四 判断
焦ったアハトはバランスをとって枝の上に立ち上がると、頭上に突き出ていた細めの枝に手を伸ばした。
「アハト、ナニしてるの? 危ないよ」
「この枝、折れないか。あの巨大ムカデの上になにか落としたい」
枝を折ろうと、しっかりと握り込んだ両手に力を込める。だが、鱗のようなものが表面をびっしりと覆っている枝は、枝というよりも中身の詰まった鉄の棒を握っているような質感に近い。いくら頑張ったところで撓る様子さえ見せず、いくら細くても人の力で折れるとは思えなかった。
「枝を落として、どうなるの?」
加えて、シュウからひどく冷静な言葉をかけられる。アハトはそのまま脱力すると、枝の上に座り直した。
例え落とした物がちょうどよく巨大ムカデに当たったところで、硬そうな殻を持つそれはまったく動じないだろう。そのようなことは、アハトも理解している。しかし、他になに一つ打つ手がないのだ。
アハトが俯いてから、しばしの沈黙。次に口を開いたのは、シュウだった。
「シュウが、囮になるよ」
アハトは顔をあげ、シュウの真剣そのものである表情を見る。冗談を言っている者の顔ではない。
「囮って、どうするつもりだ」
「ここから早く移動しないと、二人とも死んじゃうんでしょ? シュウが先に降りて、巨大ムカデを引きつけてできるだけ遠くに行く。シュウは足が速いから、きっとできる。その間に、アハトは逃げて」
「そんなこと、させられるわけがないだろ」
「どうして?」
「どうしてって……アンタ、死ぬぞ」
下に降りた後、仮にうまく走り出せたとしたところで、灼熱の昼が迫っていることは変わりない。日差しから身を隠せる場所に逃げ込めない限り、命の期限は伸びてはいないのだ。アハトには、巨大ムカデに追われながらそのような場所を見つけることは不可能なように思われた。
「シュウが死んでも、アハトには関係ないでしょ? ここから逃げられたら、アハトは生きられる」
突き放したような言葉に、アハトは思わず絶句した。
その、アハトが怯んだ一瞬の隙をつくように、シュウは動き始めた。恐れひとつ感じさせない軽い身のこなしでするすると下の枝へと移動していく。
頭上の動きに気付いたのか、幹の周りを無意味に回っていた巨大ムカデが移動を止め、鎌首をもたげた。
「シュウ! やめろ。止まれ!」
「アハトも、ボスの身代わりになったんだよね。シュウがこれからすることも、同じだよ。シュウはアハトを生かす」
「それとこれとは話が違う」
「違わないよ」
「わかった。だったら俺が囮役をする! 立場を変えよう。それでいいだろ」
後を追うように立ち上がり、移動しはじめたアハトの言葉を受けて、シュウの動きが止まった。
彼は顔を上げ、焦るアハトを見てふわりと微笑む。
「アハトは、優しいね」
しかしその言葉は、アハトの提案を受け入れたという証ではなかった。何の気負いも見せずに、シュウがふっと枝から跳躍した。
「駄目だ、シュウ!」
アハトは声をからして叫んだが、シュウは巨大ムカデから僅かに離れた場所に着地すると、そのまま振り返ることなく走り出した。彼が着ているつなぎは背中の一部が破れ、赤く染まっている。墜落時に岩で貫かれた傷口だ。遠目でも、とても軽傷には見えない。
目の前に獲物が降ってきた形になる巨大ムカデは、無数に生えた節足を蠢かせながらシュウの後を追って、猛烈な勢いで走り始める。その光景を、アハトは呆然と見送るしかなかった。
「なんで……」
アハトはボスの身代わりとなって、ほぼ死刑と変わらない探索刑を受けた。だが、逆に誰かの自己犠牲の上で命を救われるなどということは、生まれてはじめての経験だった。
アハトにとって肉親に近い最も身近な存在はドライだが、ドライのことを身を挺してでも守るのが子供の頃からのアハトの仕事であり、逆の立場になったことはない。
シュウがとった行動の理由がわからず、呆然としながらも、アハトは木から降りて砂地に立つ。そこから眺めると、墜落地点とは別の方角に走って行ったシュウと巨大ムカデの姿はすでに見えなくなっていた。
アハトの胸のうちに一瞬、彼の後を追おうかという気持ちが湧き上がった。だが、日の光は真横から差し込んできはじめている。時間がない。
奥歯を噛み締めて踵を返すと、アハトは一人、墜落地点へと早足で戻り始めた。
側に堂島の死体があるため、墜落地点であるポッドの位置はベルトのバックルで確認することができる。しかし、度重なる精神的な負担と肉体の疲労と脱水症状により、アハトの足取りは重くなっていた。
ポッドに辿り着いた頃には日がすっかり昇って、地平線からその姿を表している。そしてここに至って、アハトはようやく昨日とは様子が違うことに気づく。
降り注ぐ日の光が、心地良いと感じるレベルまで弱まっている。夜よりも気温が上がってはいるものの、むしろ快適だ。これから昼を迎えたとして、気温が突然急上昇するとも思えない。あの殺人的な暑さの気配がないのだ。これからのんびりと洞窟に歩いて行っても危険性はないだろう。
その事実を改めて認識し、アハトは無意識のうちに下唇を噛む。
夜明けによる差し迫った命の危険がなかったのならば、シュウの犠牲は必要なかったのではないか。二人で木の上で待ち続けていれば、いずれ巨大ムカデも諦めてどこかに行ったのではないか。
その、後悔しても仕方がない考えが、どうしても頭から離れないのだ。
ポッドの真正面に立ち、アハトは拳を握り締めたまま空を仰ぐ。ポッドの中には、シュウを宙吊りにしていたベルトと、彼の背を貫いていた岩の先に、彼の体から流れ出た血の痕跡が生々しく残っていた。
大きく息を吸って叫び出したい衝動を抑えてから、アハトはポッドの中に備え付けられたコンテナの横にしゃがみ込む。
まずは水のボトルを一つ手に取り、キャップを開けて口をつける。渇ききった喉を水が潤すと、その美味さに全身が総毛立った。節制しなければとは思いながらも水を飲み下す喉の動きを止められず、体の欲するままに五百ミリリットル入っているボトルを一本空けてしまうと、ようやく一息つくことができた。
目の前にあるコンテナの中には、囚人六人の五日分程度の食糧と水が入っている。食糧は全てレーションで、一日につきレーション三つが一人分として割り当てられているが、そもそもレーションが小さく軽量なため、それほどの重さではない。
問題は水のボトルである。数えてみると、水も一日三ボトル。つまり一・五リットルが一人分として割り当てられていることがわかる。六人の五日分は四十五リットルだ。昨日洞窟へ移動を開始したときに全員がボトルを一本ずつ持って行っており、今もアハトが一本飲み干したため、総計で四十二リットルになってはいるが、それでも全て一人で持ち上げ、砂漠の中を歩き続けて洞窟まで運ぶのはなかなか厳しい重量である。だからこそ、本来は堂島と二人で持ち帰る予定だったのだ。
アハトは砂地にしゃがみ込んだまま、しばしどうしたものかと考え込む。シュウの体を宙吊りにしていたベルトを見上げ、ふと一つの考えに至った。
コンテナの周囲をたしかめると、それはポッド内側の壁面にボルトで固定されていた。手をかけてみると、墜落の衝撃によるものかボルトは緩んでおり、力を入れればなんとか手で外すことができた。指を痛めながら全てのボルトを取り外し、ポッドとコンテナを分離することに成功する。
次に目をつけたのは、シュウの体を宙吊りにしていた、ポッドの壁面につけられたベルトだ。
周囲に散らばるポッドの残骸の中から鋭利で扱いやすい金属片を探し出すと、金属片の先端でベルトの強固な繊維の一本一本を断ち切るように幾度も掻き、切断する。手頃なその金属片はナイフとして使い勝手が良さそうなので、ポケットの中に入れて持っていくことにした。
ベルトの先をコンテナに括り付けて持ち手にすると、ついに準備が整った。アハトはコンテナを引きずりながら歩き始める。
引きずったとしてもコンテナは重い。しかし、持ち上げて運搬することと比べれば随分と楽だ。幸いなことに、荷物の重みで沈み込むこともなく、強い摩擦や引っかかりのないこの星の砂地は、物を引きずって移動させるには向いた地質をしている。
一歩一歩砂を踏みしめながら歩く。
ポッドのすぐそばには、すでに原型を留めていない、どす黒いゼリー状の塊となったものがある。それは、エイタが弱らせ、アハトがとどめを刺した星棲生物の死体だ。
殺した直後に放っていたきつい悪臭はほとんどなくなっていて、現在はどこか甘い仄かな香りが漂っている。アハト自身にあの生物を殺した覚えがなければ、この不気味な物体がいったい何物であるかわからなかっただろう。
洞窟に向けて足を進めれば、なにもない砂地に堂島の死体がぽつんと落ちている場所に出くわす。アハトは妙に冷静な心持ちで、赤く染まり、ボロボロになった白いつなぎに包まれている無惨な肉体を横目に見ていた。
頭部は完全に失われている。また、アハトが最後に目にしたときにはまだ形が残っていた体も、いまはエメンタールチーズのようにあちこちが穴だらけになっている。穴から中身を啜られたのか、体液が漏れ出てくる様子はなく、妙に乾燥しているように見えた。周囲には、頭部を捥がれたときに飛び散った血液が、砂地の広範囲に陰惨な黒い滲みを残すばかり。
——きっと、堂島があの『イザナミ史上最悪の殺人鬼』だったんだ。
アハトは内心で呟く。
堂島が彼自身で話していた、探索刑にかけられることになった罪は別物であった。だが、エイタの知人であったというジャーナリストは、秘密を暴露すると堂島を脅していたという。
——ならその秘密というのが『堂島が猟奇的殺人鬼だった』ということなんじゃないのか。
首を絞められ、朦朧とした意識の中で見上げた堂島の表情の邪悪さから、アハトにはそう思えてならないのだった。
自身を犠牲にして、巨大ムカデと共に走り去ったシュウのことを思い後ろ髪を引かれながらも、アハトはただ黙々と足を動かし続け、洞窟へと急ぐ。
アハトは先ほど水を飲んだが、螺鈿たちはいまも洞窟の中で耐え難い渇きを覚えているはずだからである。先ほどまで自身も同じ状況にあったために、アハトにはその苦しみが容易に想像できた。洞窟に残った螺鈿たちはアハトのように動き回っていないため、まだ耐えられているはずではあるが、早いに越したことはない。
内容物が満載の重いコンテナを引きずり続けた掌は痺れを覚え、全身が疲労を訴えていたが、前へと出す足の動きを止めることはなかった。
体の動きが緩慢になりながらも歩き続け、アハトはようやく、あの砂地から潜り込むような横穴の前へと辿り着く。
その頃にはもうすっかり日の光は頭上を通過して傾きかかっているが、気温は体感で二十五度程度。人間にとっての適温のまま変わっていなかった。
横穴へと入り込む直前。
墜落地点を出発してから初めて、アハトは一瞬だけ立ち止まった。
堂島と二人でここから出発して行ったことを思い出したのだ。そして、短時間で自分の身を幾度も救ってくれたシュウを見捨ててきた事実が胸の奥に重く、深く息を吐く。
残された囚人たちへ事情を説明する文言を考えだしながら、アハトは洞窟へと戻る。
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