三 耐久

 いつ諦めるとも知れない、迫り来る死から全力疾走で逃げ続けるのは、猛烈な炎天下にあてもなく歩き続けるのとはまた違った苦しみがあった。

 アハトは、脱水症状からまたも意識が朦朧としてくるのを感じていた。体は間違いなく走っているのだが、体から意識が分離していくようで、自分が立っていられているのかすら判断がつかなくなってくる。

 激しい運動のために体の内側から発熱しているのに、なぜだか背筋が震えるような寒気を感じる。気がつけば、どこに進むかの判断をシュウに完全に任せ、視線は地面に落としたままになっていた。

「アハト、登って!」

 完全に意識が飛ぶ寸前、シュウに呼ばれ、アハトは顔を上げる。目の前には、大きな木が迫っていた。

 正確には、木のような形状をした不思議な物体だ。表面は魚の鱗のようなもの覆われており、一見すると深緑色をしているものの、角度を変えてみると玉虫色に光っている。葉はついていないが、地面から突き出ている幹から放射状に枝が伸びており、木登りの要領で登ることは容易だった。

 これは何だ、何故登るのか、危険ではないのか。そんな様々な思考が一瞬頭を過ぎるが、問答をしている時間も体力も残っていなかった。シュウが一番下の枝に飛びつくようにして先に登り始め、アハトもすぐさまそれに続く。

 奇妙な木は高く聳えており、シュウとアハトは地上から八メートルほどの高さまで登ったところで、横に突き出た枝に座って体を安定させる。見下ろすと、地面では巨大ムカデが幹を囲んでとぐろを巻いていた。行き場を失ったようにぐるぐると動いている様子を見るに、登っては来られないようだということは推察できる。

 アハトはそのまま周囲に視線を向ける。二人が登っているのと同種の木は周囲に十本ほど生えており、その木々に囲まれた中央には直径六メートルほどの池がある。ここは、砂漠に生まれた小さなオアシスだった。

「何だ、この、不気味な木……それに、水がある。こんなところがあったのか」

 激しく乱れていた呼吸を整えながら、アハトは呟く。そのまま横に座るシュウを見ると、息一つ乱していなかった。彼の体型は筋肉質なアハトよりも細身に見えるが、超人的な体力だ。

「ここにオアシスがあることを知ってたのか?」

「気がついてから、シュウは周辺をうろうろしてて。先に見つけてたんだ」

 シュウの一人称が『シュウ』になっている。幼い子供のような様子に違和感を覚えながらも、アハトは質問を続けた。

「あの巨大ムカデが、木には登って来られないことも知ってたのか?」

「それは勘。と、運。砂の浅いところを移動してるみたいだったから、上には来られないかもって思って。当たってて良かったね」

 軽い問答の末にシュウは明るく言うと、また微笑みを浮かべた。その朗らかな表情を目にすると、何故だかつられてほっとした。アハトは側の幹に背を預けると、体から僅かに力を抜く。深呼吸を一つ。

「巨大ムカデがどこかにいなくなるまで、ここにいるしかないな。諦めがいいと助かるが」

 そう口にしてはみたものの、巨大ムカデの諦めが良いわけないことは、ポッドからここまで延々と二人を追いかけてきたことからもわかっている。

 アハトはゆっくりと目を閉じた。畳み掛けるように身に迫った危険に、体も精神も心底疲弊している。

 と、そんなアハトの額を包み込むようにシュウが手のひらを添えた。

「なにしてんだ」

 目を閉じたままアハトは静かに問いかける。

 普段であれば、アハトは人に触れられることを好まない性分をしている。しかし、ひんやりとしたシュウの手には不快感が湧かなかった。加えて、先ほどまでずっとその手に腕を引かれていたのだ。命を救われたという実感もあり、彼の手を無理に払おうという気持ちは起きなかった。

「ダイジョーブかな、と思って。アハトが死んだら、つまらないから」

 シュウの素直な言葉に、アハトは呆れるようにため息を漏らす。優しく触れてくるシュウの手の感触をどこか心地よく感じていると、ポッドにベルトで宙吊りになっていたときの姿を思い出した。

「アンタこそ、背中の傷は平気なのか。人体の仕組みについては詳しくないが、記憶喪失の上に仮死状態? になってたんだから、よっぽどのことだろ」

 体の隙間からチラリと覗き込んだだけだが、ポッドにめり込んだ尖った岩が、そのままシュウの背中に突き刺さっていたことは間違いない。問題は、その刺さっていた深さだ。螺鈿と共に確認したときは、内臓のあたりまで達しているのではないかと感じていた。

 だがもしそうであれば、アハトの腕を引いて走り続けるといった、ここまで激しい運動ができるはずがない。

「ウン、ヘーキ。痛くないし」

 ——仮死状態になるほど体に岩が突き刺さっていて、その傷が痛くない方が問題なんじゃねぇの。

 と、アハトも一応は思ったが、体調への質問を繰り返すことも、その傷口を確認することもしなかった。

 傷口を見たところで、医学の知識がいっさいないアハトには状態についての良し悪しを判断することはできないし、仮に悪い状態だったとしても、この場で治療を施すことなど不可能だ。

「螺鈿っていう、下層で医者をやってた奴がいる。他の奴らと一緒に洞窟で待ってるんだが、水と食糧を持って洞窟に戻ったら、傷口を見てもらえ。手当もしてもらえるから」

 結局は、そう告げるしかない。

「わかった、そうする」

 相変わらずシュウは素直に頷いた。それからしばしの沈黙。

 巨大ムカデが立てる、砂と節足の不気味な音が断続的に響くばかり。その音を聞いていると、アハトは目の前で突然頭部を失った堂島の姿を思い出した。堂島は明確な殺意を持ってアハトを殺そうとしていたが、だからといって彼の悲惨な最期に対する衝撃が和らぐわけでもない。

 脳裏で悪夢のように再生してしまうショッキングな映像のループを止めるように、アハトはシュウへと問いかける。

「目が覚める前のことを、本当になにも覚えていないのか? 自分がなにをしていたかとか、イザナミでの生活はどうだったかとか」

「イザナミってナニ?」

 質問に質問で返されたその一言だけで、シュウが本当になにも覚えていないということが伝わってきた。

 アハトは面倒くさそうに一度前髪をかき上げてから、イザナミのことをはじめ、共に星へやってきた囚人たちの簡単な紹介を含めて、自分たちが罪人であることや、探索刑についての説明をしてやることにした。今後行動を共にするにあたって、自分たちが置かれた極限状況が共有できてなければ、面倒な事態に発展しかねない。


「つまり、ここで三年間生きてたら、イザナミっていう宇宙船が迎えにくることになってるってことだよね」

 一通りの説明を聞き終え、シュウが理解したことを示すように一言でまとめる。

「そうだ。この星は昼夜の寒暖差が酷くて、特に昼間は地表にいると生きていけない程だし、あの巨大ムカデみたいに訳のわからん危険な生物もいる。だがそれでも、この星で生活していくことは不可能ではないはずだ。そもそも他に生物がいること自体、この星で生きていけるという証明にすらなり得る。俺たちは運がいい」

 アハトの視線は、オアシスの中心にある池へと向く。水面は空に瞬く星を写し込んでいるばかりで、その水が澄んでいるか、飲めるのかどうかはおろか、どんな色をしているのかすらもわからない。しかし水の存在が確認できたことは、今後この星で生活をしていかねばならない囚人たちにとって、かなり大きな収穫だ。

「アハトは、イザナミではナニをしてたの? どんな生活だった?」

 説明の前にアハトがした質問を返すように、シュウが問いかけてくる。アハトは自分のことについて話すかどうか一瞬の逡巡をしたが、ごく素直な眼差しを向けてくるシュウの表情を見て、ふと肩から力を抜いた。

「俺は下層にいて、プレイグという組織の構成員をしていた。俺の主な仕事は借金の取り立てだ。上司にあたるドライさんっていう人に指示されるまま、利息の支払いが滞っている債務者のところに行って、持ってない奴から無理やり金を搾り取る毎日だった」

「プレイグっていうところが、お金を貸す会社だったの?」

「いや、金貸し業は、プレイグが持つ色々な事業の中の一つだな。俺は喧嘩が強かったから、その適性を見込まれて取り立てに回されていただけの話だ。宇宙で生活するほど技術が進歩しても、人間なんて変わらない。目の前にいる強いやつには逆らえないもんだ」

「どうしてプレイグに入ろうと思ったの?」

「別に、入ろうと思って入ったわけじゃない。俺を七歳まで育ててくれた実の親父が死んで、それしか生きる道がなかっただけの話だ」

 アハトが物心ついた時から、母はいなかった。幸いなことに、父は下層民にしてはまともな人物だったが、プレイグに多額の借金をしていた。

 激しい取り立てが苦になったのか、元々の体質か、因果関係ははっきりとしないが、父が病気で死んだ。その結果、ただ一人残された息子であるアハトがそのままプレイグに拾われて借金取りとなったのだ。それは当然の流れでありながら、かなり皮肉なことの成り行きである。

 まだ幼かったアハトに仕事のやり方を含めて人生のすべてを教えながら、庇護を与えてくれたのがドライだった。

「まあそれも、殺人罪で警察に捕まるまでは、って条件付きの話だが。いまでは、その困ってる奴から金を取り立てるだけのクソみたいな生活でも懐かしく感じるほど、拘置所の独房に長く入っていたからな。アンタが拘置所のことを含めて忘れてることだけは羨ましく思うよ。ただ何もすることがなくて狭いっていうだけの空間ではあったが、それがあんなに堪えるものだとは、経験するまで思ってもみなかった」

「どうして人を殺したの?」

 アハトの話を聞いているシュウは、文字を書き込まれることをただ待っている白紙のようだ。批判も裏の感情もなくされた直接的な質問に、アハトは一瞬言葉に詰まる。

 乾いた唇を、水分不足で粘ついてきた舌で辛うじて湿らせ、アハトは一度ゆっくりと目を閉じてから、改めてシュウを見て答える。

「ひどいことは散々やってきたが、俺は……人は殺してない」

 先ほどアハトは、『この星にいる段階で、全員が人を殺して探索刑という極刑に処された囚人である』と説明していた。アハト自身がした説明と矛盾する言葉に、シュウは不思議そうに首を傾げる。

「アハトは違うの?」

「プレイグは、先代が事故で急死して一年前にボスが変わったんだ。現在のボスは先代の息子で、俺より二つ上なだけの二十八歳だ。急な代替わりで、幹部同士の権力争いなんかもあって組織全体がまだ揺らいでいる」

 アハトは開き直ったように説明を続けた。説明をしながら、その内容の馬鹿馬鹿しさに口元には薄い笑みが浮かぶ。

「そんな最中、ボスが痴情のもつれってやつでうっかり上層の市民を二人殺した。しかも片方は議員の息子だった。目撃者もいるし、極刑は免れない。だが、今ボスがいなくなったらプレイグは瓦解する。そこで、背格好がよく似ている俺が、ボスの身代わりになることになったんだ。俺は一介の構成員で、俺がいなくなったところで何の影響もないからな」

 自分が無罪であるという釈明は、イザナミにいるときには決して話してはならなかったことだ。しかし、イザナミから遠く離れた、どこまでも高く広がる星空の下でなら、自分の無罪を知る者を一人得ても良いのではないかと思えた。

「身代わりになって刑を受けて、アハトは、それで良かったの?」

 シュウからの静かな問いかけに、アハトはごく自然に頷く。

「先代には、世話になった。俺はその恩返しをしなくちゃならなかった。これでいい」

 死ぬのが怖くないわけでも、生への執着がないわけでもない。しかし、ボスの身代わりとなりプレイグという組織を守ったことに、後悔はなかった。

「そっか」

 すべてを聴き終えたシュウの返事はあっけないものだった。しかしその反応の薄さが、アハトには心地よく感じられた。

 ふと、視界の端に白い光を覚えた気がして、アハトは空の向こう側へと視線を向ける。地平線から、仄かに日の光が上って来ていた。アハト自身の体が脱水症状により発熱していて、寒気を感じているのでわかりにくいが、意識してみれば、気温も僅かに上昇の兆しがあることがわかる。

「まずい……夜が明ける」

 口に出して呟いた途端、とてつもない焦燥感が腹の奥から立ち昇ってくる。

 地獄のような灼熱の中、生死の境を彷徨いながら横穴に逃げ込んでから、一日も経っていない。もちろん、その暑さと苦しみははっきりと覚えている。

 このまま木の上で昼を迎えたら、日光に焼かれるか、熱で蒸されるか、どちらが先かはともかく、まず間違いなく死ぬ。

 昨日、墜落地点から出発したのも同じような時間だった。つまり、いますぐに出発したとしても、横穴にたどり着くには、同じような苦しみを味わいながら歩く必要がある。今回はそこに横穴があるとわかっている状態で歩けるため、命は助かるだろうという見込みがあるが、それは『いますぐに出発できれば』という話だ。

 木の根元では、巨大ムカデが変わらずにとぐろを巻いている。このまま待っていれば獲物が落ちてくることをわかっているかのようだ。ここまで走ってきただけで体力を使い果たしているアハトには、その素早い巨体から再度逃げ切れる自信はなかった。

「夜が明けることの何がマズイの?」

 状況が把握できていない様子で、シュウがどこかのんびりと尋ねてきた。

「この星の昼間は、人間が生きられるような気温でとどまらない。地表にいたら確実に死ぬ。完全に光を遮って、周囲の温度も低く保ったままでいられる洞窟の中に逃げ込む必要がある」

 端的に答え、アハトはガリガリと頭をかいた。自分で口にした『死ぬ』という言葉が、またも実態を持って姿を現している。この星に墜落してからというもの、命の危険が波のように幾度も押し寄せてくる。

 そうこうしている間にも、地平線から上がってくる日の光は徐々に強まり、巨大ムカデはいつまでも執念深く獲物が降りてくるのを待っている。

 このまま判断をせずに手をこまねいて昼を迎え、灼熱に包まれ木の上で死ぬか。

 逃げ切れるかもしれないという一か八かの賭けに出て地上に降り、巨大ムカデに頭から食われるか。

 判断の時が迫っていた。

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