二 落下

 洞窟の奥を目指し、暗闇の中を歩きはじめて十数分後、囚人たちは各々、体の芯から震えていくような寒気を覚えはじめていた。

 ——冷気が背後から追いかけてきている。

 不自由な視界ながら、先を急いでもなお追い付かれる冷気の強まる速度に、シュウの言葉に従って早めに出発していて助かったと感じるのである。

 洞窟の奥へと進めば、自然と入り口から差し込んでいた星明かりは届かなくなる。完全な暗闇になるはずだが、微かに自分の手の動き程度は感じ取ることができた。僅かながらも視界が保てているのは、囚人たちのベルトについている発信機の画面がぼんやりとした光を放っているからだ。それでも足元や周囲の状況を知ることはできないため、基本的には手を伸ばして頭上に突き出た岩にぶつからないようにしながら、足で進行方向の岩盤を確かめて落下しないように注意するしかない。

 洞窟の岩盤は全体的に緩やかな傾斜を描いており、奥へ進むごとに少しずつ地中に潜っていくような構造になっていた。空間が極端に狭まることも、進行不可能になる程の断崖や高低差に出くわすこともなく、人間が歩きやすい洞窟であると言って過言ではない。ただ時折、歩いているすぐ傍に落下したら大怪我を免れないほどの崖があったりもする。決して気を抜いて進める場所ではなかった。


 洞窟の中を歩きはじめてから、体感としておよそ一時間。

 いまのところは、ただ立って歩いていけば良いだけであるのだが、囚人たちは皆それぞれに疲労感を覚えはじめていた。視界のほとんど効かない暗闇は四方から迫り来るようで息苦しさを覚え、先に何が待っているかも知れない未知の空間に緊張して、精神をすり減らす。空間に反響しあうせいで、囚人たち自身の足音でさえも恐ろしい星棲生物の鳴き声のように聞こえることもあった。

「ここに大きい段差があるよ。手で足元確かめながら降りたほうがいいと思う。気をつけてね」

 先頭を歩いているシュウが警戒を促す。その次にはエイタと、彼の体を左右から支え歩いている吉野と螺鈿が続く。水と食糧を載せたコンテナを引きずって歩いているアハトが殿しんがりだ。

 前方にはシュウの言葉どおりに百二十センチほどの段差があり、足を止めて慎重に進む必要があった。

 先にシュウが降り、吉野と螺鈿から引き継ぐ形でエイタの体を受け取り、支える。次に吉野、螺鈿と一人ずつ段差に腰掛けるようにして降りていった。

「アハト、大丈夫か」

「ああ、問題ない。まず俺だけ降りて、次にコンテナは持ち上げておろす」

 螺鈿からの声かけに答え、アハトは段差の前にしゃがみ込む。岩盤に手をついて体を支えると、岩に触れた掌から、驚くほどの冷たさが伝わってきた。

 体が徐々に慣れていっていたので自覚しにくかったが、周囲はすでに、辺りが見えていれば自分の吐いた息が白くなるほどの気温になっている。

 ——洞窟の奥へ辿り着けば、本当にこの冷気を凌ぐことができるのか? この星の気温の低下は、人間の耐えられる温度では止まらないんじゃないのか。

 この場にいる誰も知る由のない疑念を抱きながら、アハトは段差を降りると振り返った。段差の上に残した重いコンテナを両手でしっかりと持ち上げ、足元に下す。コンテナに繋がっているベルトを持ち直し、自然、足元のスペースを確保するために数歩後ずさった。

 そのとき、何の前兆も無く、アハトの体が後ろにぐらりと傾いた。

 当然そこに地面があると思い込み、背後に踏み出した右足が宙をかいたのだ。突然のことで体の動きが止まり、臓腑がふわりと浮くような感覚がした。

「あ……」

 彼の口から漏れたのは、ひどく間の抜けた声。バランスを取ろうとして前に突き出した腕が何かに当たったが、掴むことはできなかった。後ろに傾きはじめた体は止まらず、アハトはそのまま宙に投げだされる。

 降りた段差のすぐ横は崖になっていたのだ。この場にいる全員がそのことに気づいていなかった。二メートルも高さがあれば、落ち方によっては人間に致命傷を与えるが、この場所が下の地面からどれほどの高さがあるかは誰もわからない。

「アハト!」

 螺鈿の叫び声が洞窟内に反響した。

 重力に引かれるまま落下しかけるが、アハトの体は軽い衝撃と共に一度動きを止める。アハト自身がコンテナにつながるベルトを握っていたため、崖からベルトでぶら下がる形で落下が止まったのだ。だがコンテナがいくら重いと言っても、落下スピードも加わったアハトの全体重は支えられず、滑るコンテナがそのまま崖から落ちそうになる。

 と、その瞬間にもっとも近い位置にいた螺鈿がコンテナに縋りついた。コンテナは動きを止め、アハトの落下も完全に停止する。

「アハト、落ちてないか!?」

 螺鈿がすぐさま声をかける。

「っ……ああ、なんとかベルトを掴んでる」

「自力で上って来れそうかい?」

「ダメだ、手が……滑る」

 アハトの声は、彼の切羽詰まった状況を表すように微かに震えていた。

 コンテナの重さによりぶら下がったときの衝撃で一度ずり下がり、アハトはベルトを右手の指先だけで辛うじて保持しているような状況だった。自力で這い上がるには両手でベルトを掴んで上ってこなければならないが、左腕でベルトを掴もうと体を動かせば、そのままずり落ちてしまいそうな予感があった。

「アハト、ゼッタイに手を離さないで。いま引き上げるから」

 エイタの身を吉野に託し、シュウがすぐさま地面に腹這いになる形で腕を伸ばした。体を半分乗り出し、ベルトの先端に指先だけかけているような状態にあったアハトの手を上から掴み、そのまま引き上げる。

 後半は螺鈿もシュウの体を支え、二人がかりでの救出となったが、アハトの体が地面の上に戻ってきたときには、全員その場にへたり込んでいた。

「助かった。礼を言う」

 落下という、単純にして明確に死の危険に晒されたアハトは呼吸を荒くしながらも真っ先に感謝を告げる。

「本当に危ないところだった。まさかこのすぐ横が崖になっていたなんて」

 螺鈿はそう言いながら、手で地面を撫でていき、崖の位置を確かめる。

「先に降りたシュウが気づかなかったのが悪い。ゴメン」

 自責の言葉を呟くシュウに、アハトは首を振る。

「単純に俺の不注意だろ」

「ここまで暗かったら、そこが地面なのか崖なのかなんて、誰もわかるわけがないよ。多少歩きにくくはなるが、これからはお互いに手を繋いで歩こう。そうしたら、誰かが落ちても全員で引き止めることができるだろう」

 堂島がいたら馬鹿にしていたであろう作戦だったが、この場には螺鈿の提案に異を唱える者はいなかった。

 先ほどから順番と役割は変えず、シュウと吉野が手をつなぎ、吉野と同じくエイタを支える螺鈿がアハトと手を繋ぎ、そのアハトはコンテナを引きずるという隊列で進んでいくことにした。一見間が抜けた行為のように見え、これはお互いの腕をザイルの代わりにしたアンザイレンであった。

 

 冷えた暗闇に支配された洞窟を、慎重に慎重を重ね、ときにまた落下の危機を迎えながらもお互いに支え合い、進むことそれから三十分ほど。

 ふと、前方にぼんやりとした青白い光が見えた。洞窟の道は緩やかながらも下る一方であり、つまり、入り口からひたすら地中に潜ってきたことになる。そのような位置関係で、地上に出る別の出入り口に辿り着いたとは考え難かった。

「なんだ、あれ。俺の目がおかしくなってんのか?」

 左右から体を支えられていてもなお、移動中始終辛そうにしていたエイタが、このような場所であるはずのない光を目にしてぼやく。

「いや、僕にも見えているよ。あれ、なんの光だろう。ちょっと、不気味じゃないかい?」

「わかんないけど、とにかく行ってみよ」

 足を止めかけた螺鈿にシュウが物怖じしない言葉をかけ、青白い光の方へと囚人たちを先導していく。

 光は、人一人が屈んでやっと通れるほどの小さな通路の先から漏れ出していた。お互いに手を繋いだまま、腰を屈めて通路を抜ける。

 そこは、洞窟の突き当たりに位置するドーム状の空間だった。天井の高さは三メートル、広さは三十平方メートルほどもある。空間の半分ほどから奥は青い液体が満ちていた。つまり、地底湖に出くわしたのだ。

 特筆すべきは、青白い光源は地底湖そのものだったことだ。透明な水の奥になにか光るものがあるわけではなく、液体それ自体が光っているように見える。

 洞窟は全体が黒曜石のようなつやつやとした岩盤でできているため、青白い光を受けると妖しく輝き、幻想的な美しさがあった。

「綺麗……」

 吉野が感嘆の言葉を漏らす。

「あれ、水か?」

「俺の知ってる水ではないな」

 エイタの素朴な問いかけに、アハトが地底湖を覗き込みながら端的に答える。

 青白く光る液体は澄んでいて地底湖の浅いところは底まで見通せたが、奥に行くに従って深くなっており、最も深いところがどこまであるかを判別することはできなかった。それでも、ここが濡れずに行ける洞窟の最深部であることは誰が見ても明白であり、一見したところ差し迫る危険はない。

 囚人たちはこの場に一時留まることに決め、エイタは空間の出入り口に近く、壁面が窪みのようになっている場所に下された。道中、お互いにかたく握り合ってきた手がようやく離される。

「傷の具合はどうだい? ちょっと確かめさせてくれ」

 螺鈿がそう声をかけながら、彼自身が運んできた救急セットのケースの蓋を開き、ぐったりと壁にもたれかかるエイタの様子を診る。吉野もまた疲れ切った様子で、エイタから人一人ぶんほど距離を置いたところに腰を下ろし、目を閉じていた。

 アハトは興味を引かれるままに水際まで近寄りしゃがみ込んだ。地底湖の正体を探るべく湖面へ手を伸ばすが、触れる寸前で動きを止める。翳した手が、湖面から放たれる揺らめく輝きに照らされ、幻想的な美しさに包まれていたからだ。

 思わず手を動かしてしげしげと見つめる。光を放つ水というのは不気味でありながらも美しいが、正体不明の液体に触れるのにはある種の勇気が必要だった。

「アハト、ナニしてるの?」

 シュウがやってきて、アハトの横にしゃがみ込む。

「この液体が何なのか調べたいと思ってな。ただ、触ったところから溶けたりしないか、急に不安になってきた」

「触ったら調べられるの?」

「少なくとも『触れる』ということはわかるだろ。触れもしないものが飲めるわけないからな。成分とかは正直どうでもいいんだ。ただ、飲めるのか飲めないのかは、どうしたって実際に試して確かめる必要がある。この星で生きていくには、飲み水を確保しねぇと始まらないからな」

 現時点ではまだイザナミから共にやってきた物資の水が残っているが、たかだか五日分だ。その飲み水が尽きたとき、囚人たちの死が確定する。人間とは、水を飲まなければ数日で死ぬ生き物だ。

「ふーん」

 どこか適当な相槌を打ちながら、シュウは伸ばした手を無造作にぽちゃんと湖面につけた。そのまま、軽く波を起こすように水面をかく。自然と、洞窟の天井に美しい輝きの波紋が広がった。

「わ、やっぱり冷たい」

 水温のみに言及したシュウの反応は冷静そのものだ。彼の様子からして、液体に触ったところで皮膚になんらかの異常が起きるわけでもないことはわかった。

 寸前で躊躇してしまっていたアハトは、どこかばつの悪さを感じながら、シュウの後を追うように湖面に手をつけてみる。吐く息が白くなるほどこの洞窟内の気温自体が下がっていることもあり、痛みにも似た刺激を感じるほどに冷たい。しかし、物質的になにか異常があるわけではない。不自然なとろみなどもなく、感触は本当に何の変哲もないただの水だ。掌で掬い上げて鼻先を近づけたが、匂いもない。

 アハトは一度湖面から手をあげると、コンテナに載せてついでに運んできていた、空になった水のボトルを持ってきた。ボトルの蓋をあけ、湖に沈めて、その正体不明の液体をボトルいっぱいに詰める。

 透明なボトルに入れて横から観察してみると、液体は本当に濁りなく澄んでいることがわかった。なにか正体不明の微生物が泳いでいるということもなく、そういった面では安心できる。湖から取り出されても、液体は当然のように青白く輝き続けていた。

「それ、どうするの?」

「飲んでみる」

「飲めるの?」

「やってみないとわからねぇだろ」

 シュウと短いやりとりをした後、アハトは意を決してボトルに口を付けた。『正体不明の液体に触れるチャレンジをシュウにさせてしまった』という負い目がアハトの背を押していた。

 液体を口に含むと、途端に痺れのようなものが舌に走る。ピリピリとした薬品めいた刺激は、それが人間の飲用に適したものではないことを明示していた。当然飲み下すことはせず、アハトはその場に液体をすべて吐き出すと、しばし咳き込む。

「わあっ、ダイジョーブ?」

 シュウが慌ててアハトの背をさする。アハトは口の中に湧いてきた唾液を数回に分けて吐き出してから頷いた。舌と口蓋を擦り合わせるようにして口腔内の調子を確かめるが、特に問題はない。すぐさま体に異変が起きるようなこともなかった。

「大丈夫だが、少なくとも、そのままだととても飲めたもんじゃないってことはわかった」

「マズかったの?」

「少し苦味があるか。ただ、まずいというか、なにか危険な刺激があった。薬品というか、毒物のような」

「そんなもの口に入れちゃったんだよ、本当にダイジョーブなの?」

「あとで死んでたら笑ってくれ」

 アハトは軽口を叩いたが、シュウはひどく落ち込んだ様子で眉を下げ、アハトの顔を覗き込んだ。

「アハトが死んだら困るよ」

「本気にするなよ、この程度なんでもない。イザナミでだって散々危険なもの飲み食いしてきたからな。工場からの廃液に浸かったレーションも食ったことがある」

「イザナミって危ないトコなんだね」

「まあ、下層はな」

 シュウとの会話を適当に切り上げると、アハトは地底湖の液体を詰めたボトルの蓋を閉めた。飲めないとわかったものを取っておくことにしたのは、別の用途を思いついたからだ。

「これ、単純に光源になるよな。こうして密閉運搬して、いつまで光り続けるものなのかは未知数だが。ウォータライトとでも呼ぶか」

 使い勝手が良くなるように命名して、他の空きボトルにもウォータライトを詰めると、アハトはシュウと共にエイタたちの元へと戻った。


「それ、あの湖の水を汲んだのかい? すごいな、底に何かがあるんじゃなくて、本当に水が光っているのか」

 足音に気づいて振り返った螺鈿が、アハトの持つ輝くボトルを見て言う。

「ああ。飲めたもんじゃなかったから飲用にはならないが、これはこれでライト代わりになるだろ。アンタも一本持っといて」

「ウォータライトって呼ぼうってさ」

 アハトの言葉にシュウが楽しそうに説明を付け加える。アハトからボトルを受け取った螺鈿はその命名に納得したように笑って頷いた。

「ウォータライトか。なるほど、ありがとう。ちょっと僕も湖を近くで見てこようかな。医者ならではの目線で見つかるものもあるかもしれないし。吉野、エイタのそばにいてあげてくれる?」

 エイタの腹部に包帯を巻き直し、螺鈿が立ち上がる。声をかけられた吉野は顔をあげ、無言のまま頷いた。

「守りが必要なガキじゃねぇんだぞ」

 エイタが相変わらずな文句を言ったが、声には元気がない。洞窟の入り口付近から移動してくる前と比較しても、見るからに弱っている。

「シュウもエイタのそばにいるよ」

 シュウがそう主張をしながら、吉野とは反対側のエイタの横に腰をおろした。

「だからいらねぇって。そもそも、テメェのその喋り方なんとかなんねぇのか」

 顔色は悪いながらも、エイタの軽口は続く。

「シュウの喋り方、おかしい?」

「普通、自分のこと名前で呼ばねぇんだよ」

「シュウ、記憶ないからなぁ。フツーじゃないからそのままでいいかも」

「記憶がないことをそんなに軽く受け入れていいのか」

「だって、どうしようもないし」

 妙に場を和ませる二人の会話を聞いて笑いながら、螺鈿は湖の方へと歩いていく。すれ違いざま軽く肩を叩かれたので、その意図を汲み取ってアハトも彼についていく。

「正直な話、エイタの傷は治る方向には行っていないよ。快方に向かう見込みもない」

 再び湖のすぐ側までやってくると、アハトにだけ聞こえるように声を抑えて螺鈿が囁いた。

「つまり、遅かれ早かれ死にそうってことか」

「随分と直接的な言葉を使うんだね」

「直接的だろうが間接的だろうが、言ってる内容が同じなら同じだろ」

 肩をすくめるアハトに、螺鈿は諦めたように薄くため息を漏らす。

「傷が深いし、形状が悪すぎる。もしかしたら、あの白ヒルの体液になにか特別な作用があった可能性も否めない。まだ血が止まらないんだ。それでも、エイタの並外れた生命力でなんとか持ち堪えてるけどね」

「なぜ俺だけに話すんだ」

「意思の強さだけでもっているようなものだから、エイタ自身には言わない方がいい。だけど、アハトは覚悟をしておいた方がいいかと思って」

「別にいらないだろ、そんなもの。アンタを含めてそうだが、俺たちは所詮、赤の他人だぞ」

 何の気負いもなくアハトが言うと、螺鈿は心底意外そうな表情を浮かべてアハトの顔を見つめた。

「あの地獄のような炎天下、自分の身さえ危なかったのに、君は決してエイタを見捨てようとはしなかったじゃないか。白ヒルを倒して助けたのもそうだが、今、エイタの命が長らえているのは、間違いなく君の献身のおかげだ。だから、エイタに特別な友情を抱いているものかと思っていたのだが」

「できることだから、やったまでだ。エイタに対して思い入れがあるわけじゃない」

 聞きようによっては冷たい言葉だが、それが紛れも無いアハトの本心であり、だからこそアハトの清廉さを表していた。

「そうか。君は……」

 螺鈿の言葉はそこで不自然に途切れる。

「何だよ?」

「いや、何でもない。それより、もう一つ聞きたいことがあったんだ」

 無言のまま、それでも言葉の先を促すように、アハトは螺鈿に視線を向ける。

「拘置所で、アハトの房は僕がいた房の上に位置していたんだが、きっと君は知らなかったよね」

「そうだったか?」

 実際に記憶になかったアハトは気のない返事をする。

 ここにいる囚人たちは全員、あのカプセルホテルのような極小の独房に、期間は違えども収容されていたことになる。だがアハトは、お互いが入っていた独房の位置関係などはまったくもって意識していなかった。拘置所で独房の外に出ることを許されたのは一日一回のシャワーの時間のみだ。それも囚人ごとに時間がずれているため、星に墜落したあの瞬間まで、お互いに顔を合わせたことは一度もなかった。

「他の人がどこに入っているかは僕も把握していないんだけど、上にいた君の姿だけは、出入りするときに僕の房から見えていたんだよ」

 通路から中の様子が把握しやすいよう、独房のドアは透明の強化ポリカーボネートでできていた。そのため、逆に独房から通路の様子も見ることができたのだ。

「独房にいたときに、上からの騒音がうるさかったとかいう苦情か?」

「いや、そんなくだらないことじゃない。僕が気になってるのは、ここに来ることになった三日前のことだ。シャワーの時間でもないのに、アハトは看守に外へ連れ出されていたよね?」

 螺鈿が指摘しているのは、ドライと面会したときのことだ。

「あのとき、君はいったい何をしていたんだい?」

「どうしてそんなことを知りたがる」

「探索刑が確定している囚人が規定の時間以外に独房から出されるなんて、滅多にあることじゃないからね。なにがあったのかと、気になってもおかしくないだろう? もしかしたら、君だけ看守からこの星のことを聞いていたりするかもしれないし」

 螺鈿は伺うような眼差しをアハトへと向けていた。その顔を見返し、アハトはしばし沈黙する。話すことを躊躇う理由は、ドライの『誰も信じるな』という言葉を思い出したからだ。

 しかし、この星に墜落してからというもの、螺鈿は常に医者として人の身を気遣う様子を見せていた。

 ポッドの中で発見されたシュウを蘇生しようという姿勢を見せ、次に怪我をした吉野、エイタを治療した。洞窟を下る道中では、滑り落ちるコンテナを螺鈿が咄嗟に止めてくれなければ、アハトはそのまま闇の中へと落下していた。言わば命の恩人である。

「わかった。話そう」

 覚悟を決めて息を深く吐き出してから、アハトは声をいっそう抑えて話し始める。

「あのときは、プレイグの幹部である俺の兄貴分、ドライさんが裏から手を回して、俺に面会をしに来てくれていたんだ。目的は、俺が送りだされる探索刑のポッドに、とんでもない囚人が一人同行することになるだろうという情報を伝えるためだった」

「とんでもない囚人って、誰なんだい? 堂島のことかな」

 螺鈿は動作を大きくしないようにチラリと振り返り、エイタたちがいる方を見る。ドライが示唆した人物は、死んだ堂島か、いまこの場にいる囚人たちの中にいることは間違いない。

「わからない。その囚人の名前や年齢はいっさい公表されておらず、ドライさんも身元は掴めていなかった。ただ、己の楽しみのために何人もの人間を拷問の末に食い、殺した、イザナミ史上最悪の殺人鬼だということだ」

 アハトの言葉を聞き、螺鈿は驚きに目を見開く。

「それは、本当の情報なのかい? つまり、僕たちの中にそんなとんでもない奴がいる、と?」

「わからない。ただアンタも言ったように、探索刑が確定している囚人に面会することが、いくらプレイグの幹部だと言っても大変だっただろうということはわかる。しかし、ドライさんは俺の身を案じて警告をしに来てくれた。不確かな情報だけで、そんな手間をかけたとは思えない」

 螺鈿はアハトの言葉に納得したように頷いた。

「そうか、たしかにそうだね。アハトは、それは誰だと思うんだい? 僕に話してくれたってことは、僕ではないと思ってくれているんだよね?」

 どこか違和感のようなものを覚えながらも、自分を殺そうとしてきた堂島の表情を思い出し、アハトは静かに話す。

「俺は、堂島だったのではないか、と思っている。一人分の水と食糧を浮かすために、躊躇なく俺を殺そうとしてきた人間性だ」

「そうだね。ここにいる皆は、それぞれどんな理由で探索刑になったのか話しているし、とてもそんなことするような人間には思えないしね」

 問題の殺人鬼が堂島であったとするなら、この話はすでに解決済みとなる。螺鈿は同意するように頷いてから、ふと表情を緩めた。

「探索先での君の身を案じて、大変な手間を割いて警告しにきてくれるなんて、そのドライさんっていう人は、本当にアハトが三年間生き抜いて戻ってくるって信じているんだね」

「そう言ってたよ。探索刑からの生還者の第一号になれと」

 聞く人によっては『そんなことできるわけがない』と一蹴される言葉だが、アハトは恥じるでもなく、ただ事実として返事をする。

「君自身はどう思っているんだい? 本当に、生き残れると思ってる?」

「さあな。ただ、諦めるつもりはない」

 気負いのない短い一言。これで会話は済んだとばかりに、アハトは螺鈿を置いて、エイタたちの元へ戻るために歩き出す。

 自信も失望もなく、ただ今を考え、自分にできることをやる。それがアハトのメンタリティのすべてだった。

 アハトの背中を、螺鈿はしばし目を眇めて眺めていた。

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