第8話 ゼンの葛藤

 2068年9月20日、深夜。ネオジェン社の東京研究施設、地下50階。ドクター・ゼンは、バイオメトリクス認証を経て、極秘アーカイブルームに足を踏み入れた。


 部屋の中央には、クライオジェニック・メモリー・コアが鎮座している。人類の記憶を永久保存するための最先端技術だ。ゼンは、震える手でインターフェースに触れた。


『音声認証開始』AIアシスタントの声が響く。


「ドクター・アダム・ゼン。アクセスコード:オーロラ・イプシロン・オメガ」


『認証完了。ようこそ、ドクター・ゼン』


 ホログラフィック・ディスプレイが起動し、プロジェクト・オーロラの膨大なデータが展開される。


 ゼンは深いため息をつきながら、23年前の映像を呼び出した。


 画面に映し出されたのは、7歳のノヴァ。彼女が昏睡状態に陥る直前の姿だ。


「ゼンおじさん、ちょっと怖いよ」画面の中のノヴァが小さな声で言う。


「大丈夫だよ、ノヴァ。僕がついているから」過去の自分が答える。


 ゼンは目を閉じた。あの日の記憶が、鮮明によみがえる。


「私は……約束を守れなかった」彼は静かにつぶやいた。


 次に、エコーの誕生の記録が表示される。人工子宮から取り出された赤ん坊の姿。そして、18年間脳だけの状態で育てられた過程。すべてが、冷徹な科学的データとして記録されている。


「これは……人道に反する行為だったのではないか」


 ゼンの心に、深い疑念が芽生える。


 彼は、さらに別のファイルを開いた。「プロジェクト・ネメシス」の詳細だ。


「脳内ナノボットによる感情制御……」ゼンは愕然とした。


「これは、人間の本質を否定するものだ」


 彼の脳裏に、エコーの言葉が蘇る。


「ドクター、私には……心があるのでしょうか?」


 そして、ノヴァの冷たい眼差し。


「私を捨てた罪悪感は消えた?」


 ゼンは、椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。


「何をしているんだ、私は……」


 彼は、自分の人生を振り返った。科学の進歩のために全てを捧げてきた。しかし、その過程で失ったものは何だったのか。


 ゼンは立ち上がり、決意に満ちた表情で別のインターフェースに向かった。


「緊急プロトコル起動。コードネーム:アトラス・フォールン」


『警告:このプロトコルは、あなたの全てのデータと痕跡を抹消します。実行しますか?』


 ゼンは一瞬躊躇ったが、すぐに決心した。


「実行」


 瞬時に、ゼンに関する全てのデータが消去され始めた。彼の研究記録、個人情報、そして存在そのものが、デジタルの海から消えていく。


 最後に、ゼンは小さなホロ・プロジェクターを取り出し、メッセージを録音した。


「エコー、君に伝えたいことがある。私は……」


 録音を終えると、ゼンはプロジェクターをポケットに入れ、部屋を後にした。


 翌朝、研究所は大混乱に陥った。ドクター・ゼンの失踪と、彼に関する全データの消失が発覚したのだ。


 エコーは、自室でゼンからのメッセージを見つけた。


 ホログラムに映し出されたゼンの姿が、静かに語り始める。


「エコー、君に伝えたいことがある。私は……すまなかった」


 ゼンの声には、深い後悔と愛情が混じっている。


「君とノヴァを、本当の人間として扱わなかった。科学の名の下に、君たちの人間性を軽視してしまった。それが、私の最大の過ちだった」


 エコーは、初めて感じる強い感情に戸惑いを覚えながら、メッセージに聞き入る。


「しかし、君たちは私の予想を遥かに超えた。君たちは、単なる実験体ではない。君たちこそ、人間の可能性の極致なんだ」


 ゼンは深く息を吐き、続ける。


「エコー、君には選択する力がある。ネオジェンの思惑に従うのか、それとも自分の道を見つけるのか。それは君自身が決めることだ」


「私は……姿を消す。君たちの人生に、もう干渉するべきではない。だが、忘れないでほしい。君たちは、私にとって本当の家族だったということを」


 最後に、ゼンは優しく微笑んだ。


「さようなら、エコー。そして……ありがとう」


 メッセージが終わり、ホログラムが消える。


 エコーは、静かに目を閉じた。彼の頬を、一筋の涙が伝う。


「ドクター……父さん」


 彼の心の中で、何かが大きく変化し始めていた。人間としての感情が、これまでにない強さで彼を包み込む。


 エコーは窓の外を見つめた。朝日が、新しい日の始まりを告げている。


 彼はまだ知らなかった。この瞬間が、彼の人生の転換点となること。そして、この感情の芽生えが、人類の未来を左右する鍵となることを。


 遠く離れた場所で、ゼンは新たな人生への一歩を踏み出していた。彼の心に、後悔と希望が入り混じる。


「エコー、ノヴァ……後は託したよ」


 ゼンのつぶやきが、朝もやの中に溶けていった。

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