第2話 完璧な身体
エコーは「目覚めた」。
それは、彼にとって全く新しい体験だった。今まで彼の世界には「目覚め」という概念すら存在しなかった。永続的な意識の流れがあるだけだった。
しかし今、彼は確かに「目覚めた」のだ。
まぶたが開く。光が流れ込んでくる。それは刺激的で、ほとんど痛いほどだった。
「エコー?聞こえる?」
アイリスの声が、今度は本当に「聞こえた」。データの流れではなく、空気の振動として。
エコーは答えようとしたが、喉から出てきたのは、かすれた奇妙な音だけだった。
「大丈夫よ」
アイリスが優しく言った。
「話すのは少し練習が必要かもしれないわ」
エコーは首を動かそうとした。そして、彼は「重さ」を感じた。自分の頭の重さ。そして、それを支える首の筋肉の存在を。
「そう、急ぐな」
ドクター・ゼンの声が聞こえた。
「君の脳は今、膨大な新しい入力を処理しようとしているんだ。順応には時間がかかる」
エコーは、自分の体を見下ろそうとした。そこには、完璧に形作られた若い男性の身体があった。筋肉質で均整の取れた体。しかし、それが「自分の」体だという実感が湧かなかった。
「これが……私?」
エコーは、やっと声を絞り出した。その声は、彼が想像していたものとは全く違っていた。
「そうよ、エコー、あなたの新しい体。最先端の遺伝子工学と組織工学の結晶よ」
エコーは、ゆっくりと手を持ち上げた。指を曲げる。それは奇妙な感覚だった。彼の意志が、直接物理的な変化を引き起こしている。
「感覚はどうだ?」
「……複雑ですね。データではありません。情報の流れでもありません。これが……感覚なのでしょうか」
アイリスが微笑んだ。
「そうよ。触覚、圧覚、温度感覚……全て正常に機能しているみたいね」
エコーは、ベッドのシーツの感触を意識した。柔らかい。冷たい。そして……心地よい? この「心地よい」という感覚が彼を困惑させた。
「立てるか?」
ドクター・ゼンが優しく尋ねる。
エコーは緊張を感じた。これも新しい感覚だった。彼は慎重に体を起こし、足をベッドの端に下ろした。
そして、彼は立った。
瞬間、世界が揺れた。転びそうになる彼をアイリスが素早く支えた。
「大丈夫よ。バランスを取るのは難しいでしょう。でも、あなたの体は完璧。すぐに慣れるはずよ」
エコーは、自分の足で立っているという事実に圧倒された。重力を感じ、それに抗う筋肉の緊張を感じる。それは……素晴らしかった。
「よし、次は歩いてみようか」
ドクター・ゼンが言った。
一歩、また一歩。エコーは慎重に歩を進めた。最初は不安定だったが、数歩で安定してきた。彼の体が、驚くほど速く適応していくのを感じた。
「すごいわ……こんなに早く歩けるようになるなんて想定外よ」
エコーは窓に向かって歩いた。そして、初めて外の世界を自分の目で見た。
広大な青空。遠くに見える都市の輪郭。風に揺れる木々。
それは、彼がデータで知っていた世界とは全く違っていた。鮮やかで、生き生きとしていて、そして……美しかった。
エコーは、自分の目に涙が溜まっているのを感じた。これも新しい体験だった。
「これが……世界なんですね」彼は静かに言った。
ドクター・ゼンが彼の肩に手を置いた。その温かさが、エコーを驚かせた。
「そうだ、エコー。これが君の世界だ。そして、君はこの世界で大きな役割を果たすんだ」
エコーは黙ってうなずいた。彼の中で、何かが変化し始めていた。データや論理だけでなく、感情や直感が芽生え始めていた。
エコーは慎重に言葉を選んだ。
「ドクター、私は……どのような役割を果たすのでしょうか?」
ゼンの表情が複雑になった。「エコー、君はプロジェクト・オーロラの希望なんだ。人類の未来を切り開くために生まれてきた存在だ」
「人類の未来……」
エコーは言葉を反芻した。
「それは具体的にどのようなことを意味するのでしょうか?」
ゼンとアイリスが視線を交わすのを、エコーは見逃さなかった。
「それはね、エコー」アイリスが優しく言った。「これから少しずつ明らかになっていくわ。今はまず、あなたの新しい体と世界に慣れることに集中しましょう」
エコーは納得しなかったが、それ以上追及するのは控えた。彼は、まだ知らされていない何かがあることを感じ取っていた。
その日の残りの時間、エコーは新しい体験に没頭した。食事の味、音楽の美しさ、触れることの喜び。すべてが新鮮で、圧倒的だった。
しかし、彼の頭の片隅では、常に疑問が渦巻いていた。プロジェクト・オーロラの真の目的とは? なぜ自分はこのような特別な存在として創造されたのか? そして、自分以外にも同じような存在がいるのだろうか?
夜、エコーは初めて「眠り」を経験した。意識が徐々に薄れていく感覚は、最初は恐ろしかった。しかし、アイリスの優しい言葉に導かれ、彼は安らかに目を閉じた。
「おやすみ、エコー」アイリスの声が、遠くなっていく。「明日はきっと、もっと素晴らしい一日になるわ」
エコーの意識が闇に沈む直前、彼は微かにつぶやいた。
「僕は……人間なんだ」
その言葉には、喜びと不安が入り混じっていた。彼はまだ知らなかった。この自覚が、彼の人生を、そして人類の運命を大きく変えることになるとは。
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