二 生物

「おい、静かにしろ。近くになにかがいる」

 アハトが警戒を促したのと同時。岩の上に、奇妙な生き物が姿を現す。薄い星明かりに照らされた成牛ほどの大きさのそれは、人間の感覚からすればひどく醜悪だった。

 体つき全体の雰囲気としては、シロイルカに似ている。シロイルカの頭部をそのまま巨大なヒルに挿げ替え、すべての鰭を切り落とした上で、胴体から人間の赤子のような細い足を無数に生やすと、それに近づく。チュウチュウという音は、絶えず蠢いている口吻が突き出た頭部から漏れていた。パッと見て目にあたる部分が存在しないため、あの口吻から周囲の情報を得ているのだろうかという予測はできる。

 一同は岩の上を見上げ、しばし、誰一人として身動きを取ることができなかった。驚きのあまり、悲鳴も上がらない。その生物は、イザナミの中で飼われていたり、過去の地球の様子を伝える写真や映像で見たりした動物とはまったく異質のものであった。

「何だ、あれ」

 ようやく、誰もが思っていたその一言を漏らしたのは堂島。アハトは堂島の方を振り向き、目を見開いた。岩の上にいたのとは別個体の同種の生物が、堂島の背後から忍び寄り、口吻を伸ばし彼に襲い掛かろうとしていたのだ。

「危ねぇ!」

 叫び、反射的に飛び蹴りを放つ。

 アハトの強烈な蹴りを胴体に受けた星棲生物せいせいせいぶつは、キュルキュルという奇妙な鳴き声を上げながら僅かによろけ、後退する。明かに怯んでいる。

 しかしアハトは、その生物にダメージを与えられたという感覚は得られていなかった。星棲生物の皮膚は分厚くブヨブヨとしており、蹴りの衝撃を吸収されてしまったのだ。

 岩の影や暗がりから、星棲生物は一体、また一体と砂の上を這うようにして現れる。気がつけば、十体の星棲生物によって四方を完全に包囲されていた。五人は自然とお互いの背を庇うように、背中合わせになる。

「この星には独自の生命体がいたのか。割と人類移住の期待が持てそうだね」

 現実逃避か、どこか軽い調子で螺鈿が言い、エイタが声を荒げる。

「んな悠長なこと言ってる場合か。こいつら、俺たちを食う気満々みたいだぜ」

 星棲生物の醜悪な顔をよく見れば、そのヒルのような口吻からは、涎らしき粘度の高い液体が垂れている。表情が読めるような顔はしていないが、少しずつ距離を詰めてくる様子からして敵意があることは明らかであった。アハトが一撃を加えたことにより警戒しているのか、ジリジリと接近しながらこちらの様子を伺っている。

 この星に降り立ったばかりの人間たちは、完全なる被捕食の立場にいた。イザナミの中にいれば一生感じることのない『食われるかもしれない』という感覚は、生物としての根源的な恐怖だ。

 先に痺れを切らしたのは、星棲生物ではなく吉野だった。

「もう、もう、嫌だ! わあああああっ」

 自暴自棄になった叫び声を上げながら、吉野が目標もなく走り出す。四方を星棲生物に囲まれているため、当然、星棲生物に自ら突っ込んでいく形となる。

「吉野! 待て!」

 エイタが叫ぶが、混乱状態になった吉野にはすでに周囲の音は聞こえなくなっている。

 吉野は星棲生物の間をすり抜けようとしたが、あえなくその白い体で行手を塞がれた。星棲生物は幾本もの足を動かして折り重なるように吉野の体を押し倒し、口吻を伸ばす。

 せめてもの抵抗として身を守るために上げた吉野の腕に、星棲生物の蠢く口吻が触れた。

「いっ……あああああっ」

 瞬間、鋭い悲鳴が上がる。その声と騒動に刺激されたように、様子を窺っていた他の個体も吉野へと群がり始める。

 と、エイタが動き出した。

 砂の大地を蹴り、吉野の元へと走る。走る勢いを乗せたままに腰を落とし、身を屈めた低い体勢から、体の捻りを加えた鋭い右アッパーを星棲生物の口吻目掛けて繰り出した。

 口吻を横から激しく殴打された星棲生物は、アハトが蹴りを入れたときと同様にキュルキュルと音を漏らしながら僅かに後退する。

 星棲生物が怯んでも、エイタは攻めの手を止めない。アッパーから素早く腕を引き戻し、同時に左腕でストレート。さらに左右連続の殴打が続く。一つ一つのパンチは重く、体幹がブレることがない。『ファイター』と名乗るに相応しい姿だ。

「デカい図体してそんなもんかよ。人間様の強さを思い知らせてやるぜ!」

 気合いと共に叫ぶエイタからの猛攻に、星棲生物はダメージを負っているように見えた。

 アハトは吉野の元へと駆け寄ると、エイタが生み出した隙をついて吉野の足を掴み、星棲生物の体の下から引っ張り出す。引き摺ったまま元の位置まで戻ると、螺鈿に吉野の身を任せた。

 アハトはそこで、堂島の姿が忽然と消えていることに気がついた。吉野が走り出し、星棲生物の包囲が乱れたところで、彼はさっさと一人だけ逃げ出したのである。

「あンの野郎……」

 アハトの口からは思わず呆れきった声が漏れたが、いなくなった者のことを気にしていても仕方がない。ため息一つで気持ちを切り替え、改めて振り返る。

 吉野の暴走をきっかけにして包囲網は崩れ、十体全部がエイタの元に集中している。そのエイタは変わらず素晴らしい身のこなしで星棲生物への攻撃を続けており、他の個体も怯んでいる様子だ。膠着していた先ほどよりも状況は良くなっているとは言えるが、現在起こっている問題に対する解決の糸口は見えていない。

 星棲生物は怯む様子を見せるものの、決して逃げ出そうとはしていないからだ。一方的に殴打され続けている個体でさえ、まだ倒れることもなく耐えている。先ほど蹴りを入れたアハトも感じたことだが、この星棲生物はひどく分厚い皮を持っていて、それが衝撃を吸収してしまっているのである。

 また、エイタの体力とて無尽蔵ではない。彼の動きが止まったとき。星棲生物たちは、吉野に対してしたように、改めて襲いかかってくる。持久戦においてどちらが長けているかどうかは、比べる必要もないほどに明らかだ。

「っ、あ、ぐ、ううっ、痛い、痛いです」

「しっかりしなさい。袖を捲るよ。患部を見るからね」

 精神がグズグズになったままの吉野を任された螺鈿は、彼の血が滲む袖を捲り上げる。肌が露わになった吉野の右腕には、鋭い歯が食い込んだような深い傷跡が円形に広がっていた。

 アハト達全員が着ている白のつなぎは、着心地は悪いものの、身を守るには十分な分厚い生地を使って仕立てられている。外から見る限りではわからないが、星棲生物の口内には、その布地さえも貫通するほどの牙が無数に生えているのだ。

 アハトは改めて自分の着ているつなぎを確かめる。収納力の高いポケットはついているが、なにも入っていない。また彼は、ポッドの中にあった物資に武器になりそうなものは存在しなかったことも理解していた。

 この状況を打開する道具はない。アハトがチラリと背後に視線を向けると、堂島が単身で逃げていった砂漠が続いている。

 アハトにも、この場から離れる時間はある。いっそのこと、星棲生物の注目を一身に浴びているエイタさえ残してしまえば、螺鈿と吉野も連れて逃げることさえ可能かもしれない。

 不意に、エイタのくぐもった苦しげな声が上がった。

「うっ……グゥッ」

 見れば、体力を消耗して砂地に足を取られ、体勢を崩したエイタに三体の星棲生物がのしかかっていた。たまらずエイタが倒れると、星棲生物はそのまま彼の上に覆い被さり、蠢く。すでにエイタは自分自身では身動きが取れない状況に陥ってしまった。

「エイタ!」

 悲痛な声で彼の名を叫んだのは螺鈿だ。

 瞬間、アハトはエイタとは逆の方向に走り出した。しかし、それは逃げ出すためではない。

 砂地に突き刺さっていた、ポッドの外装の一部と思われる大きな金属片を拾い上げ、踵を返してエイタの元へと走る。

 掛け声もなく、漏れたのは短く鋭く吐き出した息のみ。跳躍し、両手で掲げ上げた金属片を、全体重をかけてエイタに覆い被さっている星棲生物に突き立てる。グサリと、皮と肉を断つ確かな手応えがあった。金属片は、通常の生物であれば首にあたる位置に食い込んだ。肉の半ばまでが断ち切られ、口吻が垂れ下がる。瞬間、ドス黒い体液が吹き出した。

 周囲に響き渡るのは、屠殺される豚が発するような、耳を劈く咆哮。アハトが馬乗りになったその個体は、小刻みに全身を激しく震わせる。その痙攣は十数秒ほど続き、ピタリと止まる。アハトは、星棲生物がついに力尽きたことを理解した。

 ゲルのような肉から体液に塗れた金属片を引き抜き、アハトが肩で息を繰り返しながら再度身構えたところで、残りの星棲生物たちの動きが変わった。

 エイタにのしかかっていた二体の個体も含め、群れ全体が怯えるように口吻を震わせ、エイタが応戦していたときの比ではないほどに後退する。

 その様子を見て、アハトは目を細めた。無言のまま、黒い体液を浴びせるように群れへ向けて金属片を振り上げて見せる。すると、星棲生物はすぐさま無数の足をわさわさと蠢かせ、そのまま逃げ出していく。ほんの数分で、それらの姿は闇の中に消えて見えなくなった。

 醜い異形の姿が見えなくなり、アハトは深く息を吐き出す。と、唯一この場に残った、口吻がなくなった星棲生物の下から、エイタのひどくくぐもった声が聞こえた。

「おい……いったい、なにがどうなった」

 一瞬放心していたアハトは気を取り直すと、掲げ持っていた金属片を投げ出した。エイタを助け出すために、活動を完全に止めた星棲生物の肉体に手をかける。

「ひとまずの危機は脱したようだ。一体殺したら、残りの個体も全部逃げていった。待ってろ、今こいつをどかす」

 しかし、その分厚く毛のない皮膚の独特な質感を感じながらグッと力を込めた瞬間に、アハトは違和感を覚える。蹴りを入れたとき、そして金属片を突き刺したときと比べて、星棲生物の体が全体的に柔らかくなっている。

 横から押され、砂地に転がった星棲生物の体は、不気味な無数の足を晒しながら、自重に耐えきれなくなったようにグズグズと崩れ始めた。切断面から吹き出したものと同じ黒い体液を漏らし、成牛ほどの質量のある肉体が溶けるように形を失っていく。同時に、耐え難いほどの悪臭が鼻をついた。鉄のような匂いが最も強く、その中に海産物めいた腐敗臭が混ざっている。

 息絶えたのは数十秒前のことだというのに、一気に時間を加速させて腐っていっているようだ。

 アハトは思わず眉根に皺を寄せて袖で口と鼻を覆う。星棲生物の肉体が崩れていく様を眺めてから、その星棲生物にのしかかられていたエイタへ視線を向けた。

 瞬間、目を見開く。

「螺鈿! エイタが負傷した。早く来い、こっちが最優先だ!」

 吉野の手当てをしていた螺鈿を呼びつけながら、砂地に倒れ込んだままのエイタの横へと膝をつく。

 エイタの体は星棲生物の体液がかかったことにより全体的に黒く汚れているが、彼の右脇腹が赤く目立つ。負傷した彼の血液が、白いつなぎを染めているのではない。彼の右脇腹を覆う布地はすでになく、円形に抉れた生々しい傷口が露わになっていた。星棲生物の口吻に食いつかれ、布ごと肉を削り取られてしまっていたのだ。


 医者がいて、かつその手に救急セットがあるとは言え、未知なる星に放り出され、医療設備も持たない人類に、できることは少ない。

 エイタの脇腹の傷は広範囲にわたり、かつ肉ごと抉れているため縫合することも不可能であり、消毒の後にガーゼを詰めて包帯できつく縛り止血する以外に、施せる手当てはなかった。

「とにかく、これ以上の出血は避けるように、極力安静に。傷は幸い内臓にまでは達していないから、エイタの体力があれば、きっと持ち堪えられる」

 ひととおりの処置を終え、救急セットのケースの蓋を閉じながら螺鈿が言う。

 元の肌色が濃いためわかりにくくはあるが、血の気をすっかり失ったエイタは、なにかをモゴモゴと呟いた。おそらく感謝の言葉を告げられたのだろうと予測して、螺鈿はただ微笑む。

「エイタさんごめんなさい、ボクがパニックを起こしちゃったから。すごく怖くて、もう、なにがなんだかよくわからなくて」

 螺鈿のすぐ横に座ってエイタの様子を見ていた吉野がひどく沈んだ声で謝罪する。彼の子犬めいた大きな瞳にはいっぱいの涙が溜まっている。

 その様子を横目で眺め、エイタは浅く息を漏らす。

「テメェが恐怖のあまり棒立ちになっていようが、パニックを起こして走り出そうが、クソの役にも立ちゃしねぇが、状況を悪くしたわけでもねぇだろ。あの数の白ヒルに囲まれたんじゃ、捨て身で戦うより他に道はなかったってだけだ」

 エイタはあの星棲生物を早速『白ヒル』と名付けていた。

 口は悪いが、エイタの言葉は吉野の行動を非難するものではない。しかし、吉野はいっそう身を縮こまらせて深々と頭を下げる。

「本当にごめんなさい」

 と、岩の上に登って周囲を警戒していたアハトが声を上げた。

「おい、あのクソ野郎が戻ってきたぞ」

 白ヒルが再び接近しているのかと、螺鈿は慌てて立ち上がって身構える。だが、その場に姿を現したのは堂島だった。

「おや、生きているとは予想外だ。てっきり全員あのモンスターの餌になったかと」

 悠々と歩いて戻ってきた堂島は、悪びれる様子もなくそう言うと、上半身に包帯を巻いて横になっているエイタを見て軽く鼻で笑った。

 岩から降りてきたアハトが低めた声で問いかける。

「俺たちを囮にして一人で逃げ出しやがったな。いったいなにしに戻ってきた」

「あの状況じゃ、そうするのが賢い選択ってもんだろう? 私は合理的に事態へ対処しているだけだ」

 堂島は心外だとでも言うように軽く肩を竦めて見せ、さらに言葉を続ける。

「ここに物資があるんだから、安全が確認できれば戻ってくるのが当然だ。そこにある物資の一部は私のものなのだからな。ところで、あのモンスターの群れはどうしたんだ」

 アハトは堂島を睨みつけたまま口を噤んでいる。代わりに螺鈿が話しはじめた。

「エイタとアハトが協力して一体倒してくれたんだ。そうしたら、残りの個体は逃げていったんだよ。あの生き物の生態はよくわからないが、群れで行動することは間違いないらしい」

「もう戻ってこないのか?」

「そんなこと、僕たちにわかるわけがないだろう。それに、この星にいる生き物があの群れだけとは思えないしね。また別の生き物に襲われることだって考えられる」

 堂島と会話をするうち、いつしか螺鈿の声にも呆れた響きが混ざっていた。

「ならば、物資を持ってすぐに移動した方がいいだろうな。とにかく安全を確保できる場所を探すんだ。行くぞ」

 堂島はまた場を仕切るように声を張ると、物資のあるポッドの残骸の元へと歩み寄る。その姿を見て、螺鈿は堂島の行手を阻むように、腕を広げて立ち塞がった。

「待ってくれ。エイタは腹部に深い怪我を負ったんだ。とてもじゃないがすぐには動けない。しばらくここで様子を見よう」

「この環境下で怪我人が生きていけると思うのか? 放っておけ」

 堂島が螺鈿の肩に手をかけたところで、アハトは堂島の手首を掴むと、螺鈿の肩から無理やり引き剥がす。

「アンタがアンタの分の物資を持ってどこに行こうが知らねぇが、俺たちに指図するな」

「私について来たくないと言うのなら、お前らのような無能どもなどいらない。ただ、医者は連れて行く」

「その決定権はアンタにはない」

「逆らうのなら、力で無理やり従わせてもいいのだぞ」

「やってみな」

 エイタが口にするような煽り文句はないが、アハトの言葉は端的で、だからこそ妙な凄みがあった。

 堂島はアハトの手を強く振り払い、それからしばらく、二人の睨み合いが続いた。一触即発の剣呑な雰囲気が満ちていたが、先に視線を逸らしたのはアハトの方だ。もっとも、堂島の迫力に負けたわけではない。

「くだらねえ。またいつ、襲われるかもわからない。交代で見張りをして過ごそう」

 アハトが螺鈿と吉野へ視線を向けて言うと、固唾を呑んで事態を見守っていた二人は一瞬虚をつかれたような表情を浮かべた後、大きく頷いた。

 結局、堂島は一人で離脱することも、これ以上に場を荒立てることもなかった。

 彼らは墜落した地点から動かず、交代に見張りを立てながら、未知の星での第一夜を過ごすことになる。

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