第2話 悲しみをやさしさに

 シュヴィリエールは信じられないものを見ていた。くらやみの中、青白くぽうっと光るふしぎな空間に取り込まれていたのだ。


(ここは……?)


 必死に思い出す。


 まず、彼女は騎士たちといっしょに井戸の底の世界を走り回っていたはずなのだ。

 それが、そもそもアデリナだけが行方不明になってしまった。シュヴィリエールはそれを追うつもりで先に駆け出した。


 しかし、竜がいた。

 ノエリク・ガルドの亡霊がいた。

 命からがら逃げてきた。

 それで──


(アデリナは、どこなんだ?)


 シュヴィリエールの疑問に答えるかのように、急に空間が歪んだ。

 つかのま空気が澱んだような感触につままれると、粘りを帯びてまとわりつく。身動きすることもままならないような違和感がぐるりと身体と顔を覆い尽くすと、さながら沼の底に沈んだときの感触を連想するような、ゆっくりした下降をたどった。


 あっと驚くいとまもない。

 開いた口からゴボゴボと漏れる泡が、はからずも彼女のいる場所を暗示した。


 だが、彼女はこの空間の性質を早くも理解していた。

 空間が満たされているならば、そこは意識の持ち方次第で泳げるということだ。


 そしてシュヴィリエールは泳げた。

 彼女は騎士の装備もそのままに、満たされた水の世界に泳ぐ自我を想起した。手のひらを掻いて抵抗を受ける実体、中空に蹴り出す足が確実に何かを後ろに押し出す力を。


 次第にその想像は意のままに自分のかたちをつくった。

 彼女はそれが祖先から血ともに受け継がれた知識であることをまだ知らない。


 だが、ついにシュヴィリエールは探し求める存在を、ここ〈沈黙もだしの地〉の底に見つけるに至ったのである。


〝……ナ、リナ!〟


 声が、聞こえる。


 ところどころこだまし、反響し合っているが、どこから来る音かはわかった。

 シュヴィリエールは意識したほうに泳ぎだした。腕を開き、息を少しずつ吐く。焦る気持ちがそのまま泡になって吐き出された。


 彼女が見つけたのは。

 よく見知った少年と少女だった。

 黒い髪。金色の髪。

 長いツヤ。くしゃくしゃの短髪。

 なによりも、同じ青い瞳。


(ルート、アデリナ)


 彼女はふたりの名前を呼んだ。

 つもりだった。


 ゴボゴボと鳴る泡の音が遮った。


 しかし少年は──ルートは、気づいてくれたようだった。

 その深い湖の底のようなまなざしが、ふとシュヴィリエールの視線と交わった。


 どきりとした。

 何か、見透かされたような気がしたのだ。


 そんなことはない、と首を振る。

 ルートが少しずつ近づいた。

 アデリナを抱えて泳ぐようなかたちだ。


〝リナの意識が戻らないんだ〟


 シュヴィリエールは何かを言おうとしたが、結局それは言葉にならなかった。ルートは目を丸くした。


〝そうか。きみは──〟


 ルートはふしぎそうな面持ちになったが、すぐに考えを切り替えた。


〝リナを頼むよ〟


 シュヴィリエールは戸惑った。


〝たぶんきみじゃないとだめだ。だってリナは──〟


 ルートは少し言葉を練っていた。


〝リナは自分のせいでボクたちのお父さんが死んでしまったんだって考えているような気がするんだ〟


 少年はまるでシュヴィリエールの内面を読み取ったかのように言葉をつなげる。


〝虫のいいこと言って、ごめん。でもこれはボクが何を言ったってどうしようもないことなんだ。ボクがお母さんを放って置くことができないみたいに、ね……〟


 ルートは寂しそうに微笑んだ。

 その笑みが、ふしぎとシュヴィリエールの心をきゅっと締め付けた。


 シュヴィリエールにとって、ルートは小うるさいアデリナの傍らで終始考え事をしているような少年でしかなかった。

 だから、こうやって面と向かって何かを喋るということは初めてだった。だが、だからこそ急にこうした感情を向けられることに慣れていなかったのだった。


 シュヴィリエールは俯いた。だが、断ることなんてできなかった。

 そもそも、アデリナを助けようということでは、ふたりの意志は一致していたのだ。


 差し出されたアデリナの身体を、受け取る。ルートは花のような笑みで言った。


〝ありがとう〟と──


 その言葉が風になって。

 シュヴィリエールは。


「…………?!」


 急に自分の身体が、この世界に戻った。

 びしょ濡れになったような、まとわりついているような感触があったが、錯覚だった。彼女たちはまるで最初からそこにいたかのように、くらやみのただなかでふたり抱き合っていた。シュヴィリエールが必死にしがみつくように、アデリナを保持していたのだ。


 靴音がする。

 振り返ると、龕燈カンテラの光──エレヴァンだ。


「見つけたか」


 シュヴィリエールはうなずいた。

 ゆっくり抱えていた腕を放す。

 その傍らで、イリエとクリスタルはアデリナの容体を診た。


「ん…………意識がないことを除けば、怪我もなさそうだけど」

「ちょっとをすりゃ、目を覚ますんじゃねえかな。ホレ……」


 そう言って、イリエは手の甲で軽く頬を叩いた。

 ところが、出し抜けにアデリナの目が開くとそれはヒトとは異なるものの眼で見つめ返された。


 は? という暇もない。

 まるで超人的な動きでアデリナの身体が反射すると、イリエの首を締めに掛かった。うおっ、と言いながら男はギリギリのところでアデリナの攻撃をしのぐ。


「お、おい。寝起きの機嫌が悪いのはわかったけどよ! どういうことだ?!」


 シュヴィリエールはハッとした。


「脱魂状態だ! アデリナの霊魂はまだその肉体に戻ってない!」

「なんだと?!」

「おいおい。そりゃないぜ!」


 押しのけるで精一杯なイリエに、クリスタルが補助に回る。だが、二人がかりでもアデリナの身体を止めるのが関の山だった。

 そこにエレヴァンが割り込んで、ようやく羽交い締めにできたといったかたちだ。


 しかしそこから先がない。

 ここはくらやみで、彼女を取り戻す術がないのだった。


(どうすれば……)


 脱魂状態の肉体に、悪霊が取り憑くことが少なからずある。これに対抗するにはそもそも魔除けの装備を身にまとって保護する以外にないのだが、すでにときは遅かった。

 では悪霊が憑いた状態で、どうやってそのものの霊魂を救済するかというと、まずは悪霊を祓わねばならない。そのための支度はそれなりの儀式を必要とする。

 あいにく人が足りない上に、それをする安全圏がなかった。


 だが憑かれた肉体はそれだけで激しい損耗に見舞われる。

 一刻を争うほどだ。

 こうしている間にも、アデリナの肉体は文字通り心身蝕まれ、意識が回復しても、自在に動かすことすら難しくなるだろう。


(どうする……どうすれば……)


 このとき、シュヴィリエールにあることがひらめいた。


(イチかバチかだ)


 シュヴィリエールは顔を上げた。


「エレヴァン、墓場に戻ろう」

「しかし……!」

「もう少しこらえてくれ。アデリナを助けられるかもしれない」


 一同は、ときおり轟音の響くくらやみを、音から逃れるようにして、井戸の入口に戻っていった。

 ロープを登るのは一苦労だった。シュヴィリエールが真っ先に登ると、もう一度それを垂らし直す。その後が問題だった。大のオトナが三人がかりで押さえつけてやっとのアデリナを、ロープで縛って登らせるのも大変だった。さいわい重さはシュヴィリエールのちからでギリギリどうにかなる。しかし、その後暴れるなかを、シュヴィリエールがひとりで持ちこたえなければならない。


「わかっているのか」とエレヴァンは訊いた。

「だがこれしか方法がない」とシュヴィリエールは言った。


 彼女は自分の考えを言った。

 騎士たちは、もう博打だと思った。

 だがしないよりはましかもしれない。

 結局やることになった。


 そしていまがある。

 シュヴィリエールがようやくアデリナを引き揚げて、縛めから解放したとき、アデリナだったそれは少年騎士に襲いかかった。すかさず取っ組み合いになる。背中から井戸のある斜面を転がり落ち、ぐるぐると下っていった。


 やがて、共同墓地の空間に身を踊らせる。シュヴィリエールはとっさに自分がアデリナに覆いかぶさるように位置どった。何度も訓練したことが無意識にそうさせたのだ。

 おかげで狙い通りにいった。

 犬歯のあたりを牙のようにむき出しにして、アデリナがおぞましい表情を浮かべる。なにがそこにいるかはわからないが、下級の悪霊だろう。でなければ、こうも知性のない動きはしないものだった。


「アデリナ、お前が何に囚われているかは知らないし、わからない。だが、見なければいけないことから目を逸らすな! お前の父は立派だった。私の目から見ても、お前の父ノエリクは凄い人だった……そのことを、誇る気持ちがもしかけらでも残っているならば、その誇りにかけてでもいい……お前が囚われている悪夢から一刻も早く抜け出すんだ!」


 そう言って、シュヴィリエールはすばやく身体をかわした。その身体のあった場所を、開かれたシーナ・悪夢ラ・ギグの本体が持つ、見開かれた眼があった。目が合う。しかし魅入られた当人は、すでに悪夢にとらわれていたのだった。

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聖剣と魔女のミュトロジア 八雲 辰毘古 @tatsu_yakumo

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