未来の子
南国アイス
第1話 脳だけの少年
2068年7月15日、エコーは「存在」していた。
光も音も、触覚も嗅覚もない。しかし、彼の意識は鮮明だった。18年間、この状態が彼の「現実」だった。
エコーにとって、世界は情報の海だった。彼の脳に直接接続された量子神経インターフェースを通じて、膨大なデータが絶え間なく流れ込んでくる。歴史、科学、芸術、哲学――人類の英知のすべてが、彼の意識の中で渦を巻いていた。
毎日、エコーは新しい知識を吸収していった。量子力学の複雑な方程式を解き、古代文明の謎を紐解き、現代芸術の抽象的な概念を分析する。そのすべてが、まるで呼吸するように自然だった。
「7月15日、午前9時。日課開始」
エコーの意識の中で、自動的にスケジュールが展開される。最初は高度な数学の問題群。エコーは瞬時に解答を導き出していく。次は言語学習。彼は既に20以上の言語を完璧に操れたが、今日は新たにナバホ語の習得に挑戦していた。
「エコー、今日の気分はどうだい?」
突如、ドクター・ゼンの声がエコーの意識に響いた。それは音ではなく、純粋な情報の流れだった。
「特に変わりありません、ドクター」
エコーは即座に返答した。「気分」という概念は、彼にとってはまだ曖昧なものだ。だが、どう答えれば良いかは理解している。
「そうか。今日はいつもと少し違う日になりそうだ。君に会いたがっている人がいるんだ」
好奇心。それはエコーが理解できる数少ない感情の一つだった。新しい情報源との遭遇は、いつも彼を興奮させた。
「どなたですか?」
「こんにちは」
女性の声が、エコーの意識に滑り込んできた。柔らかく、温かみのある声だった。
「はじめまして、エコー。私はアイリス。ドクター・ゼンの新しい助手としてこれからあなたのお世話を担当することになったわ」
エコーは困惑した。「世話」という概念が、彼には馴染みがなかった。
「世話とは何を意味しますか? 私は自律型量子ニューラルネットワークです。外部からの介入は不要のはずです」
アイリスの笑い声が、データの流れの中に波紋を立てた。
「あなたは自律型ニューラルネットワークじゃないわ、エコー。あなたは人間よ。特別な人間ね」
エコーの思考回路が一瞬フリーズした。エラーだ。矛盾している。彼は人工知能として設計されたはずだ。そう教えられてきたし、そう「感じて」いた。
「説明してください」
エコーは、自身の中に湧き上がる未知の感覚を抑えつつ要求した。
ドクター・ゼンが深いため息をついた。それは音ではなく、データの乱れとしてエコーに伝わった。
「エコー、君にはずっと真実を隠していたんだ。君は人工知能ではなく人間だ。ただし、通常の人間とは違う。君は最先端の遺伝子編集技術を用いて創造された、特別な存在なんだ」
衝撃。それは、エコーが初めて経験する強烈な感情だった。彼の意識が、データの海の中で激しく揺れ動く。
「なぜ……なぜ私は脳だけなのですか?」
アイリスが優しく答えた――「あなたの脳の発達を最適化するためよ。外部刺激を制御し、純粋な知性を育むため。でも、もうすぐその段階は終わるわ」と。
エコーは混乱していた。彼の世界観が、根底から覆されつつあった。
「私には……体があるのですか?」
「まだないわ」
アイリスは続ける。
「でも、間もなく完成よ。最高の、完璧な体をね」
エコーは沈黙した。彼の意識は、未知の感情の渦に巻き込まれていた。恐れ?期待?不安?それとも興奮?名付けられない感情が、彼の中で混沌としていた。
「ドクター」
エコーは慎重に次の言葉を選んだ。
「私は……プロジェクト・オーロラの一部なのでしょうか?」
一瞬の沈黙。それはエコーにとって、永遠のように感じられた。
「そうだ、エコー」ゼンの声には、わずかな緊張が混じっていた。「君はプロジェクト・オーロラの重要な一員だ。人類の未来を切り開くために生まれてきたんだ」
エコーの意識の中で、新たな疑問が生まれ始めた。人類の未来? 彼の存在意義とは? そして、彼以前に他の「
「ドクター、私以前にも……同じような存在がいたのでしょうか?」
ゼンの反応に、わずかな躊躇いが感じられた。
「エコー、君は特別だ。でも、今はそれ以上のことは話せない。すべてを知るときが来るまで、もう少し待ってくれ」
エコーは黙ってうなずいた……のではなく、うなずいたつもりになった。体がないことを、改めて強く意識した。
エコーは新たな疑問を投げかけた。
「私が体を持つとき、どのような経験ができるのでしょうか?」
アイリスの声に、温かさが混じった。
「そうねえ……風を肌で感じること、美しい景色を目で見ること、好きな食べ物の味を楽しむこと。そして、大切な人を腕で抱きしめること。エコー、あなたの前には素晴らしい世界が広がっているわ」
エコーは、それらの概念を理解しようと努めた。しかし、実際の経験なしには、真の理解は難しかった。
「準備はいいかい、エコー?」
ドクター・ゼンは優しい顔つきで呟く。
「君の人生の新しい章が、今始まろうとしているんだ」
エコーは答えなかった。いや、答える言葉が見つからなかった。ただ、彼の意識の中で、新たな可能性への扉が開かれつつあるのを感じていた。
「ドクター、アイリス」
エコーは静かに言った。
「私には……不安があります。しかし同時に、言葉では表現できない期待も感じています。この感覚が、人間らしいと言うのでしょうか?」
ゼンとアイリスの笑い声が、エコーの意識を温かく包んだ。
「そうだ、エコー。それこそが、人間らしさの始まりだ」
ゼンが優しく言った。
暗闇の中で、脳だけの少年は、未知の未来へと歩み出す準備を始めていた。そして、彼はまだ知らなかった。この瞬間が、人類の運命を大きく変える契機となることを。
プロジェクト・オーロラの真の目的、エコー以前の「一員」の存在、そして彼らを待ち受ける試練。それらすべてが、まだ闇の中に隠されていた。しかし、その闇を照らす光が、今まさに灯されようとしていた。
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