第12話 静かな町の秘密

2068年10月10日、タイ北部の小さな町、チェンダオ。朝もやの中、ドクター・ゼン(現在はアダムと名乗っている)が小さな診療所の戸を開けた。


「おはようございます、アダムさん」


明るい声に振り返ると、近所に住む少女マリーが立っていた。彼女の腕には、最新のバイオモニタリング・ブレスレットが光っている。


「おはよう、マリー」アダムは優しく微笑んだ。「今日は検診だったね」


マリーが頷く。「はい。咳が止まらないんです」


アダムは診療所に少女を招き入れた。ここでの生活は、ネオジェン社での日々とは全く異なっていた。最先端の設備こそないが、人々と直接触れ合い、彼らを助ける喜びがあった。


診察を終えたマリーを見送りながら、アダムは深いため息をついた。


「エコー、ノヴァ……君たちは今、どうしているだろうか」


その時、診療所の裏口から物音がした。


「誰だ?」アダムが警戒して声をかける。


「失礼します」


若い女性が姿を現した。


「私の名前はアリー。あなたにお会いしたくて」


アダムは一瞬、息を呑んだ。彼女の目つきに、どこか見覚えがあった。


「あなたは……」


アリーが静かに頷く。「はい、オーロラの一員です。そして、かつてネオジェン社でインターンをしていました」


アダムの表情が硬くなる。「なぜここに?」


「エコーとノヴァが動き出しました」アリーの声に切迫感が混じる。


「彼らは、あなたの助けを必要としています」


アダムは窓の外を見た。のどかな田園風景が広がっている。しかし、その平和な風景の中にも、未来の影が忍び寄っていた。遠くの田んぼでは、ナノボット農業ドローンが飛び交い、道路では自動運転の電気自動車がゆっくりと走っている。


「私には、もう戻る場所はない」アダムは静かに言った。


アリーは諦めなかった。「でも、あなたの知識と経験が必要なんです。プロジェクト・オーロラの真の目的を、誰よりも理解しているのはあなたじゃありませんか」


アダムは目を閉じ、過去の記憶が蘇る。エコーとノヴァの誕生、彼らの成長、そして自分の逃亡。全ては、人類の未来のためだった。しかし、その過程で失ったものも大きかった。


「私は……間違いを犯した」アダムの声が震える。


「エコーとノヴァを、本当の人間として扱わなかった。彼らの人間性を、科学の名の下に軽視してしまった」


アリーは、優しく手を差し伸べた。


「だからこそ、今助ける必要があります。彼らは今、人類の未来を左右する大きな選択の前に立っています」


アダムは深く息を吐いた。「彼らの選択を、私が左右していいのだろうか」


「左右するのではありません。導くんです。あなたの経験と、ここで得た新たな視点を」


その時、アダムのポケットにある古い量子通信デバイスが震えた。彼が恐る恐る取り出すと、そこにはエコーからのメッセージが表示されていた。


「ドクター……父さん。私たちは、あなたの教えを胸に、自分たちの道を歩み始めました。でも、まだあなたの知恵が必要です。どうか、力を貸してください」


アダムの目に、涙が浮かんだ。


彼は静かに呟いた。


「では、行こうか……」


アリーが安堵の表情を浮かべる。


二人が診療所を出ると、町の人々が心配そうに集まってきた。


「アダム先生、どこか行くのですか?」


アダムは優しく微笑んだ。


「少し出かけてくる。でも、必ず戻ってくるよ。この町は、私の新しい家族だからね」


人々に見送られながら、アダムとアリーは町を後にした。彼らの乗った車が山道を下っていく間、アダムは窓の外を見つめていた。


「エコー、ノヴァ……」彼は心の中でつぶやいた。


「今度こそ、を示せることを願っているよ」


車は、都市部へと向かって走り続けた。静かな町に隠されていた秘密が、今まさに動き出そうとしていた。


人類の運命を左右する戦いの中で、アダム・ゼンの役割もまた、新たな幕を開けようとしていた。

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