三 高温

 アハトは、じわじわと強まってきた寝苦しさに目を覚ました。

 瞼を開けば、仰向けに横になっている視界いっぱいに星空が広がる。その星の光がどこか薄くなっているように感じるのは、僅かに空が明るくなってきているからだ。

 寝床もなにもなく、ただ横になっていた砂地に腕をついて上体を起こすと、汗が首から胸元へと伝い落ちた。寝苦しさの正体は、気温の上昇だ。

 アハトは最初の見張りを務め、三時間ほど前に吉野と見張りを交代して眠りについたのだが、そのときより明らかに暑くなっている。蒸し始めた空気の中で、星棲生物の腐っていく匂いがいっそう強くなっているように感じられた。

 振り向けば、大破したポッドの中には、墜落時に死んだ囚人の死体がぶら下がったままだ。お世辞にも居心地が良いとは言えない野営地である。

 視線を上げると、ポッドがめり込んだその岩の上に、見張りのために螺鈿が座っている姿が見えた。

 アハトは立ち上がると、螺鈿に近づくために岩をのぼる。ゴツゴツとした形状の流紋岩のような岩は手がかりが多く、健康的な肉体を持つ成人であれば上るのに特別な苦労はない。

「どうかしたのかい? 僕はさっき吉野と交代したばかりだから、まだ休んでいて大丈夫だよ」

 遠くの方を眺めていた螺鈿は、物音に気づいてアハトの姿を見とめると、そう声をかけてきた。

「いや、大人しく寝てられなくなってきた。気温が上がってるな」

「たしかに、先ほどより随分暑くなっているようだ。地球上にあったという砂漠も、夜は寒く昼間は暑い環境だったそうだから、ここも同じような現象が起こるのかもしれない。この星には昼夜があるみたいだね」

 そう話す螺鈿の横にアハトは腰掛けると、視線を遠くへ向ける。どこまでも広がっているように見える砂漠。その地平線から立ち上がる空が、際の方から白みはじめている。

 しばしの沈黙が続く。アハトは持ってきたボトルから水を一口含んでから、口を開いた。

「アンタ、なんで探索刑なんて受けることになったんだ」

 直球の問いかけに、螺鈿は目を細めた。

「そんなことを聞いて、どうするんだい? ここでは、もうイザナミでのことなど関係ないと思うが」

「アンタは医者だろ。俺も今後治療してもらうことがあるかもしれない。アンタが本当に信用できる人物なのかが知りたい」

 この場所にいる人間というだけで、イザナミで極刑を下された罪人であることは間違いない。しかし、同じ刑に処されたからといって、全員が同じような性質を持っているわけではないことは、墜落してからいままでの個々の様子を見ていればわかる。

 螺鈿ははじめ、堂島とエイタの諍いを仲裁しようとし、ポッドの中の死体を助けることを提案し、吉野とエイタの怪我に対して処置をした。この星で起きたあらゆることに対して、一番善人寄りの反応をしている。

 螺鈿は短くため息を漏らしたが、過去を語ることを拒否しなかった。

「僕は医者だとは名乗ったが、医師免許は持っていないんだ。試験に合格できなかった落ちこぼれでね」

 その言葉から始まった螺鈿の話に、アハトは驚くこともなく頷く。正当な医師免許を持っている真っ当な医者が、下層で働くことを選ぶわけがないからだ。下層で働いていたという時点で、それは無免許の闇医者であることを示している。

 しかし、下層にも医者は必要だ。下層で働いている限りでは、無免許だからといって逮捕されることはない。あまつさえ、探索刑が下されることなどありえない。

 螺鈿は話を続ける。 

「ある日、僕の診療所に、十五歳の少女が病気の治療のためにやってきたんだ。病状は悪く、すでに末期状態でね。診療所のベッドに入院させる形で治療を行い、最後には延命のために手術も行ったのだが、術中に亡くなってしまった。悲しいことではあるが、医療現場において、ここまでは特に珍しいことでもなかったんだよ」

 螺鈿はそこで口元に薄い笑みを浮かべる。

「問題は、その子が下層の人間ではなく、実は上層の市民だったことだ。そのことは、彼女が亡くなって、遺体を引き渡すために遺族を探しているときに知った。僕は、彼女の遺体を隠蔽しようとした」

 そこまで話を聞いて、アハトは軽く眉根を寄せた。なんとなく先が読めてきたからだ。

 無免許の闇医者が医療行為の途中で患者を死なせてしまった場合。相手が下層の人間であれば、個人同士の話し合いとなるため公的には何の問題もないが、上層の市民となると話は別だ。イザナミでは、被害者の地位によって刑の重さが変わることは、咎められることもない公然の事実である。

「少女が死んだ翌日には、僕の診療所の近くで彼女を見かけたという話を聞きつけて警察がやってきた。実は彼女の両親が失踪届を出していたんだよね。そこで、隠蔽のため薬品で溶かしている途中だった彼女の遺体が見つかり、僕は逮捕されたよ。医療行為の末に死んでしまったという主張は受け入れてもらえなかった。僕は、十五歳の少女を誘拐、監禁の末殺害した上に、薬品で遺体を溶かして遺棄しようとした極悪人ということになった。過去にも、医療行為の途中で亡くなった遺族のいない患者を、同じように薬品で処理したことが何度かあってね。それらの遺骨も見つかっていたから、連続殺人の容疑もかけられた。裁判で極刑が下されるまでにほとんど時間は掛からなかったよ」

 認定された罪状だけを見れば、探索刑もやむを得ない凶悪犯罪者である。しかし、螺鈿の話を信じるのであれば、完全なる冤罪だ。

「そもそも、なんで上層の市民が下層の診療所に来たんだ」

 そこまで黙って話を聞いていたアハトは、落ち着いた声で問いかける。当然のことながら、上層には医師免許を持った優れた医者が不足なくいる。正規の医者にかかれる人間が、わざわざ下層の闇医者のもとへやってくる必要はない。

 螺鈿の口元の笑みがふっと深まった。

「彼女の病気は、性病だったんだ。感染したことに自覚があったのか、感染源に心当たりがあったのか、理由はよくわからないが、親には言えなかったんだろうねえ」

 ほとんど知らない上層の闇を垣間見たようで、アハトは沈黙する。会話はそこで途切れ、螺鈿はこめかみを流れる汗を手の甲で拭った。

「ねえ、いくら夜が明けるからって、ちょっと暑くなりすぎていないかい?」

 螺鈿が発した疑念の言葉に、アハトもまた汗を拭いながら頷く。会話をしている間、徐々に明けてくる空の色に比例するように、気温はぐんぐんと上昇を続けていた。夜間は適温だったが、現在は体感で三十度を超えている。それでも、まだ夜は明けきっていない。昼間になったら、気温はいったいどうなってしまうのか。

「夜の気温がたまたま人間にとっての適正温度だっただけで、この星の昼の気温が、人間の生きていける温度で収まるなんて保証は、どこにもないよな」

 アハトが呟くと、螺鈿は大きく音を立てて唾を嚥下する。

 あまりの高温に寝ていることができなくなり、体を起こせないエイタを含め、一人、また一人と、この場にいる全員の囚人が眠りから目覚めはじめる。

 地平線の向こうに、徐々に大きな恒星の白光が見えてきている。あれは太陽ではないが、この星においては太陽と呼んで差し支えない存在のものである。気温の上昇は、日が出てきていることが影響しているとみて間違いなかった。

 墜落地点の周囲には砂漠が広がるばかりで、点々と突き出る岩も頼りない。日が上りきったときに身を隠せる場所が、周囲には存在しない。

 囚人たちは上昇を続ける気温に危機感を覚え、行動の妨げにならない量の物資を持って、日陰を求めて移動することにした。


 それから二時間後。アハトはエイタを背負い、あてのない灼熱の砂漠の中を歩いていた。

 太陽のような恒星の白光はまだ地平線に寄った位置にあるが、あたりはすっかり明るくなっている。足元に広がるのは、どこまでも続いていると錯覚してしまいそうになる白い砂。その白さは頭上からの光を反射するため、直射日光を避けようと顔を俯けても眩しさを感じた。

 砂漠のような何も目印がない状態だと、多くの人間は真っ直ぐに歩くことができない。直線状に歩いているつもりでも、体の僅かな歪みから徐々に曲がって行ってしまうからだ。歩き続けた結果、大回りをして出発地点に戻ってきてしまうという可能性すらある。

 しかし、囚人たちの着ている白いつなぎに装着されたベルトには、発信機とお互いの位置関係を示す機能が備わっていた。

 バックル部分に小さな緑色の画面が取り付けられており、囚人全員の位置が白い点で表示されている。地図のような機能はなく、それぞれの点がどの囚人を表しているかを判別することもできない。自分を中心にして、どの方向に囚人がいるのかということがわかるだけの簡易的な機能であるが、ただ真っ直ぐに進むという方位磁針的な役割としては問題なく使用たり得た。幸か不幸か墜落地点には囚人一人の死体があるため、墜落地点がどの方向にあるかを把握することができるからだ。

 先頭を堂島が進み、エイタを背負うアハトのすぐ後ろには螺鈿がついている。吉野は四人から少し離れた位置をキープしていた。あえて離れているわけではなく、体力的についていくのでやっとなのである。

 墜落地点を出発したときから、螺鈿は時折振り返り、置いていかれがちな吉野の様子を確かめていた。しかし一時間ほど前からは、螺鈿も他人のことを心配する余裕がなくなっている。

 全員が無言のまま、ただただ無心に足を前へと進める。歩きにくい砂地が足を取り体力を奪うが、もはやそんなことも気にならなくなっている。体感では、現在の気温が何度になっているのかも測れないほどの高温。

 とめどなく汗が流れていくが、熱したフライパンに水滴を垂らしたかのように一瞬で蒸発してしまう。それぞれ一人一本ずつ持ってきていた水のボトルは、もはや全員が飲み尽くした。時折どこからともなく吹く風は、耐え難い熱風となって囚人たちに責苦を与えた。

 肌が燃え、喉が焼け、眼球が乾き、脳が煮える。意識が朦朧とし、なにも考えることができない。アハトは、背負っているエイタが生きているか死んでいるかもわからなかった。身を軽くするために置いていくという判断を下すことすらできない。

 わかるのは、足を止めたら死ぬということだけ。倒れたら起き上がれずに死ぬ。日差しに晒されたまま、この気温の中にあと数分でもいたら死ぬ。日がさらに上って気温が一度でも上昇したら死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 死への恐怖に意志が挫け、膝から崩れ落ちそうになったそのとき。

 アハトは、前方を歩く堂島がなにか言ったような気がして、視線を上げる。何の変哲もないただの砂丘に見えていた地形の中央に、黒い窪みが存在していることに気が付く。

 緩やかに隆起した地形に、落ち窪んでいく洞窟が存在していた。

 それは巨大な蟻地獄の巣穴のように見えなくもないが、一歩ごとに死のラインを跨いだかどうかを死神によって判定され続けているに等しい状態にあった囚人たちにとっては、警戒する必要もない唯一の救いであった。

 その存在に気づく前よりも力強く歩みを進め、彼らは洞窟へと入り込んだ。

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