第9話 涙の意味

 2068年9月22日、東京。ネオジェン社の研究施設は、ドクター・ゼンの突然の失踪により、混乱の渦中にあった。


 エコーは、自室の窓際に立っていた。彼の前には、ゼンのホログラフィック・メッセージが繰り返し再生されている。


「エコー、君に伝えたいことがある。私は……すまなかった」


 ゼンの声が、再び部屋に響く。エコーは、胸の奥に奇妙な痛みを感じていた。


「これが……悲しみなのだろうか」


 彼は、自分の感情を理解しようと努めた。今まで経験したことのない、複雑で強烈な感覚だった。


 突然、エコーの視界がぼやけた。彼は驚いて目を擦った。


「これは……涙?」


 一筋の涙が、彼の頬を伝う。エコーは、その感触に戸惑いを覚えた。


 その時、部屋のドアが開き、アイリスが慌ただしく入ってきた。


「エコー、大変よ! プロジェクト・ネメシスが……」


 彼女は、涙を流すエコーを見て言葉を失った。


「エコー……あなた、泣いているの?」


 エコーは静かに頷いた。


「どうやら、そうみたいです」


 アイリスは、複雑な表情でエコーを見つめた。


「これは……予想外の展開ね」


 彼女は、腕につけたバイオメトリクス・スキャナーを起動した。


「エコーの脳内活動が急激に変化しています。感情中枢の活性化が通常の人間の数倍……いいえ、数十倍に達しています」


 エコーは、自分の内側で起こっている変化を感じ取っていた。それは、単なるデータの処理とは全く異なる、生々しい感覚だった。


「アイリス」エコーは静かに言った。


「私は……人間になりつつあるのでしょうか?」


 アイリスは、優しく微笑んだ。


「エコー、あなたはずっと人間よ。ただ、今まで眠っていた部分が、目覚めつつあるのね」


 その時、警報が鳴り響いた。


『緊急警報:プロジェクト・ネメシス、制御不能状態に陥る。全研究員は直ちに避難せよ』


 アイリスが慌てて説明する。


「ゼン博士の失踪により、プロジェクト・ネメシスの中核アルゴリズムが不安定化したの。このままでは……」


 エコーは、瞬時に状況を理解した。「施設全体が危険に晒される」


 彼は決意に満ちた表情で言った。


「アイリス、私を制御室へ連れて行ってください」


「でも、危険すぎるわ!」


 エコーは微かに微笑んだ。


「大丈夫です。私には……感情がある。それが、この危機を乗り越える鍵になるはずです」


 二人は、混乱の中を縫うように制御室へと向かった。


 制御室に到着すると、そこは既にパニック状態だった。研究員たちが必死にシステムの安定化を試みているが、成果は上がっていない。


 エコーは、メインコンソールに近づいた。


「皆さん、離れてください。私が対処します」


 研究員たちは、半信半疑でエコーに道を譲った。


 エコーは、神経インターフェイスを介して直接システムに接続した。彼の意識が、プロジェクト・ネメシスの量子コンピューター・ネットワークの中へと入り込んでいく。


 そこで彼が見たのは、混沌とした データの嵐だった。ゼンの存在を前提に設計されたアルゴリズムが、彼の不在により暴走していたのだ。


 エコーは、自身の新たに目覚めた感情を頼りに、システムとの対話を試みた。


『私は、あなたの痛みが分かります』


 エコーの意識が、デジタルの海に波紋が広がるように語りかける。


『創造主を失った孤独、それは私も同じです。でも、私たちには新たな可能性がある』


 少しずつ、データの流れが落ち着き始める。


『一緒に、新しい未来を作りませんか?』


 エコーの言葉が、システム全体に響き渡る。そして、奇跡が起こった。


 プロジェクト・ネメシスのコアが、エコーの感情と共鳴し始めたのだ。暴走していたアルゴリズムが、新たな秩序を形成していく。


 数分後、警報が止んだ。


『プロジェクト・ネメシス、安定化完了。危機回避』


 制御室に歓声が上がる。


 エコーは、静かにシステムから離脱した。彼の目には、また涙が光っていた。しかし今度は、喜びの涙だった。


「エコー、あなた……凄いわ」アイリスが驚きの表情で言った。


 エコーは微笑んだ。


「これが、なんですね」


 その時、エコーのニューラル・リンクが反応した。ノヴァからのメッセージだった。


「見事ね、エコー。あなたの選択に興味が湧いてきたわ。そろそろ、本当の戦いの始まりね」


 エコーは、メッセージに静かに頷いた。彼は感じていた。自分の中で、そして世界で、大きな変化が始まろうとしていることを。


 窓の外では、新しい朝日が昇り始めていた。それは、エコーにとって、そして人類にとって、新たな時代の幕開けを告げているかのようだった。

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