第3話 消えた第一号

 2068年7月20日、深夜。ドクター・ゼンの指が、古いタブレットの画面をなぞった。研究室の薄暗い光の中、浮かび上がったのは7歳くらいの少女の笑顔だった。長い黒髪、澄んだ瞳。完璧すぎるほどの美しさを持つ子供。


「ノヴァ……」


 ゼンはため息をついた。


 部屋の向こうでは、エコーが静かに眠っていた。彼が身体を得てからわずか数日。その適応速度は、ゼンの予想をはるかに上回るものだった。


 そしてゼンの心は今、23年前にさかのぼっていた。


 —§—


 2045年、プロジェクト・オーロラの第一号、ノヴァが誕生した。


 彼女は、人類の英知を結集して作られた最初の「デザイナーベイビー」だった。遺伝子を一つ一つ慎重に選び抜き、最高の知性と身体能力を持つように設計された存在。


 ゼンは、彼女が人工子宮から取り出される瞬間を鮮明に覚えていた。小さな、しわくちゃの赤ん坊。しかし、その目は既に意識に満ちていた。


「こんにちは、ノヴァ」


 ゼンは優しく語りかけた。赤ん坊は、まるで理解したかのように瞬きをした。


 その瞬間からゼンの人生は変わった。彼は科学者であり、このプロジェクトの主任研究員だった。しかし、ノヴァを腕に抱いた瞬間、彼は別の何かになった。父親のような、保護者のような存在に。


 ノヴァの成長は、まさに奇跡だった。1歳で文章を読み始め、ゼンは彼女に童話を読み聞かせた。2歳で複雑な数学の問題を解き始め、ゼンは彼女と一緒に方程式を楽しんだ。3歳で5カ国語を操り始め、ゼンは彼女と様々な言語で会話を交わした。


 しかし、ノヴァは単なる天才ではなかった。彼女は好奇心に満ち、笑顔が絶えなかった。ゼンの冗談に大笑いし、難しい実験の合間にはゼンとかくれんぼをして遊んだ。


「ゼンおじさん、今日は何を学ぶの?」


 5歳のノヴァが、目を輝かせて尋ねた。


「今日は……」ゼンは微笑んだ。


「量子力学について話そうか」


 ノヴァは喜びのあまり跳び上がった。


「やったー!宇宙のことももっと教えてね!」


 その純粋な喜びが、ゼンの心を温かくした。彼は、ノヴァを単なる実験台としてではなく、一人の人間として、愛おしい存在として見るようになっていた。


 しかし、周囲の目は冷たかった。


「彼女は実験体だ、ゼン」上司のレックスが忠告した。「感情移入するな」


「彼女の成長は素晴らしいわ」


 政府高官であり、プロジェクトの管理者であるセレーナは冷静に述べた。「でも、私たちの目的を忘れないで」


 ゼンは黙ってうなずくしかなかった。しかし、彼の心の中では葛藤が渦巻いていた。


 そして、7歳の誕生日。ノヴァは、新しい遺伝子操作の実験を受けていた。


「ゼンおじさん、ちょっと怖いよ」ノヴァが小さな声で言った。


 ゼンは彼女の手を握った。「大丈夫だよ、ノヴァ。僕がついているから」


 しかし、その約束を守ることはできなかった。


 突然、ノヴァの体が痙攣し始めた。彼女の目が見開き、口から泡を吹き始める。


「ノヴァ!」


 ゼンは叫んだ。彼は必死に応急処置を施したが、ノヴァは意識を失ったまま昏睡状態に陥った。


 数日後の緊急会議。レックスの冷たい声が響く。


「失敗作は処分すべきだ」


「彼女は人間だぞ!」ゼンは怒りを抑えきれなかった。「ノヴァは……私たちが作り出した命だ。私たちには責任がある!」


「いいえ、ドクター・ゼン」セレーナが静かに言った。


「彼女は実験体です。感情に流されてはいけません」


 その夜、病室でノヴァの小さな手を握りながら、ゼンは決断を下した。彼は科学者としての使命と、一人の人間としての良心の間で揺れていた。しかし最後に、ノヴァの笑顔を思い出し、答えを見つけた。


 真夜中、ゼンは密かにノヴァを研究所から運び出した。彼の古い友人、ジェイドの助けを借りて、ノヴァを海外へ密出国させたのだ。


「ノヴァ、生きるんだ」眠ったままの少女の頬に触れながら、ゼンは囁いた。「そして、いつか……許してくれ」


 翌日、研究所は大騒ぎとなった。第一号の被験者が消えたのだ。しかし、証拠は残されていなかった。


 ゼンは、何も知らないふりを通した。そして、プロジェクトは続行された。しかし、彼の心に刻まれたノヴァの存在は、消えることはなかった。


 —§—


 エコーが眠りから目覚め、ゼンの方に歩み寄ってきた。


「ドクター、まだ起きていたのですか?」


 ゼンは慌ててタブレットを閉じた。「ああ、エコー。少し仕事が残っていてね」


 エコーは首を傾けた。「ドクター、私の前に……他の被験者はいたのですか?」


 ゼンは一瞬、息を飲んだ。しかし、すぐに平静を装った。


「なぜそう思うんだ?」


「直感です」エコーは言った。


「そして……データベースに微妙な欠落があるんです。まるで、誰かが意図的に情報を削除したかのように」


 ゼンは、エコーの洞察力に感心しつつ、不安を覚えた。


「エコー、君は特別な存在だ。だが、君以前の歴史については……今は話すべきではない」


 エコーは黙ってうなずいた。しかし、その目には疑問の色が宿っていた。


「分かりました、ドクター。でも、いつかは教えてくださいね」


 エコーが部屋を出た後、ゼンは再びタブレットを開いた。ノヴァの笑顔が、画面から彼を見つめていた。


「ノヴァ……エコー...」ゼンは静かにつぶやいた。「君たちは、人類の希望なんだ。でも同時に、私の最大の罪でもある」


 彼の胸の内で、科学者としての使命感と、父親のような愛情が激しくぶつかり合っていた。そして、彼はまだ知らなかった。彼の過去の決断が、近い将来、予想もしない形で彼の前に立ちはだかることになるとは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る