛那は申し訳なさそうに、けれど嬉しそうな笑みを浮かべ、軽く両手を合わせた。そんな彼女の反応ひとつひとつが友郎の心を刺激する。
日曜とはいえ、夕方になると電車も混んでいた。たった一駅だったが、少しでも愛那と一緒にいたいと思い、見えている景色を、聞こえる声を、感情を、必死に胸に焼き付けた。
「『友郎』って、英語の『Tomorrow』みたいだよね」
愛那の住む小藤町駅に降りた時、彼女がそう言ってきた。
「でしょ? 小学生の時よくからかわれたよ」
「そうなんだ……良い名前だと思うよ? 『明日』って意味」
愛那はそう言うと、少し恥ずかしそうにまた口を開いた。
「『マナ』はね、スペイン語の『マニャーナ』が由来なの。『明日』って意味なんだよ」
「え……、そうだったんだ」
偶然にもなぜかその言葉の意味は知っていたが、まさか『愛那』が『マニャーナ』から来ているとは思わなかった。
「すごい偶然だよね! 二人とも明日って意味なんて」
愛那があまりにも嬉しそうなので、思わず頬が緩んでしまう。
「そうだね」
気がつけば友郎は自然に愛那と話すことができていた。
――これもチケットの力なのだろうか? もしチケットを使わなかったら、二人は仲良くなれなかったのだろうか――。
本当のところはわからないが、屈託なく笑う彼女の表情に、偽りなどこれっぽっちも感じなかった。
「あのさ……、彼氏とかっているの……?」
気がつけば、口をついてしまっていた。
「え――?」
愛那はなぜか頬を赤らめ、恥ずかしそうに否定した。
「いないよ……? どうして?」
「あ、いや……気になってて……」
と言ってから、はっと気がついた。
彼氏がいるかもしれないという『あの話』が気になって聞いただけなのに、これじゃまるで愛那のことが気になって聞いたように聞こえたかもしれない……。と急に恥ずかしくなったが、
――それでも別にいいか。明日には二人とも記憶はなくなるのだから。
と、言い聞かせた。
「……ふぅん」
と言った彼女は、嬉しそうな、寂しそうな、複雑な表情を見せたように感じた――。
「ここまでで大丈夫だよ」
住宅街の曲がり角で愛那は立ち止まった。
「うん。わかった。今日はありがとう」
友郎は、チケットの力を利用して、愛那という一人の人間の大切な一日を浪費させてしまったことに少し罪悪感を抱き、同時に感謝をした。
「ちなみにさ、どうして私をデートに誘ってくれたの?」
そう言うと、友郎の目をじっと見つめた。
「あ、いや……。なんか、いいなぁと思ってさ」
急な質問に対し友郎は焦ったが、素直に答えてしまい照れ笑いをした。
それを聞いた愛那は嬉しそうな表情を浮かべ、そっか、そっかと頷いていた。
「こちらこそ誘ってくれてありがとう。とても楽しかったよ」
そう言った彼女の声は少し湿気っていた。また、まっすぐ友郎を見つめたその瞳が、少し潤んでいるようにも見えた。愛那は後ろを向くと、振り返ることなく帰っていった――。
なんて素晴らしい日だったんだろう。思い返す度に、信じられない気持ちと幸せな気持ちでいっぱいになる。
――本当に彼女とデートができたんだ……。
友郎は余韻に浸りつつ、チケットをくれたお婆さんに感謝をした。
夕食と風呂を済ませ、友郎は布団の中に入った。
――目を閉じてしまいたくない。明日になればおそらく記憶がなくなっているのだろう。そうすればもう彼女のことも忘れてしまう。彼女も俺のことを忘れてしまう――。
信じられない話だが、不思議とそうなると信じられた。なんとなくだが、確信があった。
切なさが友郎の胸をグッと締め付ける。今日あったこと、愛那の笑顔を思い返しているうちに、緊張で疲れていた友郎は、いつの間にか寝てしまっていた――。
次の日は雨だった。携帯のアラームが鳴る前に目が覚めたのは久々だった。なんとなく頭が痛むような不思議な感覚に、友郎はなかなか体を起こすことができずにいた。どこか憂鬱なのは、今日が月曜日だからというだけではなさそうだ。たまにあるその感覚に、雨の音がより一層気分を落とさせた。
食パンにバターを塗っているとき、ふと手が止まる。なぜかぼーっとしてしまう。なにか心にぽっかりと穴が空いたような不思議な感覚だった。友郎は心ここに在らずな状態になっていた。
ふいに時計に目をやると、あっという間に家を出る時間になっていた。慌てて食パンを頬張り甘めのコーヒーで流し込む。部屋の鞄を掴んだ時、机の上にペンギンのストラップが置いてあるのに気がついた。
――……ん? なんで俺の机にこんなのが置いてあるんだろう……。
友郎はそのストラップに、見覚えがなかった。
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