五 決断
「たしかにこの体の持ち主は、キミたちがこの星にやってきたときに死んでしまったみたいなんだ」
自分の胸元に掌をあてて体を示し、シュウが話す。
「記憶喪失というのは、嘘なのか。じゃあ、アンタの本当の名前は何なんだ」
唖然としたまま、しかしようやく言葉を紡いで、アハトが問いかけると、シュウはひどく不思議そうに首を軽く傾げた。
「シュウは、シュウ自身が記憶喪失だなんて言ってないよ。ただ、この星に来るまでのことを覚えてないと言っただけ。それに、シュウは元々名前なんて持っていなかったんだ。だから、これからもシュウって呼んでいいよ。シュウは、アハトがつけてくれたこの名前、好きだから」
いつもと変わらぬ様子のシュウに微笑まれ、アハトは狼狽える。
一方、シュウへ対する警戒心を露わにしたまま、螺鈿がまた一歩後退した。
「いまとなっては、そこで嘘をついていたかどうかなんてことは関係ない。僕が知りたいのは、君が何者なのかということだ。名前がなくとも、自分が『何』なのかは答えられるだろう」
「『自分はいったい何者なのか』か。その質問はなかなか難しい気もするけど、そうだな……」
シュウは自身の顎に指先をかけ、しばし悩むような素振りを見せてから、顔を上げた。
ふと、気配に気づいたアハトが声をあげ、洞窟の天井へ向けて指差す。
「螺鈿、あれを見ろ」
アハトの指が示すままに視線を上げた螺鈿が目にしたのは、先ほどから微塵も動く気配がなかった巨大星棲生物が複数本の節足を擡げ、何かを探すように動かしている姿だった。
「ヒッヒィイイ!」
はじめてその星棲生物を目にしたときは悲鳴を堪えた螺鈿だったが、今回は我慢できずに上擦った声をあげ、その場に尻餅をつく。
洞窟の天井に張り付いていた星棲生物の複眼らしき部位ははじめから複雑な色に光ってはいたが、今はその輝きを赤々と強めている。赤光が洞窟内を満たし、周辺の様子が変わって見えるほどだ。先ほどまでが休眠状態にあったのならば、現在は覚醒しきってしまったのだということがはっきりとわかる。
「心配しないで。危ないことはなにもないから。これは、シュウだよ」
壁際から引っ張ってきたまま手にしていた節足を手放し、シュウがゆっくりと両腕を開いて見せた。シュウ自身の動作に連動するように、巨大星棲生物の節足もまた開いていく。それは獲物に飛び掛かろうとする肉食昆虫の姿のようでもあり、舞台上で役者が自己紹介をしているようでもあった。
「これが、シュウ? じゃあ、アンタのその人間の体の方はどうなってんだ」
目の前でなにが起こっているのか、わからないながらにアハトは質問を続ける。しかしどう頑張って抑えようとしたところで、声の震えは止まらなかった。シュウの肩越しに見える星棲生物が恐ろしいのはもちろんのこと、その星棲生物を操っているらしきシュウ自身も、アハトにはもはや人間には見えなくなっていた。
「こっちの体の方は、ただ抜け殻状態になってしまった死体を細胞レベルで動かしているだけなんだ。悪意があって嘘をついていたわけじゃなくて、キミたちと同じ姿で導いてあげた方が、キミたちを驚かせたり、警戒させることがないかと思ってね。結局は、こうしてすべて話すことになってしまったけど」
「細胞レベルで動かすって……その、巨大な体が本体だとして、遠隔操作でそんなことが可能なのか」
「これはシュウの本体だとも言えるけど、これだけがシュウかと聞かれると、難しいところがあるね」
人間の体を持つシュウが悩むように首を傾げると、星棲生物も本体と思しき複眼部分を揺らしてみせる。巨体が身じろぐ姿は恐ろしくもあり、滑稽にも見えた。
「わかりやすく言えば、この星自体がシュウなんだよ。シュウ自身である大地に足をついて、シュウのものである大気の中にいるからこそ、シュウはこの死体を動かしていられている。ここはね、シュウのコア。星の中心部なんだ」
目の前の巨大星棲生物が本体だという話でもなかなか飲み込みにくかったことである。話のスケールがいっそう大きくなったことにより、アハトの中で、何かが限界点を突破した。自分のいる星自体がシュウだとすると、いよいよシュウから逃れることは不可能だ。そう思えば、逆に恐怖感が薄れていく。
ここで、新たな疑問が浮かぶ。
「星自体がシュウで、星にいるから死体を操れているという理論でいくなら、あの白ヒルや巨大ムカデもまた、アンタが操ってたのか?」
堂島が巨大ムカデによって殺された光景は記憶に鮮やかで、それらの星棲生物によって命を脅かされた恐怖は幾度となく感じていた。それらの星棲生物をけしかけていたのがシュウであったとするならば、看過できることではない。
「この星はシュウ自身だけど、星にいるすべてのものを意のままにできるわけじゃないんだよね。天候や気温は外部との関係によって決まるから干渉できないし、この星にいる生物も多くは勝手に動いている。キミたちの体だって、自分の意思で動かすことができる場所もあれば、どうなっているのか、どう動いているのかさえ感知できない場所だってあるでしょ? 内臓の一部の機能を止めてみろと言われてできるかい? それと同じだよ」
「つまり、俺たちをあえて危険な目に合わせていたわけではない、ということか」
再度アハトが問いかけると、シュウは強く意思表示を示すために大きく頷く。
「当たり前だよ。シュウは本当は、キミたち五人全員に生き延びてもらいたかったんだ。できる限りのことはしてきたつもりだったんだけど、シュウは人間の生態についてわからないこともあって、全員をしっかり守れなくて、ごめんね。だけど、二人がここまで来てくれて嬉しい。ここは気温の変化もほとんどないし、シュウが守ってあげるから。これからは、危険なことはなにも起こらないって約束するよ。キミたちに必要な栄養は、シュウがつくったこの水を飲んでくれれば、すべて賄えるから、飢える心配もしなくていい」
この水、とシュウがする説明に合わせて、洞窟の天井から伸びてきた巨大星棲生物の節足が二人の目の前に突き出される。
その先端からポタポタと滴り落ちる雫を眺めてから、アハトは再度シュウの人間としての体の方を見た。人間の体はシュウの本体ではないと頭では理解したが、人の姿を見ていた方が本人と対話できている感覚がした。
「アンタの目的は何なんだ。どうして、この星から見れば不法侵入者でしかない俺たちを助けようとする。アンタ、言ってたよな、俺が死んだら困るって。あれ、どういう意味なんだ」
アハトからの質問に、シュウは微笑む。
「だって、キミたちが三年間生き延びれば、たくさんの人が住んでいる、イザナミっていう宇宙船がやってくるんでしょう?」
至極当然のことのようにされた返答に、悲鳴をあげたときから放心し続けていた螺鈿がいっそう目を剥いた。
シュウは自身の胸に掌を当てて話を続ける。
「この体の中に、データを発信しているデバイスが埋め込まれていることはわかってるんだ。これがブリンクっていうんだよね。だけどブリンクは一度死ぬとスイッチが切れちゃうのか、心臓を疑似的に動かしてみても再起動はしなかったんだ。きちんと信号を送り続けるために、キミたちには生きていてもらわないと困るんだよ」
螺鈿は深く俯き、震える声を漏らす。
「僕たちを餌に、より多くの人間を誘き寄せるため……ということか」
「その言い方だと、なんだか人聞きが悪いかも。だってキミたちにとって、なにも悪いことはないでしょ? 人間は長いあいだ、人間が住める星を探していて、それがここにあるんだから。シュウは、人間がこの星に住んでくれて構わないと思ってるんだよ。みんなここにおいでって、呼ぼうとしてるだけ。アハトにも、螺鈿にも、生きていて欲しいだけ」
シュウが語り終えると、それからしばらくの間、あたりに沈黙が満ちた。
シュウの話した内容はたしかに、一聞すると人類にとって、そしてアハトと螺鈿にとって不利益はないことのように思える。しかし言葉を額面通りに受け取って、『ではそれで良いか』とすべてを受け入れられるものでもなかった。
「信用できない。イザナミを呼び寄せようとしている理由にも裏がありそうだ。この水だって、僕たちに本当に無害かどうかもわからない」
螺鈿はそうはっきりと言い切ったが、声はなおも震え続けていた。この空間は適温に保たれているにもかかわらず、彼の体の震えは止まらない。自分の存在ごと、得体の知れないシュウの手中に握られている現在の状況が怖くてたまらないのだ。
自分と目を合わせようともしない螺鈿の様子に、シュウはどこか寂しそうに表情を曇らせた。
「シュウの言葉が嘘じゃないと証明することは難しいな。ただ一口飲んでもらえたら、この水が安全で、これを飲んでいれば生きていけるってことは、きっとわかってもらえるよ。この水が安全であれば、シュウが二人を大切にしたいんだってことは、信じてもらえるでしょ?」
シュウの言葉に合わせ、そこから垂れる雫を口にすることを勧めるように、節足がさらに近くへと伸びてくる。
その瞬間、螺鈿は節足から逃げるように大きく体をのけぞらせた。
「飲んだ瞬間、もしかしたら僕たちは自分の意思を奪われ、シュウの眷属のように使役されてしまう可能性だってあるだろう。そうなったら……僕はもう、抵抗ができない」
「抵抗って、なにをするつもりだ」
この場において、シュウと二人の間に圧倒的な力の差があることはすでにわかりきっている。今更なにを抵抗するのかとアハトは短く問いかけたが、螺鈿は返事をしなかった。
またしばし沈黙が続いたが、シュウは小さく息を漏らし、静かに告げる。
「追い込むみたいだから言いたくなかったんだけど。シュウが二人のために出しているこの水以外に、キミたちが飲んだり、食べたりできるものは、この星には存在しないんだよ。キミたちが生きていくには、これを飲むしかないんだ」
アハトと螺鈿の二人ともが、ハッと息を呑んだ。アハトがすぐさま問いかける。
「存在しないって、どういう意味だよ」
「オアシスの水も、ここにある大量の水も、シュウたちが過ごしていた洞窟の奥にあった地底湖の水も、本質的には同じものなんだよ。その水が人間の体にとって毒なのであれば、この星にはキミたちが飲める水は存在しない。それに、星の生き物は、皆オアシスの水を飲んでるんだよね。キミたちに毒となる水を飲み続けている他の生き物を食べることもできないだろう?」
「俺がオアシスの水を飲んで倒れたときから、アンタはこの星にあるものは全部、人間には飲めないってわかってたのか? わかってて、俺たちにあるはずもないものを探しに行かせてたのかよ」
アハトが語気を強めると、シュウはまた地面に視線を落とす。
「それは、ごめんね。だけど、シュウがキミたちと同じ人間だと思ってもらえていた方が、色々と話が早いと思ったんだ。実際に、ここに来るまではそうだっただろう?」
そこからシュウは顔をあげ、何とか自身の主張をわかってもらおうとするかのように、早口で説明を始める。
「でもね、さっきも言ったとおり、二人が心配することはナニもないんだよ。この星には人間の飲めるものがないってわかったから、シュウはキミたちのために、特別にこの水を作り出したんだ。キミたちの体に毒となる成分を濾しとっている、と考えてもらえればいいかな。その毒の元になる成分は、この星の空気に多く含まれていてね、どうも水分と結合すると毒になるみたいなんだけど。ボトルに詰めたりすると、せっかく濾しとった毒素がまた含まれてしまうから、シュウから直接飲んでもらうしかないんだ。でも、これさえ飲んでいたら、ずっと健康でいられるから」
「なるほど」
説明が終わると、螺鈿が短く告げた。シュウは、ようやくわかってくれたかと、今までになく明るい表情を浮かべ、螺鈿を見る。
その瞬間。
螺鈿は、手にしていた金属片を自分の喉に押し当てていた。それは吉野が研ぎ、隠し持っていたもの。洞窟から移動してくるときに、ウォータライトの他に唯一持ってきたものだ。
「僕は、ここで死ぬ」
「螺鈿、やめろ!」
咄嗟にアハトが叫んだが、螺鈿は聞く耳を持っていない。
「僕は自分の欲を抑えられないどうしようもない外道だけど、人類全体を危険に晒すのならば……僕という存在を得体の知れないものに利用されるくらいなら、自ら死を選ぶくらいの矜持はある」
螺鈿がアハトに向ける表情は酷く晴れやかだ。それは、揺るがぬ覚悟の現れだった。
「この星に来て生まれてはじめて、僕は僕自身を振り回していた罪深い欲望から解放された。アハト、君から向けられる信頼が、君が信じてくれる『螺鈿』という医者としての善良な僕でいることが、とても心地よかった。ありがとう」
アハトは思うように動かない体に鞭打ち、螺鈿の元へ向かおうともがく。しゃがみ込んでいたところから腹這いになり、匍匐前進とも言えない無様さで必死に進む。
「これが、僕の『抵抗』だ。最後の選択は、君に委ねるよ」
螺鈿の声と体は、そして喉に金属片を押し当てている腕は最期まで震え続けていた。
だが金属片を自分自身の体に深々とめり込ませる力は強く、皮膚が裂かれはじめた瞬間から鮮血が霧吹きのように吹き出す。
「螺鈿!」
広い地下空間に響く叫び声はアハトのものだけだ。
螺鈿の体は倒れ込み、そこに広がっていた地底湖の水面に受け止められる。派手な水音と水飛沫のあとには、彼の首から溢れ続ける真っ赤な血が、ゆらりと複雑な模様を描きながら水の中に広がっていく。
はじめの衝撃による波がおさまった後は、螺鈿の体を水面に浮かべながらも、水は徐々に静けさを取り戻していた。彼は苦しむこともなく、すでに事切れている。
アハトは喉の奥から低く呻き声のようなものを漏らしながら、なんとか螺鈿の立っていた水際まで到達する。しかし、今更螺鈿を救い出すこともできず、その場に脱力することしかできない。
アハトの目にはぽつぽつと涙が浮き、目尻へと滴って溢れ落ちた。
「アハト」
小さな声で呼びかけてから、シュウはアハトの肩に手をかけ、うつ伏せになっていたその体を腕の中に抱き起こした。
「どうして、螺鈿のことを止めなかった。アンタにならできたはずだ」
涙が一雫頬に垂れるのをそのままに、アハトは真っ直ぐにシュウの顔を見上げる。
「たしかにやろうと思えば、螺鈿のすることを止めさせて、自由を奪ったままシュウの水を飲ませて、ただただ生きながらえさせることもできるとは思うよ。だけどシュウは、そんなことしたくないんだよ」
シュウは眉を下げ、ひどく複雑な表情を浮かべていた。指を伸ばすと、シュウはアハトの頬に垂れた涙の筋を拭う。
「アハトも、螺鈿と同じように死にたい?」
静かに問いかけられ、アハトは刹那の間の後にはっきりと首を横に振る。
螺鈿が自死を選んだ理由は、アハトにもわかる。シュウが人類へ害なすことを目的としていた場合、自分を餌にイザナミを引き寄せられれば、イザナミにいるすべての人間を危険に晒すことになる。イザナミをこの星から遠ざけておくには、自分が死ぬしかない。
この星にはシュウが提供してくるものしか自分の摂取できるものがないとわかった時点で、意思や身体の自由を確保できている今死ぬという選択は非常に合理的であり、あまりにも潔い。
しかし、アハトが質問の回答を迷うことはない。死にたいわけがないのだ。
この星ではいままで、あまりにも大変なことが何度もあったが、そのたびに必死に乗り越えてきたのは、なにをしてでも生きたいからだ。
三年間生き抜けばイザナミに帰ることができる。生きて帰ることことこそが、ドライから下された唯一の命令だった。
たとえ自分が生き残ることがイザナミを危険に晒すことになろうとも、アハトにとっては易々と諦められるものではなかった。
「俺は、生きて帰る」
低く決意の籠った声を発し、手を伸ばす。
アハトが求めているものを察知し、宙に垂れ下がったままになっていた節足が一つ、アハトの目の前へと移動してきた。
関節を曲げながら差し出された節足は黒光りしているが、光のあたり具合によっては僅かに茶色く見える。どうしたってそれは有機物なのだ。湧き出てくる生理的な嫌悪感を押し殺し、アハトは節足を握った。
赤い半透明な雫が垂れている先端部を見つめ、口元へと引き寄せながら、しかし最後の踏ん切りがつかない。
と、アハトの体を支えたままのシュウが囁いた。
「シュウを信じて」
アハトは節足の先端から、至近距離で自分のことを覗き込んでいるシュウの顔を見上げる。幾度もアハトの命を助けたシュウの、いつもと変わらない、曇りのない瞳と視線が合った。
たとえその肉体が、死体を無理やり動かしているだけにすぎないものであったとしても、アハトはそこに、穢れのない魂を感じた。
意を決し、節足の先端に口をつけ、吸う。途端、口の中へ心地よさを覚える程度に冷たい液体が流れ込んできた。
生まれてからレーションばかり食べて育ってきたアハトには覚えがなかったが、それはまるでもぎたての新鮮な果汁のように、どこまでも清々しく、甘い。
一度口にしてしまえば本能的な欲求を止めることなどできず、アハトは自身の飢えと渇きが収まるまで、シュウから与えられる甘露を無心で吸い続ける。
そんなアハトの姿を、シュウは慈愛に満ちた眼差しで見つめていたのだった。
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