三 大群
シュウと再会し、移動を開始したのはすでに夜になってからだった。それから二時間近く洞窟の中を歩き続け、地底湖に突き当たった。囚人たちには時刻を確かめる術はないが、現在が真夜中であることは間違いない。
アハトと螺鈿の短い会話のあと、囚人たちは連続した緊張からくる疲労に身を委ね、全員がほぼ同時に眠りについていた。
寒さから逃れるために洞窟を下ってきたわけだが、気温は零度を下回っている。毛布などの寝具や防寒具があるわけでもなく、眠ると言っても、ただ体温を奪っていくばかりの冷たく硬い岩盤の上に体を横たえて休むしかない。自然、囚人たちは己の生命を守るため、お互いの体で暖を取り合うようにして身を寄せ合っていた。
人間の体は眠っているからといって、完全に動きが止まるわけではない。呼吸は当然のこととして、身動ぎをするし、寝返りも打つ。お互いに触れ合っている体が少し動いた程度で目を覚ましていては休息にならないので、自然と感覚は鈍化する。
堂島と共に物資を取りに行った分、他の囚人たちに比べ肉体への純粋な負荷も続き、疲れきっていたアハトの意識がふと浮上したのは、太ももの辺りに奇妙な感触を覚えたからだった。
はじめは、寝ぼけた誰かの手が触れているのかと思った。
指のような細長いものが複数、時折太もも全体を掴むように力をかけながら、肌の上をなぞるようにすうっと移動していく。つなぎを着ているので厚い布地越しの感覚になるが、それでもしっかりとした違和感を覚えるほどには、それは圧をかけて動いていた。
「んっ……」
どうしても無視できない感覚に、小さく声が漏れた。眠気に意識を引きずられながらも重い瞼を押し上げ、なんとか瞬きを繰り返して視界を確保する。
そのまま違和感を覚えた自身の太ももに視線を向け、アハトは一瞬体を強張らせた。暗がりの中で、自身の太ももに小さな人間の顔面が張り付いているように見えたのだ。
慌てて頭上に置いていたウォータライトを掴み、光を翳して正体を知る。それは、赤ん坊の頭部ほどの大きさをした奇妙な星棲生物だった。
その生物は一見して、巨大なタニシのような形状をしている。表面の凹凸が歪んだ人間の顔面に見える不気味な貝から伸びるのは、人の指ほどの太さの無数の触手である。触手は一本一本が独立して器用に動き、陸に上がった蛸のように移動していた。
「んっだ、これ」
自分の体に取りついていた物の正体を認識したアハトは、飛び上がるようにしてその場に立ち上がった。太ももから両手で払い落とそうとして、ウォータライトを握っていない自分の左手にも別の個体が付着していたことにようやく気づく。しかも、触手の一本が手の甲に突き刺さり、触手が体内に入り込んでいる様子が皮膚越しに隆起して見えていた。
なによりも恐ろしいのは、そこに異物が付着していることにも気づかなかったほど、まったく痛みを感じていないことである。
思わずウォータライトを取り落とし、左手に付着していた貝の部分を鷲掴みにして皮膚から触手を引き抜くと、地面に叩きつける。触手が抜けた皮膚には当然ながら穴が空いており、じわりと血が滲んだ。
裏返しになった人面タニシのおぞましさは、大抵のことでは動じないアハトの肌にも粟を生じさせる。
蠢く触手の中央、蛸であれば口がある部分には、つやつやとした赤い粒が柘榴のようにいくつもついていた。
アハトはそのまま人面タニシを踏みつけた。赤い粒々は元より、貝自体には大した強度はなく、軽い抵抗の後にグシャリと潰れ、血のような赤い汁を飛び散らせる。甲殻を持つ大きな虫を踏みつけたような感触だ。
太ももに張り付いていた個体も引き剥がして同じように踏み潰し、取り落としたウォータライトを拾おうとして、アハトはようやく自分たちに差し迫った事態を理解する。
あたり一面に、人面タニシの大群が迫っていた。すぐそばで寝ている他の囚人たちの体にもすでに複数体の個体が取り付き、皮膚が露わになった部分から触手を突き立てている。
「寝てる場合じゃないぞ、起きろ!」
空間内に反響する大声で叫び、他の囚人たちに取りついた人面タニシを引き剥がして踏みつけ、駆除していく。そうこうしている間にも他の個体が地面を素早く移動してきて、囚人たちの体に飛びかかる。
アハトに起こされた他の囚人たちも事態を理解すると各々異なる叫びを上げ、地底湖の空間は俄かに騒がしくなる。
すでに自力では立ち上がれないエイタを除き、全員が背を預け合うように立って、迫り来る人面タニシを踏み潰す作業を開始することになる。
「もうやだあああ、気持ち悪いいいい」
吉野はほとんど泣き声といっていい悲鳴を上げながら、バタバタと手足を大きく振り、狂ったように人面タニシを潰していっている。白ヒルに囲まれたときはパニックになってわけもわからず走り出し吉野だったが、それと比べれば随分と役立つ行動だった。
「体に穴をあけられているのに、どうして痛みを感じない」
「おそらく、この生物が触手を体内に挿入する際に、部分麻酔のような成分を注入しているのではないかと。しかし、こんな大群いったいどこからやってきたんだ」
アハトの呈した疑問に螺鈿が答え、続いた言葉に応えてシュウが空間の先を指差す。
「やっぱり、ソコからじゃないかな」
光を放っている地底湖の淵に視線をやると、人面タニシが水の中から這い出てくる様子が見えた。囚人たちは地底湖がどれほど深いのかも、どこに繋がっているのかもわからない。つまり、人面タニシの大群の総量も未知数である。
他の囚人とは違い、寝ていたところから壁に背中を預けただけでまったく動いていないのに、エイタは不自然に息が上がっている。
「キリがねぇな。ここから逃げるか?」
そのエイタからの提案に、アハトはきっぱりと首を降った。
「洞窟を戻っても、あの大群が追いかけてくることには変わりないだろう。ウォータライトがあるとは言え、地底湖を離れたら洞窟の中はいっそう暗い。人面タニシが体のどこかに取りついたことに気づかず、そのまま死ぬまで血肉を吸い続けられたら目も当てられない。ここで凌いだほうがまだマシだ」
現時点で囚人たちは、人面タニシから受けた傷から痛みを感じていない。傷の程度も白ヒルや巨大ムカデと比較すれば軽いし、体のサイズも人間の方が何倍も大きく、力も強い。
しかし人面タニシが明確な意思を持って人間の体に触手を突き立てていたことは間違いなく、人間は被食者だと見なされていることはわかる。放置すれば殺されることは間違いないと思われるのに、視認しなければ触手を皮下に挿入されていることにも気づかないのが厄介だ。視界が効きにくくなる暗がりに行くという隙を見せることはできなかった。
「そもそも、冷気を避けてここまで来たんだ。現状、対処はできてる。続けるしかない」
その一言で会話を締め括り、アハトは黙々と迫り来る人面タニシを踏み潰す作業へと没頭する。人面タニシに大した強度がなく、少し力を入れて踏みつけるだけで殺せることが唯一の救いだった。
裏も表も気色悪い人面タニシを延々踏み潰し続けるという、単純にして最悪な作業を開始してから、どれほど経ったのか。
足元は一面が赤い体液と内臓らしきものの残骸、殻のかけらで覆われている。もはや囚人たちに時間の感覚はなく、意識が半ば朦朧としてきていた。
「おい吉野っ、テメェふざけんじゃねぇぞ」
唐突に、壁にもたれたままのエイタが鋭い声を上げる。アハトが振り返ってみると、エイタの体に三体の人面タニシが取りついていた。エイタも自身に取り憑いた人面タニシを引き剥がしては拳で殴りつけて潰しているが、動きは緩慢で、一体を潰すのにも苦労している様子が窺える。応戦するのが難しいほどに彼の体は弱っていた。
囚人たちは、壁に背をつけて座り込むエイタを取り囲むように半円の陣形を保って立っている。それぞれが防御壁となって迫り来る人面タニシを踏み潰していっているため、全員がしっかりとすべての人面タニシを殺せていれば、エイタの元に人面タニシが到達することはない。エイタに取り憑いている個体がいるということは、誰かがことをし損じているということだ。
そしてエイタの指摘は正しく、彼に取りついていた人面タニシのすべては、吉野の足元からポロポロと漏れていた。
「あ、あっご、ごめんなさい」
エイタに名指しされた吉野は、実際に地面から数センチ飛び上がるほどに怯え、体を竦める。そうしている間にも、また吉野の横をすり抜けた人面タニシはエイタに迫る。
この最悪な単純作業を開始した直後、人面タニシへの生理的嫌悪感から大声で叫び、余計な動作を繰り返していた吉野は他の者たちと比べても明らかに疲弊していた。そのため現状の吉野は動きが緩慢になっており、注意力も低下している。
「ああ? ワザとやってんじゃねぇだろうな。ふざけてるとぶっ殺すぞ」
体は弱っているのに、エイタの語気の強さと口の悪さは変わらない。
「わ、ワザとなんかじゃ……」
吉野が体を強張らせて反論する途中、エイタは逞しい腕を振り上げると、握り込んだ拳で地面の上を進んできた人面タニシを乱暴に叩き潰した。体を動かした際に傷口から痛みが走ったのか、エイタは顔を顰めるとそのまま吉野を鋭い眼光で睨め付ける。
吉野は怯え、ヒッと喉の奥で悲鳴のような息を漏らして身を固くする。すると、その足元からまた人面タニシが漏れてエイタへ襲いかかるという悪循環が発生している。
「っざけんじゃねぇぞこのウスノロ野郎。俺を殺す気か。これが済んだら痛い目見せてやるからな、覚悟しとけよ」
余裕をなくしたエイタの言葉と強い視線に射竦められた吉野が、完全にその動きを止めた。堰き止められた水が堤の決壊した部分から流れ出ていくように、人面タニシの大群がそちらに集中する。
「吉野、止まっちゃダメだよ」
横にいたシュウが声をかけてすぐさまフォローに入り、より多くの人面タニシを潰していくが、それで全てを処理しきれるものではない。
「いいかい吉野、足は絶対に動かし続けるんだ。終わりが見えなくても、とにかくやるしかない。エイタも、吉野を怖がらせないでくれよ。わざとじゃない、皆疲れてるんだ」
螺鈿が言葉を重ねて吉野を鼓舞し、エイタを諌めると、エイタは不服そうに舌打ちを一つした。アハトは無言のままエイタの方へと近づき、漏れていった人面タニシを踏み潰す。
そうして全員のフォローが入ってからしばらくしても、吉野はその場に突っ立ったままだった。当然のことながら、人面タニシは襲う人間を選別しないため、数匹が棒立ちになっている吉野の足をよじ登っていく。
「おいウスノロ、腑抜けてんじゃねぇぞ! こいつらに食われてぇのかよ」
エイタが再度声を荒げた。そのまま彼の身に迫った人面タニシの殻を掴むと、吉野の顔面めがけて真っ直ぐに投げる。避けることもせず突っ立っていた吉野の顔面に、生きた人面タニシの裏面が直撃した。
「ぎゃあああああああっ」
断末魔のような悲鳴を上げ、吉野は顔を覆った人面タニシを引き剥がすと地面に叩きつけた。それからまた、狂ったように人面タニシを踏みつける作業に戻る。
しかし、作業を再開したからといって吉野の様子が完全に元に戻ったわけではなく、彼はポロポロと涙をこぼし、声を上げて泣き続けている。囚人たちの中では最年少とはいえ、吉野も立派な成人男性だ。それは幼児退行しているかのような、異様な光景だった。
「エイタ! 度がすぎるぞ」
様子を見兼ねた螺鈿の鋭い叱責が飛ぶが、エイタは悪びれない。
「おかげで正気に戻ったじゃねぇか。テメェらも甘やかすな。ほっといたら死ぬぞこいつ」
そんな囚人たちの一連の様子を眺め、アハトは短く嘆息する。
「正気、ねぇ……」
エイタにぶつけられた人面タニシの赤い体液で顔を汚したまま、なんの矜持もなく泣きじゃくっている吉野は、むしろ正気を失ったようにアハトの目には映った。
地獄の作業をはじめたときと比べ、随分と力の抜けたシュウの足が、最後の人面タニシを踏み潰す。
無限に湧いて出てくるものかと思われた大群だったが、それでも終わりは来たのだ。囚人たちが陣取っていた一角の地面は完全に赤く染まり、潰れた殻が層を作るほどに溜まっている。人面タニシ一体一体からは特に固有の匂いを強く感じることはなかったが、これだけ死骸が集まると、あたりにはブルーチーズにアルコールを混ぜたような、何ともいえない臭気が漂っていた。しかし、長らくこの空間で作業を続け、すっかり鼻が慣れてしまった囚人たちにとって、匂いは大して気になるものでもない。
「終わった」
螺鈿が力なく呟き、その場に崩れるように倒れ込む。当然、体液と死骸の上に体を横たえることになるのだが、今更汚れることも気にならないほど、すでに囚人たちは人面タニシの体液に塗れていた。白いつなぎはすっかり赤く染まっている。
結局最後まで泣き続けた吉野は、スンスンと鼻を鳴らしながらしゃがみ込むと、体育座りした足の間に頭を預けて丸くなる。
「みんな、本当にお疲れさまだよ」
膝から崩れ落ちながら、感慨深い様子でシュウが全員を労った。
改めて地底湖を窺い、その淵に蠢くものがないことを確認してから、アハトはようやくその場にどかりと腰を下ろす。疲弊しきった足の筋肉が痙攣している。
それからしばし、吉野の啜り泣きと全員の荒い呼吸だけが響く沈黙が落ちた。
ふと掠れた声でエイタが言う。浅黒い彼の唇は紫色と呼べるほどに血の気が失せている。
「この星では、俺たちが安心して寝れる夜が来ることはねぇのかもなぁ」
ポッドが墜落してからというもの、迫り来る危機の連続だった。気が休まり、しっかりと体を休められた時間はほぼないと言って良い。それは、深い実感が籠った一言だった。
日の光が差し込まない洞窟最深部では時間の経過を知る術はないが、囚人たちが人面タニシと格闘を続けたまま一夜を明かしたことだけは間違いなかった。
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