星存観測

三石 成

第一章 未知の星

一 墜落

 一機の発射型輸送ポッドが、未知なる星に到着した。否、様子を正しく形容すれば、墜落だ。

 凄まじい衝撃によって、ポッドに乗っていた男たちの意識が戻る。彼らは生物の本能として咄嗟に息を吸い込もうとするが、すでに肺を膨らませることができないほどの圧が全身にかかっていた。肉のみならず骨まで軋み、耐え難い痛みで再度意識が遠のきかける。様々な種類の電子的なアラームが鳴り響き、凄まじい破壊音が耳をつんざく。

 次の瞬間。あらゆる苦しみからの解放と共に、彼らの体は空中へと投げ出された。

 ポッドに搭乗していた者の中の一人、アハトは自分の鼻と口を覆っていた酸素マスクが衝撃で外れたことを感じた。咄嗟に手を伸ばすが、指を掠めたマスクは吹き飛んでいき、代わりに彼の体は背中から地面へと叩きつけられる。唯一の救いは、地面がサラサラとした分厚い砂で覆われており、柔らかかったことだ。それなりの痛みはあったものの、大怪我は免れた。

「うっ……」

 アハトは低く呻きながら体を丸め、無防備になった口元へ手をやる。必死に息を止めようとするが、衝撃と同時に息を吐いてしまっていた彼が呼吸をせずに耐えられたのは、ほんの数秒のことだった。

 喘ぐように口を開き、息を吸い込む。すると、甘く感じるほどの新鮮な空気が肺を満たした。問題なく呼吸ができることを理解したアハトは脱力すると、深呼吸を繰り返す。

 地面に寝転がったまま目を開くと、視界いっぱいに満天の星空が広がっていた。現時点でこの星に朝や昼が来るのかはわからなかったが、現在が夜であることは間違いなかった。辺りは暗いが、それぞれの星の輝きが強いおかげで、物を判別できる程度の光量は確保されていた。

 興味を引かれるままに星空へ向けて手を伸ばすと、当然ながらどこにぶつかることもなく、腕が伸ばせる限界のところまで伸びた。ガラスに阻まれることがない、どこまでも高い空。それは、宇宙船で生まれ育ったアハトが見る、初めての光景だった。

 ふと、アハトの内心を代弁するかのような声が隣から聞こえた。

「すごい。船の外なのに、息ができる……」

 アハトは慌てて上半身を起き上がらせ、声のした方へと視線を向ける。そこにいたのは、肩下まである長い黒髪をうなじのあたりでゆるく一つに括った、細身の男だった。

 彼は地面に座り込んだまま自らの体を抱きしめるように腕を回しており、はたから見てもわかるほどに全身が震えている。神経質そうな顔立ちをした彼の名前は螺鈿らでん。四十二歳だ。

 その奥で、やたらと大柄な男が立ち上がる。この場にいる全員が同じ白いつなぎのユニフォームを着ているのだが、彼は一見すると別の服を着ているのではないかと錯覚するほど迫力が違う。それだけ規格外の屈強な肉体を持っていた。

「馬鹿か? 『探索刑たんさくけい』なんだから当然だろうが。空気もない星に人間を送り込んだら、着陸した瞬間に全員が死ぬことになるのだからな。お前たち、そんなところでぐずぐずしていないでさっさと立て。周辺環境について調べて来い」

 人に命令を下すことに慣れた様子でそう言いながら、大男は周囲を見回していた。彼は堂島どうじまはじめ、三十九歳。明るく短い茶髪に、鳶色の瞳、百九十二センチもの長身を持つ。

 と、堂島の横にいた、短いドレッドの髪をした浅黒い肌の男が、砂の上に胡座をかいて座ったまま低く笑い声を漏らした。

 ドレッド髪の男の名前はエイタ。三十歳。身長は百七十八センチと、堂島より十センチ以上も低い。しかし、彼の無駄なく引き締まった体つきは、服越しでも感じとることができた。

「なにがおかしい」

 堂島が問う。

「馬鹿はどっちだか。テメェは『探索刑が執行された犯罪者が帰ってきた』なんて話を一回でも聞いたことがあんのか? 探索刑だなんて耳障りの良い名前をつけちゃいるが、その実態は、当たりが入っているかどうかすら分からん宝くじを渡されるだけの死刑だぜ。お気楽クソ野郎」

 エイタの言葉を聞いて、堂島は不機嫌そうに眉根を寄せる。

「だからって何だ、そこにずっと座り込んだまま死を待つと言うのか?」

「場合によっちゃその方が楽かもな。そもそも、今のも『着陸』だなんて呼べるような代物だったか? ただ墜落しただけだろ。現実を見ろって言ってんだ」

 エイタは腕を広げて周囲を示して見せる。サラサラとした砂が緩やかに起伏し山になった地面。壁のように大きな岩が所々に突き出ているばかりの荒野だ。その中に、彼らが乗ってやってきた『発射型輸送ポッド』の残骸が散乱している。地面に激しく叩きつけられたせいで大きく破損しており、一見して修復は不可能であることがわかる。客観的に見てみれば、この大破した乗り物に搭乗していた人間が無事だったことの方が奇跡だと思えるほどだ。

 しかし堂島はエイタの指摘を小馬鹿にしたように鼻で笑った。

「ハッ。なにかと思えば、ただ文句が言いたいだけではないか。お前のような、悲観しかしない口だけの無能を見ると虫唾が走る。下層民かそうみんが勝手に野垂れ死ぬのは構わんが、人様の足を引っ張るな」

 エイタは目の端を吊り上がらせ、勢いよく立ち上がると堂島に詰め寄る。

「んだとテメェ。下層民だから何だってんだよ。ここではそんなこと関係ねぇだろうが」

「ほう、やはり下層民だったか。宇宙船のネズミめ。そうやって他人に突っかかることしかできないのでは、どこへ行っても何の役にも立たんからな」

「やる気かコラ。ぶっ殺してやる」

「できるものならやってみるといい。できるものならな」

 二人の言い合いはヒートアップし、ついにエイタが堂島の胸ぐらを掴み掛かる。

「ちょ、ちょ、ちょっと。二人とも落ち着いて。未知の星についた直後に喧嘩なんかして、何になるって言うんだ」

 螺鈿が慌てて二人の間に割って入ろうとする。だが、螺鈿の細腕で彼らの肩や腕をいくら押そうが、屈強な肉体を持つ二人は微動だにしない。困りきった螺鈿は、座り込んだまま様子をただ眺めているだけのアハトに助けを求める。

「そこの君、黙って見ていないで止めてくれ」

 アハトの身長は百八十二センチあり、堂島ほどではないが体格も良い。しかし。

「何で?」

 その薄い唇より出てきたのは、あまりにも短い問いかけだ。濡れたように波打つ前髪の下から、アハトは吊り目気味の瞳で螺鈿を見返した。小綺麗に整った顔立ちには何の表情も浮かんでいない。

「何でって……到着早々、仲間割れは困るでしょう」

「俺たちに仲良くしろったって無理な話だ。全員が犯罪者だぞ。そう言うアンタだって、ここにくる前に誰か殺してんだろ」

 アハトの淡々とした指摘に、螺鈿は言葉に詰まる。反論できないのは、それが事実だからである。

 この場にいる彼らは全員、殺人という第一級の罪を犯した囚人たちだった。


 現在は宇宙歴百三十五年。つまり、人類が崩壊した地球を脱出し、巨大な宇宙船の中で漂流する暮らしを始めてから百三十五年の月日が経過したということになる。

 宇宙船『イザナミ』は、かつて日本と呼ばれた国の政府が作り上げた船であり、そこで生活している人間の大半は、日本人の子孫にあたる。

 百三十五年前に地球から飛び立った宇宙船はイザナミの他にも多数存在し、お互いに通信をしながら適度な距離感を保って航行を続けていた。すべての宇宙船の目的は、第二の地球足り得る、人類が安全に生きていける星を見つけること。

 地球生まれの人間は、すでに寿命が尽きて死んでしまった。いまでは宇宙船で生まれ、宇宙船での生活しか知らない人間のみになったが、それぞれの宇宙船に搭載されている完璧なリサイクルシステムのおかげで、人々の暮らしは安定していた。

 そんな中で、イザナミの抱える最大の問題は、船の物理的な大きさだった。安定した生活のおかげで市民の数は増加傾向にあり、船にいる人のすべてが余裕を持って生きるには、船は狭すぎた。

 長い漂流生活の果てに、人々は船の中で上層と下層に分かれるようになっていた。航行や市民生活に必要不可欠な仕事に就く者が中心に暮らす上層では文化的な生活が約束されていたが、下層は人で溢れかえり、命が軽んじられている。

 当然のことだが、イザナミの中にも法律はある。そして、多くの人間が集まって暮らしていれば、法を破る犯罪者が生まれる。

 犯したのが軽微な罪であれば、管理部は犯罪者に位置情報を通知するタグをつけ、下層に送るだけでこと足りる。問題があるのは、犯罪者が殺人や傷害などを繰り返す恐れのある危険人物である場合だ。いくら下層と言えども、危険度の高い人間を野放しにしておくことはできない。

 地球にいた頃から、人類はすでに死刑制度というものを廃止していた。だが、囚人を収監しておくような余計なスペースは、狭い宇宙船の中には存在しなかった。

 そこで、宇宙歴八年より開始されたのが『探索刑』という刑罰だ。

 発射型輸送ポッド一機に六人の囚人を乗せ、人類移住の見込みがある星に送り込んで、囚人が生きていけるかどうかを試験的に見極めるのだ。

 囚人に未知なる星を探索させるという刑罰であるが、被験者は非協力的な囚人たちである。定期的なレポートなどできるわけもない。そこで、バイタルを常時測定し、データをイザナミに送る『ブリンク』というデバイスが、出発前にすべての囚人の体内に埋め込まれている。イザナミにいる管理者たちは、ブリンクより送られてくるデータで、各星に送り込まれた囚人たちが生きているかどうかを確認している。要は人間版モルモットである。

 発射型輸送ポッドとは、イザナミよりポータルを用いて発射され、目的の星に人や物資を届けることのみを目的とした、エンジンを搭載しない輸送機のことだ。もちろん、そのような動力のない機体では、自力でイザナミに戻ることは不可能。

 囚人が三年間未知なる星で生き残った場合には、イザナミが星まで生存者を迎えに来ることになっているのだ。

 特別な機材もなく人間が三年間も生きながらえることのできる星は、人類の移住先として最有力候補となるためだ。そのような奇跡の星を探索した功績として、生き残った囚人にはすべての罪の恩赦が約束されている。つまり探索刑に処された囚人は、とにかく三年間生き残ることさえできれば、晴れて自由の身となり元の生活に戻ることができる。

 しかし、いままで探索刑に処されて生きて帰った者はいない。実質的には、宇宙船から放り出されるだけの死刑となに一つ変わりない刑罰となっていた。


 アハトからの指摘にすっかり押し黙ってしまった螺鈿を完全に無視し、堂島とエイタは一触即発の雰囲気だ。言葉どおりに殴り合いを始めるべく、エイタが改めて拳を握り込んだ、そのとき。

「うわあああっ」

 彼らがいる場所から少し離れた位置にある、地面から突き出た大きな岩の裏側から、若い男の叫び声がした。

 四人の囚人たちは喧嘩を一時放棄すると岩を回り込み、様子を確認しに行く。

 岩の反対側では、身長百六十五センチと小柄な青年が腰を抜かし、地面にへたり込んでいた。青年の名前は吉野よしのれん。実年齢は二十二歳。アハトより四歳年下なだけだが、囚人とは思えない幼い顔立ちのせいで成人前にしか見えない。頭に傷を負って、髪の下から右目の横にまで血が垂れてきている。

 驚愕に目を見開いている吉野の視線を追い、彼が叫んだ理由をアハトもすぐに理解する。大破した発射型輸送ポッドの半分が、岩にめり込んでいる。そして、機体の半分を失い、完全に露出したポッド内部の壁面には、ベルトで繋ぎ留められ、宙吊り状態になっている男がいた。

 白いつなぎのユニフォームを着た四肢は不気味に脱力し、衝撃の余韻で足が微かに揺れている。同じく重力に従い俯く顔は、垂れた長い亜麻色の前髪によって覆われていた。

「ポッドの中では、私たちもああしてベルトで固定されていたんだな。ただし、投げ出された私たちのベルトはポッドの大破と同時に自動的に外れた、と。たまたま運が良かったのか、それがポッドとしての正常な動作なのかは分からんが」

 様子を見て堂島が言葉を漏らす。


 彼ら自身には、ポッドに乗り込んだ時の記憶が存在していなかった。

 裁判所で探索刑を宣告された囚人は、拘置所の独居房でただただ刑の執行を待つのだ。探索刑に処される囚人が六人集まると、事前通告もなく出発の朝を迎えることになる。

 処置室へ運ばれ、ブリンクを体内に埋め込むため麻酔をされて手術を受けるのだが、麻酔を施された囚人がイザナミで再度目を覚ますことはない。意識のないまま発射型輸送ポッドに搭乗させられ、宇宙に放り出される。囚人の抵抗による面倒をなくすための手順であるが、当の囚人にとっては、『手術室で意識をなくし、気がついたら未知の星に到着していた』という状況になる。

 あくまで、輸送時や到着時に不運がなく、無事に生きていれば、という話ではあるが。


「大変だ。急いで彼を下ろそう。手を貸してくれ」

 螺鈿は誰にともなく言うと、真っ先に宙吊りになっている男の元へと走っていった。

 堂島とエイタが動く様子はない。アハトは面倒そうに眉を寄せたものの、一度短く息を吐き出すと無言のまま螺鈿に続く。

「おい、君。大丈夫か」

 螺鈿が手を伸ばして男の前髪を上げると、血の気を失った顔が露わになる。その顔をちらりと見たアハトには、彼が自分と同年代の男だということがわかった。瞼は下りたまま口が半開きになっているが、その口から息は漏れていない。

 ポッドの壁面にベルトでつなぎ留められた男の体へと視線を下ろしたアハトは、男の背中側から白いつなぎに血が滲み出ていることに気がついた。肩に手をかけ、背中側を軽く覗き込んで、男の身に起きた事情を理解する。ポッドがめり込んでいる岩の一部分が、そのまま男の背中に突き刺さっているようだ。

「死んでるな」

 アハトはあっさりと言うと、男の体から手を離した。

 そのまま歩き出そうとするアハトを、螺鈿が慌てて引き留めようとする。

「待ってくれ、下ろして止血をしたい。まだ間に合うかもしれない」

「この状況で、背中に穴空いてる奴をどうするつもりだ。諦めろ」

「しかし……っ」

 アハトはなお言い募ろうとする螺鈿を無視してその場を離れようとしたが、宙吊りになっている男の足元に、ポッドに搭載されていたコンテナがあることに気がついた。その場にしゃがみ込み、コンテナの中身を漁りはじめる。

 螺鈿は諦めきれずに再度男へ向き直ったが、男の首筋に手を当てて、しばらく脈を確認すると俯いた。溜息を漏らして踵を返すと、未だ地面にへたり込んだまま放心している吉野の元へ近寄った。

「血が出ている。怪我をしているね? こちらに頭を向けて見せてくれる?」

「え、と。でも」

 戸惑う吉野に、螺鈿は力無く微笑む。

「大丈夫、私は医者なんだ」

 螺鈿の言葉に吉野は僅かに目を見開いたが、頷きを一つ返すと素直に頭を差し出した。螺鈿は吉野の栗色の髪を慎重な手つきでかき分け傷を探す。

 と、そんな二人のやりとりを隣で聞いていた堂島が片眉を上げる。

「ほう? お前は医者なのか。それはいい人材と乗り合わせたものだ。名前は?」

「螺鈿と名乗っている」

「螺鈿? 奇妙な名前だな、聞いたこともない」

「私は下層で働いていたからね。しかし君は、人にものを尋ねるなら、まずは自己紹介から始めたらどうだい」

 吉野の頭部を確かめながら、やや刺々しい口調で堂島へ返事をした螺鈿は、次に吉野へ優しく声をかける。

「なにか鋭いものがぶつかったのだろうが、少し切れているだけだ。傷口も綺麗だし、心配ない。傷口の血を拭き取れるガーゼのようなものがあればいいのだがね」

 と、ポッドの側から戻ってきたアハトが、螺鈿にボトルと小型のジュラルミンケースを差し出した。

「救急セットがあった。これはアンタが持ってなよ。それと、水」

「ありがとう。助かる」

 螺鈿はほっとしたように表情を緩めると、ケースを受け取って早速中に入っているものを確かめ、吉野の傷口に処置を施す。

「おいお前、その水はどこから持ってきた」

 堂島から高圧的に問いかけられ、アハトは冷ややかな眼差しを返すと、もう一つ持ってきたボトルを堂島へ向けて放り投げた。

「あの残骸の中だ。六人分の食糧と水があった。人数と量的に、一週間保つかどうかという、ささやかななものだが」

 堂島は空中でボトルを受け取ると、口角を上げて笑う。

「なるほど、探索において拠点を構築するための初期物資か。それが六人分ということは、この星にいる人間は、ここにいる者で間違いなく全員ということだな」

 アハト、螺鈿、堂島、エイタ、吉野、それにポッドの中で死んでいた男で六人だ。

「お前、名前は? それと職業を答えろ。イザナミではなにをしていた」

 堂島から続けて問いかけられ、アハトは目を細める。

「アハト。それ以上のことをアンタに言う必要ある?」

「職業を知れば、お前が使える人間かどうかがおおよそわかるだろ。そこの闇医者は使えそうだ」

「だったら自分から名乗ったら」

 アハトも螺鈿に続いて堂島へ自己紹介を勧めたが、堂島は鼻で笑うのみだ。と、様子を静観していたエイタがそこに口を挟む。

「このクソ野郎の名前は堂島創だ。堂島グループの社長。いや、元社長か。名乗らねぇのは、『自分のことを知らない人間なんて居ないだろう』っていう思い上がりなんじゃねぇの」

 堂島グループは、イザナミにおいてトップクラスの手広さで事業を展開している大企業だ。イザナミ内で上層と下層の社会はほぼ分断されているが、下層に住むアハトも知らず知らずのうちに名前を認知する程の存在感があった。

「上層にある会社の社長の顔なんて、よく知ってるな、アンタ」

「俺も元は知らなかったぜ。ただ、知り合いのジャーナリストがこいつに殺されたもんでね。堂島グループの社長が逮捕されたってニュースは下層まで届いてたし、注意深く聞いてたよ」

 アハトの言葉にエイタが軽い調子で応える。それは衝撃的な告白だったが、この場にいる誰も驚きはしなかった。

「そう言うアンタの名前は? アンタもジャーナリストだったのか」

「いや違う。俺は亜門あもんって闘技場でファイターをやってた。名前はエイタだ」

「なるほど、亜門のファイターか」

 エイタの仕上がっている体つきを眺め、アハトは納得する。

「亜門を知ってんのか?」

「ああ。人に連れられて、バーの方に行ったことがある」

 亜門とは、エイタの説明のとおり、下層にある闘技場の店名である。店の中央に金網で囲われたフィールドが設置されており、ファイター同士や挑戦者がその中で戦う。客は試合の様子を眺めながらどちらが勝つか賭け、併設されたバーで酒を飲む。

 試合に存在するルールは『武器の持ち込み禁止』のみ。片方が負けを認めるか意識を失って試合続行不能となれば勝敗が決するが、その危険性の高さ故に、死人を出すこともある。このような店の営業はイザナミの中でも違法であり、アンダーグラウンドな存在だ。

 二人のやりとりを耳にし、堪えきれなくなったという様子で堂島が噴き出し笑った。

「イザナミの生活の基盤を作っていた私のことがわからず、怪しげな店のことは知っている、と。下層の人間の頭というのはつくづく救いようがないものだな」

 アハトは軽く息を吐き出しながら堂島の言葉を無視したが、エイタは派手な舌打ちをした。

「下層民が生きるには、時には道に外れることも必要になんだよ。けどよ、上層はどうだ? 生まれた時から、恵まれた環境ってのが用意されてんだろうが。俺には、そんな『救いようがない』下層の奴らと一緒に宇宙にほっぽり出された上層のクズの方が、よっぽど救いようがないチンカスだと思うがな」

「低層民の口の汚さは、まったく聞くに耐えんな」

 堂島は呆れた様子で一度言葉を切ると、エイタから吉野へと視線を向けた。

「しかし、下層民が少ない語彙で罵る人間が、ここにはもう一人いるようだが」

 ちょうど傷の手当てが終わり、螺鈿が吉野の手をとって立ち上がったところだ。

「どこの人間の身内だったかは忘れたが、その生っちょろい顔は、堂島グループが開催したパーティで見た覚えがある。お前は上層の市民だな?」

 その言葉に、堂島以外の全員の視線も吉野へと向く。吉野はおどおどとした落ち着きのない様子で全員の顔を見返した。

「は、はい。ボクは吉野蓮といいます。学生、でした。父がスプレンディング社の研究員をしていて、ボクも堂島さんのことは、憶えています。パーティでは、お世話になりました」

 見た目の幼さに加え、話し方も身に纏う雰囲気も、ここにいる人間たちの中で吉野だけが異質だ。場違い感甚だしい。

 吉野の言葉を聞いてから一拍置いて、堂島がなにかに思い当たり、ハッとした表情をする。

「スプレンディング社の主任研究員が殺されたという話は小耳に挟んでいたが、その犯人がお前か」

 吉野はただ俯いた。それは言外の肯定である。つまり、吉野は親殺しの罪で探索刑に処されたことになる。

「ほう……それは、なかなか」

 堂島が片側の口角を上げ、含みのある言葉を発したとき。彼らの会話を黙ってただ聞いていたアハトは、奇妙な物音に気がついた。

 サラサラと乾いた音は、周囲に広がる細かな砂粒が動き、互いにぶつかることで出ているもの。その音に混じって聞こえてくるのは、擬音語に表すのならばチッチッ、チュウチュウといった有機的な音。例えば口の中で舌と上顎を使い、空気の通り道を狭めながら息を吸ったときのような。

 耳を澄ませたアハトは、その奇妙な音がいま突然鳴り始めたわけではないことに思い至る。お互いの会話に熱中している人間の耳でも、認識することができるほどに音が大きくなっただけだ。音は、四方から徐々に近づいてきていた。

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