二 油断
それからアハトと堂島の二人が黙々と歩いていた時間は、一時間も経過しない程度である。砂の続く前方に、この星での異物である人工物がはっきりと見えてきた。岩にめり込んでいるポッドの残骸だ。
「良かった、無事に戻ってこられたな」
アハトは息を吐き出すと、僅かに歩みを早めた。遠目から見て、ポッドに変わったところはない。周辺に異形の生物が集まっている様子も、物資が散乱するなどという様子もなく、残していった物資は無事だろうと思われた。
「体感でしか測れないが、洞窟に行く時よりも、戻ってくる方が、かかる時間も短かった気がするな。さっさと物資を回収しよう」
洞窟を出てからここに辿り着くまで、常に堂島の斜め後ろをキープしていたアハトが、安堵から言葉を続けてポッドへと歩み寄ろうとした、そのとき。
生まれた油断を見逃さまいとするかのように、堂島がアハトへと襲いかかった。背後から肩を掴み、全体重をかけるようにして、砂の上へと押し倒す。
「なっ……ぐぅっ」
驚きに声を上げたアハトは、咄嗟のことで身構えることもできずに前へ倒れ込んだ。
「堂島、なにをするつもりだ、離せっ」
立った状態から体全体で地面に突っ伏す衝撃に一度目を閉じながらも、アハトはすぐさま反撃をするべく、地面に腕をつけて体を起こそうとする。しかし、背後に覆い被さり抑え込んでくる堂島の体格は、アハトより一回り以上大きい。
「洞窟を出たときから、お前には、ここで死んでもらった方が得だと思っていたのだよ」
「考え直せ。未知の星を生き抜くには、仲間がいた方がいい。いったい、殺人に何の得があると……」
「お前が死ねば、食料も水も、一人分浮くだろう」
お互いに息を切らしながら、体格自慢の男二人が全力でもがく。会話を含めて、一挙手一投足が命懸けのやりとりだった。
アハトは起き上がることを諦め、圧を強める堂島の体の下で身を捻る。必死の思いでようやく体を仰向けにまですると、堂島を押し返すべく、頑強な肩に手をかけた。
しかし、その抵抗を塞ぐように、すぐさま堂島の大きな両手がアハトの首にかかる。親指を喉仏の下にめり込ませながら、どこか手慣れた様子で首を絞められる。
「……ぅ」
アハトの口が自然と開いたが、もはや言葉を発することはできなかった。声どころか、息を吸うことも吐くことも叶わない。喉の急所にめり込む強靭な指は、息苦しさと共に耐え難い痛みを齎す。アハトは生理的な涙を目尻に溜めながら、ついに堂島の肩から手を離し、自分の首を絞めている堂島の指に両手をかける。血管の浮き出る堂島の肌に爪を立て、必死に両足で砂を蹴ってもがくが、その長い指はアハトの首に張り付いているかのようにびくともしない。
「ああ……すまないなぁ。これも生きるためだ。あの医者たちには、またモンスターに襲われたと説明しておく。お前は私のことを庇って死んだ、英雄だったと伝えてやるよ」
人間の首を絞め続ける堂島の顔に、ふと愉悦の表情が浮かぶ。洞窟でも見かけていた冴え冴えとした琥珀色の瞳が、苦悶に満ちたアハトの顔を見下ろしていた。
静かな砂漠の中で、抵抗にもなっていない、ただ虚しく上下するだけの足が砂を蹴る音が響く。
堂島の体の下で、死から逃れようともがくアハトの動きが次第に緩慢になっていった。
視界が霞んでついになにも見えなくなり、それが死そのものであることを了承したまま意識を手放しかけた、そのとき。
アハトはすぐ近くで、なにかを殴りつけるような鈍い音を聞いた。途端、喉にかかっていた強烈な圧がなくなる。体の上からも、堂島の体重が退いた。
潰されていた喉は、それでもすぐに酸素を取り込むことができなかった。解放されてから数秒後、ようやく開いた喉から大きく息を吸い込み、アハトは肺に響くほど激しく咳き込む。
欠落した視界のまま砂の地面の上で悶えていると、こめかみの辺りに人の指の感触がした。そのまま頭全体を妙に冷たい手のひらで包みこまれる。
再度苦しみを与えようとする堂島の手に怯え、アハトは視界が戻らぬまま暴れようとした。しかし、至近距離で聞こえてきたのは堂島の声ではなかった。
「……落ち着いて。ダイジョーブ」
アハトは事態を把握しようと、体の動きを止める。そして声のした方へと顔を向けたまま、視覚を取り戻すべく瞬きを繰り返した。
ぼやけた視界に、次第に一つの像が結ばれていく。アハトの顔を至近距離から心配そうに覗き込んでいる男。長い睫毛、垂れ目がちの瞳。頬の中央にある黒子。亜麻色の髪。囚人たちと同じ白いつなぎ。
彼は螺鈿でも、吉野でも、エイタでもない。しかし、この星に他の人間がいるはずがない。
混乱した思考の中で、アハトは妙な既視感を得る。初対面のはずの男なのに、その顔は確実にどこかで見たことのあるものだったのだ。とてつもない違和感を解消するべく脳がフル稼働をはじめ、無意識に体全体の動きを停止させる。
「っ!」
数秒の逡巡の末についに思い当たり、アハトは瞠目した。その男の顔は、墜落時にポッドの中で死に、そのままベルトに留められて宙吊りになっていた男のものだった。
「アンタ……生き、て、たのか」
喉を潰されたせいで、いまだしゃがれた声のままアハトが問いかける。男は安堵したように微笑んだ。
「仮死状態? 的なカンジだった」
彼の姿をポッドの残骸の中で発見したときのことを思えば、俄には信じ難いことだ。しかし、実際に男は目の前で動き、アハトに話しかけている。
「堂島は、どうした」
「キミを殺しそうだったから、やめさせようと思って。そこに落ちてた金属片で頭を殴ったら、動かないみたいだ。起きられる?」
ようやく事態を理解し、アハトは深く息を吐き出した。男の説明に、先ほど視界を失っていたときに聞いた、鈍い殴打音が思い出される。
手を差し伸べられ、アハトは頷きながら男の手を掴もうとした。と、そのとき。
横になったままの全身に伝わる、地面の微かな振動を捉える。同時に、男の肩越しに見えた、彼の背後に迫る人影に目を見開き、叫ぶ。
「やめろ!」
アハトに見えていたのは、立ち上がった堂島が男に殴り掛かろうとする姿。
しかし実際に起こったのは、アハトが予期した内容とはまったく別の事象だった。
ザアッという砂音と共に、なにかひどく大きなものがアハトの視界を過った。移動スピードがあまりにも早すぎて、何だったのか正体は掴めない。
瞬きをした次の瞬間には、堂島の頭部が消え去っていた。首をもぎ取られた肩口から、一拍遅れて鮮血が噴き出す。
「は……?」
立て続けに怒る予想外の出来事に、理解が追いつかない。アハトが呆然としている間に、男はアハトの腕を掴んでその体を引き上げた。
立ち上がったアハトは、ようやくすべての光景を目の当たりにする。首の根本から頭部を完全に失い、どうっと地面へと倒れ込む堂島の体。そのすぐ後ろに、全長四メートルを超える巨大なムカデのような異形がいた。
色は砂に紛れるように白く、扁平ぎみの全身にびっしりと生えた数多の節足が不気味に蠢く。鎌首をもたげる姿勢をしているため、その持ち上げられた窄まった先端が頭部であろうという予測はできるが、頭部はホースの先端のように丸い空洞が開いているばかり。ただ、その空洞が螺旋状に収縮を繰り返している。
体表はザラザラと乾燥しているように見えるのに、口と思わしき空洞の内側には、湿度の高そうな深紅の肉が覗いている。堂島はこの星棲生物の口に頭部を丸ごと飲み込まれ、食いちぎられたのだ。しかもその動きのすべてが、視覚で捉えられないほどのスピードだった。
アハトと男の間で交わす言葉はなかった。ただ、生存本能に駆られるままにどちらともなく踵を返し、全力で走り出す。
この巨大なムカデのような生物は、エイタが白ヒルと呼んでいた、囚人たちが最初に遭遇したものとは大きさも速さも迫力も段違いだった。白ヒルの一体に止めを刺したアハトも、この星棲生物には立ち向かおうという気さえ起こらない。
その場から逃げ出しながら、アハトは背後でギュォ、ギュォ、という奇妙な音を聞く。それは鳴き声ではなく、星棲生物が残された堂島の体を啜るように喰らっている物音だ。しかし、いっさい振り返ることなく走り続けたアハトは、音の発生源である不気味な事実を知らずに済んだのであった。
全力疾走の後。
共に横を走っていた男がゆっくりと走る足を止めたことで、アハトもまたその場に立ち止まる。昼間の熱によるものとは別種の汗が額から吹き出していた。喉がいっそうの渇きを訴えてくる。
あてもなく走り続けていたアハトは、そこでようやく振り返る。遠くにポッドの影だけが確認できるものの、星棲生物が追ってきている様子はない。
「ここまで来れば、大丈夫か。ただ、ポッドに戻れなくなっちまったな。ちょっと時間を置いて様子を窺うしかないか」
「あそこにナニかあるの?」
アハトが困り果てて頭を掻いていると、男に問いかけられる。
「アンタが死んで……じゃない、気を失ってた足元に、食糧と水があっただろ。気づかなかったのか?」
「気づかなかった」
男は頷き、とても素直な返事をする。
「どうやって昼間の熱を乗り切ったんだ」
「わからない。チョット前に起きた」
男の話し方には先ほどから僅かな違和感があるが、個性の範疇で収まるレベルのものだ。わざわざ指摘するようなことでもない。
「そうか、仮死状態ってのはすごいな。まあ、俺と堂島はその水と食糧を取りにきたんだ。堂島は最初から俺を殺すつもりだったようだが。アンタは……」
アハトはそこで言葉を途切れさせ、改めて正面から男を見る。
「アンタ、名前は? 俺はアハト」
問いかけてから一瞬の不自然な間があったが、男は微笑んで答える。
「わからないんだ」
「俺が聞いているのは、アンタ自身の名前だぞ?」
「うん。この星に来るより前のことを、ナニも覚えてないんだよね。テキトーに呼んでくれる?」
「そんなことを言われても、困る」
記憶喪失ということものが存在していることくらいは、アハトも知っている。だが、実際にそのような症状の人間と対面するのは初めてだ。想像もしていなかった返事にアハトは戸惑うが、男の表情は朗らかなままで変わらない。
「名前があった方が楽ならアハトが付けて。特になくて構わないならそのままでいい」
男は、名前という、自分のアイデンティティに深く関わることについてひどく投げやりな様子だ。記憶がないことに対する不安感も窺えない。アハトはしばし考えたが、結局は今後の利便性を考えて名前をつけることにした。
「記憶が戻るまで、シュウと呼ぶことにする」
その名は、アハトが幼い頃に死んだ、彼の実の父親の名前だった。特に深い意味があるわけでもない。ただ、真っ先に浮かんできただけだ。
「わかった。よろしく、アハト」
この場でシュウと名付けられた男は柔和な表情を浮かべたまま大きく頷く。記憶がないからか、螺鈿や吉野と同様、彼もまた、殺人を犯して探索刑に処された囚人には見えない。アハトは鼻から軽く息を漏らし、胸の奥に沸いた複雑な感情を押し留めた。
「ああ……」
覚えていない、という予想外の返答ではあったものの、お互いに一応の自己紹介が終わった。そのとき彼らは、地面についている各々の足の裏に、微かな振動のようなものを捉える。
その振動を発生させている正体に気がつく間も無く、アハトの体は、横からタックルしてきたシュウの体によって突き飛ばされた。ほぼ同時に、砂から飛び出してきた巨大ムカデがアハトが立っていた場所目掛けて姿を現す。アハトは自身の頬に、巨大ムカデが真横を掠めた風圧を感じた。ザァッという砂音が響く。
「っ……!」
攻撃は空振りしたが、巨大ムカデはなにかを咀嚼するように、激しく口の収縮を繰り返す。ぎゅっと口先を絞るたびに、巨大ムカデの体内からは赤い液体が滲み出てきていた。
シュウによって突き飛ばされ、地面にへたり込んだアハトだったが、その光景に唖然としている暇もなかった。
「こっち来て!」
シュウは叫ぶと、すぐさまアハトの腕を掴んだ。体を強引に引き上げると、そのまま走り出す。
「こっちって……ど、こ、っ」
アハトは咄嗟に問いかけたが、全力疾走するシュウに腕を引かれている状態では、まともな言葉を続けることは不可能だ。振り返ることもできない背後では、ごく至近距離で幾度も激しい砂音がしている。巨大ムカデが追ってきており、そして幾度も捕食行動を繰り返しているのだ。
——足を止めたら、堂島のように死ぬ。
そのことだけは、疑問を抱く余地さえないほどに確実だった。
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