第2話 取引と密談

 リナ、と呼んだ声は、震えていた。

 少年ルートはただ、ふたごの姉がゆっくりベッドに寝かせられるのを見守る。


 とたんに、鐘が鳴った。

 城市の寺院が刻む、〈時の鐘〉──


「朝四課の鐘……月と日の巡りからすると、リナが術式を行使してから三刻ほどが経過したことになる」

「いったい……なにが」

「さあね。わたしにも黒魔術がなんなのかはまだわからないことだらけだ」


 ただ、と付け加える。


「いまのでなんとなく、リナが術式を行使した肩代わりがだというのはわかる」

「そんな……」


 ルートはたじろぐ。


「いったい、リナの身に何が起きてるんですか?」

「以前診察したときの感覚でいうと、特に異状はない」

「以前?」

「おとといもそんなことがあった、と思うがどうだろう?」

「あッ……」


 ルートが思い出したのは、ヘルマン司祭よりふたごの父ラストフの不在を告げられたあの日のことだった。

 遠い過去のように思える。

 しかしそれは、まだ二日前のことだった。


「あれは瘴気にやられたときの後遺症だと思ってたのに」

「わたしもあの時はそう思っていたさ。ただいまこうしてみると、どうも違うみたいだ」


 引き続き脈を取り、呼吸を確認する。

 問題なし、とガーランドは診断を下す。


「少なくとも、ただ意識を失っているだけ……のように見える。血流が悪くなったわけでも、皮フに激しい変化があるわけでもない。ただ眠っているような感じだが──前はどれくらいで目を覚ました?」

「えっと、半刻もしないで起きてきました」

「じゃしばらく寝かせるほかにないかな」


 ガーランドは椅子に座り直した。

 ルートは不安げにふたごの姉を看る。

 その目。青い目が。

 あらためて、青年を目の当たりにした。


「さっきの話、続けてください。黒魔術が奇跡の引き換えに、何を奪うのか」

「そんなに複雑な話じゃないよ。魔法はどこまでいってもわたしたちが心のどこかで深く信じている〝法則〟に縛られている。例えば、火は水に弱いだとか、闇は光を前に退く、だとか──あるいは『とびきり強い力を得るには代償が伴う』とか、ね」

「…………」

「なぜか、は問わないでほしい。少なくともわたしたちの先祖は、ものすごく優れた権能ちからを前にすると、ヒトの手には余るものだという考えを抱いたみたいなんだ。でもその力を欲してやまなかった。だからかつて、いにしえの時代、人間は生け贄をささげ、富と繁栄を神々に約束するように祈ったんだ。これは、その名残なんだよ」

「ではリナは、何を犠牲したんでしょう?」

「それがわかるなら、よかったんだが」


 あいにく君たちは変わらず記憶喪失のままだ──とガーランドは言った。


「それに、そもそもあの時初めて使ったのか、前からそうだったのかもわからない。謎だらけだ」


 とはいえ、とガーランドは続ける。


「黒魔術に関わった人間が、真っ当な死に方をしたのは見たことがない」


 ルートは静かに息を呑んだ。


「だから、わたしは黒魔術を濫用する人間は止めたいのさ。異端審問官は市井だとむやみやたらに人を虐める仕事のように言われる。もちろんそういう魔術をヒステリックに嫌う人もいるから、まちがいじゃない。けど、わたしはだれかを助けたいと思ってこの仕事している」

「……すみません」


 だしぬけにルートは謝った。


「ボク、あなたがお父さんとお母さんを一方的に悪者扱いしてると思ってた」

「…………」


 それは違うよ、とガーランドは内心で反論した。

 あえて口には出さなかった。


「まあ。ラストフは──ノエリクのゆくえはわかってない。そのことは今は考えないようにしよう」

「はい」


 おもむろにガーランドは立ち上がった。


「買い出しに出掛けてくる。ルゥも疲れているなら休んだほうがいい」


 こくり、とうなずく。

 少年の物憂げな表情は、朝日差し込む木窓からすっかり影を落としていた。



     †



 〈ルリツバメの泊まり木〉亭をあとにすると、ガーランドはあしたの市が立つ東側の市区に足を向けた。


 叙事詩圏の城市まちは、たいてい市壁に囲まれている。街道沿いの主要な交易拠点を、魔獣や盗賊に襲われても大丈夫にするためだ。

 しかし街が栄えると壁のなかの住居が足りなくなり、増設が必要になる。結果、歴史が長い城市ほど壁が込み入っていて、壁外区がにぎわうのだった。


 ガーランドの道中は、まさにその城市タリムの歴史の皮を一枚一枚剥がしていくかのような、喧騒と混雑の雨嵐だった。

 金物通りの行き交う声。

 商人の獣車が通る音。

 教導会の告示人が焦って宣告する魔獣発生の通達。動揺するひとびとの、口からあふれだすうわさと憶測、そして怯え──


 尾行つけられているな、と感じたのは寺院前の小広場を通り過ぎたあたりだった。


 第三市壁の内側、城市のただなか、石畳みの床が途絶えて草花が芽生える。

 川が見える、空き地。

 そのような場所に、クチヒゲヤナギが小川のせせらぎにひとり淋しく立っていた。


 風に揺られている。

 その小道をくだって、ガーランドは。


「そろそろ出てこい」


 ひと声かける。


 だが相手は出てこようとしない。

 草の茂みひとつ、揺らがない。


(なら先手を打っても構わないが……)


 魔女結社のものだろうか? しかし──

 違和感が、ゆっくりとまぶたに覆い被さって、視界を険しくする。


(これは敵意、ではないな)


 気配からそう結論づける。

 では。やはり。

 ガーランドはとっさに振り向き、単眼鏡モノクル越しに対象を見据える。


「やめろって。でおれをるな」


 ようやく、当人のお出ましだ。


「デニスか」

「そうだよ。やれやれ」


 ガーランドよりもやや歳を重ねた、無精ひげの男がヤナギの陰のように歩み寄る。

 ゆらり。ゆらり、と。

 風のひと吹きで倒れてしまいそうに。

 デニス。そう呼ばれたその男は、ガーランドの間合いに入る。おもむろに口を開いた。


「これはただの業務連絡だ──フェール辺境伯が昨夜未明、ここタリムを中心に長期の魔獣防衛戦線を張ることを決定した。もう半日くらいしたらお抱えの騎士団がやってくるだろう。本陣の設営から、寝食の配備まで、各地に伝令が駆け回ってるよ。お前さんの報告が信頼されてるようで何よりじゃないか」

「〈イドラの魔女〉の情報は?」

「もちろん伝えてある。だが、辺境伯いわく〝そっちは任せる〟とのお達しだった。〝部外者が口出ししてもやりづらいだけだろう〟とも、イヤミを言われたがね」


 まったく、とデニスはにやけ笑いを浮かべている。


「向こうは専門が魔獣退治、で、こっちの専門は魔女狩り。そういう分業ってことだな」

「だが〈エル・シエラの惨劇〉以来続く界嘯かいしょうの案件は、作戦行動中の黒魔術の介入も少なくない。用心したほうがいいはずだ」

「まああの辺境伯が無策というわけじゃあないだろう。きっと方便だ。おれたちを泳がせて、本庁の考えを読もうという魂胆ハラなんだろうさ──」


 聖櫃せいひつ城を頂点とするじょけんの秩序は、見かけによらず複雑怪奇だった。


 まず〈聖なる乙女〉を奉じる教導会。

 彼らは聖典『神聖叙事詩』を通じて教えを広め、叙事詩圏の精神的な柱を築いた。何よりも聖櫃城をしろしめす王族こそは、〈聖なる乙女〉の末裔すえである。そこを念頭に置くと、教導会がかたくなに信仰を守る理由は言わずとも知れたものだった。


 次に聖櫃城へ忠誠を捧げる領主たち。

 かつて彼らは一国一城の主だった。俗に〝暗黒期〟と呼ばれた時代のことだ──地域の豪族であったり、下剋上げこくじょうをしたりで領国を持つに至った彼らは、当然のごとく兵力を保有していた。特に騎獣にまたがり、戦場を自在に駆け回った戦士は〝騎士〟と呼ばれる。それがいつしか、主君に仕える美徳のつわものとして知られるようになったのは後世のことだった。しかしなにはともあれ聖櫃城の名の下に集う領主たちは、叙事詩圏の安寧あんねいを守る軍事的な柱をも担っているのだった。


 この両者のあいだで交わる〈聖なる乙女〉とその一族は〝領主たちの領主〟あると同時に〝教導会の信仰の根幹〟でもあった。


 聖櫃城とはまさに。

 聖と俗──その交錯こうさくの華舞台。


 むろん聖櫃城に君臨する王室直属の騎士たちも存在する。彼らは聖堂騎士パラディンとして格別の待遇を賜り、これを束ねる立場として騎士団長が付けられる。

 もっとも領国お抱えの騎士団のおさも、ほんらいは同様の呼び名なのだが、こと〝騎士団長〟と口にする場合はたいがいが聖堂騎士団長のことを指すのだった。


 そしてその聖堂騎士団長トリスタン・ヴァラが聖櫃城の表の顔ならば。

 異端審問機関:星室庁の長官たるオーディン・トルク導師は裏の顔にあたるだろう。


 ガーランドとデニス、この両名の所属するのはオーディン導師の側だった。

 とはいえその配下にはさらに複数の部下があり、ふたりは末端中の末端に過ぎない。


 爵位としては上々の「辺境伯」にありながらも、結局は辺境を統べる一領主でしかないフェール辺境伯──

 その当人にとって、星室庁の動き方は、どんな末端でもそのまま聖櫃城のまつりごとの動静である、といっても過言ではなかった。


 興味がないと言えば嘘になる。

 宮廷の勢力図はつねに領主たちの関心の的であったのだから。


「なるほどな」とガーランド。

「ノエリク失踪については、奴らも勘付いてるみたいだった。まあ、このあたり一帯の臣民たみくさの、名付けの帳簿を管理してるのも辺境伯なわけだから、へたな下手人げしゅにんを想定するより、共犯グルだったと考えたほうが無難かもな」

「捜査の線は確かに交わる。僻村いなかの鍛冶師ラストフが、〈エル・シエラの惨劇〉の当事者だったことを思えば、今回の界嘯案件も単純な結社の攻撃とは限らんわけだ──」


 黒魔術をもって国を滅ぼす──

 そんな野心はかつてどの異端結社にも存在し得なかった。


 だが結社〈イドラの魔女〉は、かの事件において唯一をもって、その重罪に問われている。

 叙事詩圏の秩序の、その根幹に攻撃を加えた不届きものとしてである。


 ところがガーランドとデニスの直属の上司は、結社を利用して何者かが政争を起こしたのではないか、という見方を崩さなかった。


〝たかが魔術使いの集団が王権を壊してどんな利益があるんだ〟──そう、言うのだ。


〝もう暗黒期とは違う。王権が安定しているいま現在で、王権を破壊して奪うことの益は薄いはずだ。であれば、これは最初から叙事詩圏の混乱を招くために仕組まれたものか、でなければ混乱に乗じて利益を得るためにあえて起こされたか。そのどちらかだ〟


 どちらだろう──まだガーランドには大局が計りかねていた。


「まあ、その辺はいずれわかるさ。とにかくお前さんは、ノエリクのガキどもからあまり目を離すんじゃないぞ」

「それは、だれの判断だ?」

「長官どのだ」

「……まさか」

「そのまさかでな、報告を受けて直々に決を下されたらしい。お前が思っているより、物事はよく見られてるし、目まぐるしく動いているんだよな、これが」

「──わかった」


 ガーランドは城市タリムの〈時の鐘〉がまだ鳴っていないことを確認し、足早にその場を立ち去ったのだった。

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