四 低温

「寒い」

 蓄積し続けた疲労からくる呼吸の荒さがようやく整い出した頃、凄惨な残骸の上に横たわったままの螺鈿が無気力に呟いた。

 そしてその短くシンプルな感想は、この場にいる全員がずっと抱いているものだった。

 先ほどまでは、『迫り来る人面タニシの対処をする』というやるべきことが目前にあり、動き続けていたために、下降し続ける気温への感覚が多少誤魔化されていたに過ぎない。差し迫った危機が去り、しばし体を休ませてみれば、無視しきれないほどの冷気が空間を満たしていた。

 アハトは濃すぎるほどの白い息を吐き出し、ウォータライトを手にすると、痙攣する太ももを拳で数回叩いてから立ち上がった。この空間外の様子を確認するため、狭まった出入り口へと向かう。腰を屈めて通路を抜け、暗がりへと一歩足を踏み出した瞬間に、身の危険を感じた。

 露わになっている箇所の肌が痛みを感じるほどの冷気。吐いた息は微かに上ったあとそのまま凍りつき、前髪の辺りに氷粒として付着した。摂氏マイナス何度になっているのか、正確なことは確かめようがないが、このまま足を進めれば命の危険があることは確かだった。

 アハトは体を芯から震わせながら、慌てて狭い通路を引き返し、地底湖の広がる空間へと戻る。

「すぐそこまで尋常じゃない冷気が迫ってる。この空間だけが守られてるみたいだ。ここまで辿り着いてなかったら、まず凍え死んでたな」

 アハトからの報告に、螺鈿が不安そうな表情を浮かべて体を起こした。

「ここにいれば大丈夫ということか?」

「いや、この空間が特別守られてるってわけじゃないだろ。ただ奥まってて、空気の通り道が狭いだけだ。放っておいたらここも同じように冷える」

 アハトは食糧と水を載せているコンテナのところまで向かうと、積載物を横にどけはじめた。コンテナをすべて空にして担ぐと、出入り口を塞ぐようにして立てかける。それしきのことで出入り口のすべてを塞げるわけではないが、ないよりはあった方が良いだろうという判断だ。

 啜り泣きが聞こえなくなっていることに気づいて螺鈿が視線を向ければ、体育座りで小さくなっている吉野は、ゆらゆらと頭を揺らして眠りに落ちかけていた。

「吉野、この状態で寝たらダメだよ。とにかく皆で集まろう。体温を保たないと」

 螺鈿が吉野の肩を揺らし、腕を掴んで引き上げようとする。

「……ボクの、ことは……もう、放っといてください」

「そういうわけにもいかないんだよ」

 吉野は母親に起こされた子供のようにむずかるが、螺鈿は彼の体を半ば無理やり引きずるようにして、エイタの元へと運んだ。

「シュウとアハトも、来てくれるかい」

「身を寄せあうだけで、この寒さを凌げるのかな」

 螺鈿に呼ばれて側に向かいながら、シュウが疑問を口にする。

「そんなこと言ったって、防寒具もなにもないんだよ。他にできることはない。いるかどうかもわからない神に祈るくらいだ」

「せめて、もう少し奥へ移動しよう」

 螺鈿の言葉に続け、アハトは言う。

 囚人たちは空間の中で最も奥まった位置の窪みに腰を下ろすと、お互いに身を寄せ合って、深まる寒さを耐えることにした。


 ——お互いに身を寄せ合って耐えていれば、この星の未知なる寒さをも凌ぎきれるかもしれない。

 その考えが楽観的な幻想に過ぎなかったことを痛感するまで、そう長い時間は掛からなかった。

 人間は恒温動物であり、優れた体温調節機能を持っているため、かなりの幅広い気温とその変動に耐えることができる。しかし、体温自体の変動は人体に多大なる負荷を与える。

 凍死という字面を見ると、体自体が凍ってしまった結果の死亡のように思えるが、体が実際に凍るより前に、体温が保てなくなった段階で人間は死に至るのだ。

 寒冷状態で寝てはならぬと言われるのは、眠ると体温が下がるからに他ならない。例えば、睡眠状態にアルコールによる酩酊が加われば、気温が十五度ほどあっても凍死してしまうこともある。

 体温が三十五度を下回り始めると全身が震え出し、意識がはっきりしなくなる。三十二度あたりから今度は震えが止まり、筋肉の硬直が起こり、意識が混濁しはじめる。二十八度を過ぎると致死性の不整脈が出はじめ次第に死に至る。

 そしていま、アハトの体は震えていなかった。身動ぎするのも億劫なほどに全身が強張り、なぜか暑さを感じはじめていた。服を脱いでしまいたい衝動にさえ駆られるが、アハトの薄らいだ意識の中で、現在自分は殺人的な寒さの中にいるのだと己に言い聞かせる。

「俺……人殴るのが好きなんだ」

 そう呟いたのはエイタだ。この場にいる誰もが朦朧とした意識の中にいるが、彼の表情は妙に安らいでいた。

「殴ったらよ、スッキリすんだよ。とめらんねぇんだ。あ、こいつ死んだなと思ってもよ、もっと殴ると、スカッとして、気持ちいいんだよ」

 穏やかな声で紡がれる独白。

 その声を聞きながら、無感情にただただぼうっとしていたアハトの視界に、こちらへと歩いてくる人の足元が見えた。ピンストライプが入った黒のスラックスに、合皮でできたストレートチップの黒靴。その足元の装いにはひどく見覚えがあり、アハトはゆっくりと顔をあげる。

 この場にいるはずもないドライが目の前に立っていた。

「しっかりしろ、アハト」

 ドライは顔を顰め、低い声で叱責する。

「ドライさん……」

 自分は幻覚を見ているという自覚をしながらも、頼もしい兄貴分の姿を最期に見れたことをアハトは喜んでいた。

 兄貴分という言い方をしているが、唯一の肉親を七歳という幼さで亡くしたアハトにとって、ドライはまさしく実の兄のような存在だった。兄であり、生きる術を教えてくれた師匠であり、仕事を共にこなすボスである。厳しいが頼もしく、狡猾でありながら仁義を忘れていないドライという男を、アハトは敬愛していた。

「すみません。ちょっと、疲れちまいました。もう休ませてください」

 口から漏れたのは、イザナミにいたときから久しく言った覚えのない弱音。差し迫る凍死の危険性は、眠りに落ちる前の微睡のように、なぜだか奇妙に心地良かった。

「アハト!」

 幻覚のドライは怒声をあげ、彼の足元にあった、握り拳大の石をアハトへ向けて蹴りつける。それは一度アハトの体に当たり、コロコロと転がった。黒曜石のような光沢を持った石は洞窟内部の岩盤とまったく同じ質感であり、岩盤から一部欠けたようなものであることがわかる。

「お前はこんなところで死んでいいような男じゃねぇだろ。絶対に帰ってこい。これは、命令だ」

 頭上から続けられる言葉。アハトが小石から視線を上げると、そこにドライの姿はなくなっていた。完全に冷えきり、心なしか空気までが青白く染まっているような空間だけが広がる。

「……ドライさん」

 再度その名前を口にして呼びかけると、たまらない切なさが胸に広がった。同時に、諦めに支配され、半ば停止していた思考が動き始める。

 ——イザナミに帰る。俺は、なにをしてでも生き抜かなければならない。

 強張り切った体を動かし、足元に転がっていた石を拾ってからアハトは立ち上がる。

 放り出されていた救急セットのジュラルミンケースを開き、脱脂綿と包帯に加え、消毒液のボトルを取り出した。

 周囲を見渡せば、地面には人面タニシの残骸が山のように転がっている。アハトはそれらの殻をいくつもかき集め、囚人たちが身を寄せ合っている場所の目の前に、人面タニシの殻の小さな山を作った。すぐさま横に腰を下ろすと、脱脂綿に消毒液をかける。

 つなぎのポケットに手を入れ、手頃なサイズであったからこそ持ってきていた、ポッドの残骸である金属片を取り出す。その一部に包帯を幾重にも巻き付け、握り込めるように持ち手にする。

 脱脂綿を地面に置き、その上に屈み込んだ。右手に先程拾った石を握り、左手に金属片を握ると、短く息をひとつ吐く。その後、覚悟を決めて両者を幾度も打ち付けはじめた。アハトは、即興で火打石を作り上げたのだ。

 宇宙船イザナミで生まれ育ったアハトに、火おこしの経験があるわけがない。ただ、かつて人間が住んでいた地球とその歴史や文化について興味があったため、古の人々がどのようにして火をおこしていたのかという知識だけは持っていた。

 しかしながらその知識も、はっきりと憶え込んでいたようなものではない。ただ抗いようのない死を目前にし、『石と金属を打ち合わせて火花を散らし、火をおこす』という、記憶の片隅にあった朧げなイメージが湧き上がってきたのだった。

 寒さと疲労によってもはやなくなりかけている力を振り絞り、アハトは朧げな記憶だけを頼りに、石と金属を打ち付け続ける。だがいくら力を込めたところでそれらは依然としてただの石と金属であり、少しずつ石が欠けて小さくなっていくだけだ。このまま道具とも呼べない拾い物を打ち付け続けたところで、本当に火をおこせるという確信はない。ただ、諦めた瞬間に死が待っているだけだ。アハトに手を止めるという選択肢はなかった。

 包帯を巻いて握り込めるような持ち手を作ってはいたが、幾度も力を込めて金属片と石を打ち付けているうち、アハトの手は傷だらけになっていった。ただ衝撃が加わるたびに走る痛みが、裂傷によるものか、寒さによるものなのかもわからない。むしろ、徐々に痛みが鈍くなっていくことの方がアハトには恐ろしかった。

 石と金属がぶつかり合う高い音だけが空間に虚しく響く。なにも知らないも者が見れば奇行でしかない行為をアハトが一人していても、他の誰も反応しない。他の囚人たちは皆、すでに意識を失っているのだ。

 いっさいの反応を示さないものを打ち付け続けながら、胸の中に湧き上がるのは無力感と、馬鹿馬鹿しいことをしているという感情。しかし、そのマイナスの感情さえも摩耗し、必死につなぎ留めていた意識がこぼれ落ちそうになった瞬間。

 アハトの両手から火花が走った。機械的に手を動かし続ければ、火花はその後もこぼれ落ちる。そして、脱脂綿の上に落ちた火花は、ほんの僅かな煙を発した。

 アハトは石と金属片をとり落とし、すぐさま脱脂綿を拾い上げた。震える唇でそうっと息を吹きかけると、ウォータライトから発する光にはない、美しい橙色の炎が生まれる。

「あ……っ」

 指先に感じた確かな熱に、万感の思いと共に小さく声が漏れた。赤ん坊のような火種を、アハトは震える手で人面タニシの殻の小山の上へと落とす。

 ——頼む、燃えてくれ。

 火種が殻の上に落ちていく、ほんの僅かな時間。しかしアハトには、そのすべてがスローモーションに見えていた。

 しかして、祈りは届く。

 火種が触れると、人面タニシの殻は赤々とした色を発しながら燃え、暖かい炎はどんどん大きくなっていく。人面タニシの殻はすぐに燃えて崩れてしまうわけではなく、かといって燃えにくいわけでもなく、火にくべた木炭のように炎を保持し続けてくれていた。かなり優秀な燃料であることが見て取れる。

 炎に向けている体の表面にじわりと染み込むような熱を感じる。あまりの温度差に思わず顔を背けながらも、体ではその熱を感じたくて、距離を詰める。

 そうしてしばらく体を温めてから再度立ち上がり、アハトはまだ辺りに散らばっていた人面タニシの殻のすべてをかき集めた。

 この命を繋ぐ炎を絶やすことは、決してしてはならなかった。先程まで命を脅かし、ただ気味が悪いだけだった星棲生物の残骸が、今や非常に貴重な資源に変化したのだ。

 全ての人面タニシの殻を手元に集めきると、炎の前に陣取って、炎を保ち続けるために少しずつ少しずつ、火の中に焚べていく。

 そうして長い間火の番をしていれば、次第に地底湖を包むこの空間全体が温まっていく様子を感じることができた。暖かさと共に、これでもう大丈夫だという安堵がアハトの身を包む。

 愛おしささえ覚えるほどの炎の揺らぎを眺めながら、いつしかアハトは炎の横で眠りに落ちていた。


「アハト、起きて」

 聞こえたのは、優しい声。

 声と同じ優しい手つきで体を揺らされ、アハトの意識はゆっくりと浮上する。彼が感じているのは、夢と現の境にあるたまらない心地良さだった。

 つい先程まで、アハトはこの星に墜落してから最も深い眠りを得ていた。疲労困憊だった体が、十分な休息を得たことで、完全回復とまではいかずとも十分に動けるところまで蘇っている。

 瞼を開けば、視界の端で燃える炎が見えた。少し小さくなってはいるものの、アハトが眠ってしまっている間も炎は燃え続けていたようだということがわかる。そして、目の前にはシュウの顔があった。

「気がついてよかった。おはよう、アハト」

「おはよう」

 穏やかに続けられた言葉に、アハトもごく自然と挨拶を返す。人類の生存が可能かどうかもわからない未知なる星において、考えうる限り最高の目覚めだと思われた。だが、近くでばちばちと炎が爆ぜる音に混じり、先ほどからずっと啜り泣きの声が響いている。

 泣き声の方へと視線を向けると、想像通りにうずくまった吉野がいる。吉野の横にはこちらに背を向けてかがみ込んでいる螺鈿の姿があり、その体越しに、彼の前に人が横たわっている様子が窺えた。

「エイタが死んだんだよ」

 事実を告げるシュウの声には、なんの感情もこもっていない。だからこそアハトも、その事実を穏やかに受け止めることができた。

「そうか」

 返事は一言。螺鈿にエイタの身が保たなそうだということも聞いていたおかげもあって、驚きはまったくなかった。むしろあの殺人的な冷気の中、エイタ以外の全員が生き延びたことの方が奇跡に近いと思われた。

 しかし、そのアハトの反応は、起こった事態に対する適切な理解ができているものではなく、シュウは困ったように眉を寄せ、静かに首を横に振る。

「アハトにも、自分の目で見て欲しいんだ。こっちに来てくれる?」

 促されてアハトは体を起こすと、導かれるままに歩く。

 螺鈿の前に、アハトの想像通りにエイタの死体が横たわっていた。しかし想像と違ったのは、その様子だ。

 辺りは一面の赤。エイタの喉は真横に切り付けられ、痛々しい断面が露出している。鼻は削がれ、双眸は陥没し、そこに収まっていたはずの眼球が抉り出されてそばに転がっていた。

 顔を痛めつけられている様は無惨そのものであり、誰がどう見ても、自然死ではあり得ない死体の様子だ。

「何でだよ」

 つい漏れた言葉には、アハトの万感の想いが籠っていた。

 エイタにそのすべての傷をつけたのは、眼球の横に置かれている鋭い金属片だということは、状況から読み取れる。その金属片はアハトがポッドの残骸から拾って持ってきたものであり、全員の命を助けた炎をおこすときの火付けにも使用していたものだ。眠りにつくまでは、アハトのそばにあったはずだ。

「出血の様子からいって、エイタは生きているときに、首を切られたものと思われる。襲われた初手で喉を切られたせいで、声は出せなかったのだろう。誰も気づかなかった」

 かがみ込んだままの螺鈿が、押し殺したような声で言う。

 つまり、極寒の中でエイタが死に、誰かがその死体を損壊したというわけでもないということだ。

 エイタは明確に、誰かに殺された。

 医者である螺鈿から、エイタが死にそうだという話を直接聞いていたのはアハトだけだ。しかし、彼が弱っているのは誰の目にも明らかだった。

 たとえこの中にエイタを殺したい者がいたとしても、わざわざ手を汚さずとも、放っておけば良かっただけだ。死にゆくエイタをあえて手にかけ、無惨な姿にするというところに、異常な執着が現れている。

「誰がやったんだ」

 アハトが当然の疑問を口にすると、螺鈿は顔を上げてアハトを見た。彼の顔面は蒼白になっている。

「僕ではない、と、僕は言うしかない。おそらく、全員がそうだろう」

 吉野の啜り泣きはいまだ続いている。

 エイタの死体の様子からして、彼を殺した者には相当の返り血がかかっているはずである。しかしアハトを含め、囚人全員の体は人面タニシの体液で赤く染まってしまっている。様子から犯人を見つけることは不可能だ。

 アハトの脳内に、警戒を促すドライの声が響く。

 囚人たちの中に、イザナミ史上最悪の殺人鬼がいる。

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