第10話 つむじ風を抱きしめて
ガーランドとヴェラステラの格闘は、思いもよらず激戦となった。
閃く白刃を、面白おかしくすり抜け、ひらりと
さながら死線のダンスといったところか。
ガーランドが夜に蝶々をとらえようとする少年のように、児戯めいて見えてしまう。
ところが。
そのさなかに、かえす刀で伸びる白刃が、もう一枚。
ガーランドの喉笛に進んで、危うく回避の憂き目に遭う。
「さすがに見られてますわね」
ヴェラステラの持っていた仕込み杖が、ついにその牙を剥いた。
ガーランドはより一層警戒を強めた。
その時だった。
彼らの戦いの背後から、突如
「──ッ?!」
男と
糸。
赤い糸。
それも、無数に張り巡らされた──
中空を、交差し、乱れ飛び、
そのまっただなかに。
赤く輝く宝玉が、あった。
夜露
否。逆なのだ。
すべては少女の指先から、始まっていた。
「うそでしょ」
魔女の声は続く奇跡にかき消された。
張り巡らされた赤い糸が、突如として
宝玉がしぼむ。が、反対にもう一個。
出来上がる。かたどられる。
少年の肉体の上に。
浮いて、それはあった。
心臓の拍動が聞こえる。
どこか子守唄をうたうように。
温かくもあり。
柔らかくもあり。
あるいは。
怒りのように激しく。
苛立ちのように刺々しい。
かたちが、生まれた。
突き立った白刃と、十字架のごとき黒と金の柄。無数の糸が茨となってまとわりつき、装飾となって彫り込まれた。
それが。そのすべてが。
水面から浮かび上がるように。
少年の
「あれは」とガーランド。
少女は剣を手に取った。
糸が弾ける。
霧散し、凝集する。
おもむろに、文字が浮かんだ。
血溝として刻まれた古代文字。
不気味なうわごとのような、言葉の数々。
そして構える。
少女の青い瞳は、右目だけ五芒星の輝きをまとっていた。
まっすぐに、魔術の本質をとらえて。
離さない。
携えた武器は、否定の意志の
「なんで、なんでよ……」
涙ぐんだ声が、ヴェラステラの口からこぼれ落ちた。
「
唐突ににらんだその目もそのまま、ヴェラステラは敵対する相手をふたごに変えた。
とはいえ無視されて何もしないガーランドではなかった。不意打ちを試み、魔女の動きを止めようとした。
だが、甘かった。
ヴェラステラの全身は氷の塊であるかのように凍えて、冷たい霊気に包まれていた。触れたとたん、ガーランドは怯み、逆に凍傷に侵されそうにすら、なった。
そこに、回し蹴りが絡みついた。さながら鞭打つように、
これで、魔女は少女に集中できた。
「死んじゃえ」
どうもうな表情と、振りかざした仕込み杖の刃がおそいかかる。
迎え撃つリナの剣は、瞬く間に白刃を交差させて、力を
ヴェラステラは体術の限りを尽くし、少女を傷つけようとした。
しかしリナは──身体に刻み込まれたあらゆる教えが、直感として動いて、積み上げてきた過去を甦らせていく、その烈しい渦を泳ぎきっていた。
あぶくのような、記憶の数々──
言葉にならない
〝足取りが遅いぞ〟
声だ。
〝退がるな〟
父の、これは。
〝あえて踏みとどまれ〟
言葉だった。
〝そこを右下に沈んで──払い上げろ〟
記憶の溝をなぞるように。
木剣がぶつかり合う音を、もう一度目の当たりにしようとするように。
技は、決まった。
仕込み杖が遠く跳ね飛ばされた。
腰が砕けたように座り込むヴェラステラ。
かえす刀で、リナは剣尖を突きつける。
「……満足したか?」とリナ。
ねめあげる赤金のまなざしには、どことなく幼い
「答えてほしいことがある」
「…………」
「母さんは、エスタルーレというひとは、何をしたんだ?」
「裏切り者よ。組織の。結社の」
「…………」
「でも、わたくしにとってはかけがえのないひとだったわ」
リナは、どこか茫然としたまま、応えた。
「残念だったな。もう母さんは死んでる」
「いいえ。生きてるわ。ただ、どこにもいないだけよ」
「……?」
一瞬、理解が遅れた。
その隙を突いて、ヴェラステラは空気をつかむ仕草をした。
くしゃり、と。
まるでそこに覆いがあったかのように。
空間がゆがんで、おのれの陰影を丸ごと消し去ってしまった。
「あッ!」
「まだあきらめたわけじゃないわ。エスタはあなたたちとともにあるから──」
声のする方を追いかけようとした。
しかし見えない壁のようなものにぶつかり、跳ね返されてしまった。仰向けに飛びすさり、受け身を取る。
そこに。
「その剣で叩き切れ!」
ガーランドの怒鳴り声──それに従った。
すかさず。一閃。
ぱりん、と何かが割れる音がした。
どこかで聞いた。
懐かしい感触がする。
(なんだっけ……なんだったっけ……)
鼻を抜ける匂いがほとばしる。
瘴気の香りと、それをかき消す花の匂い。
まるで守られているかのように。
つむじ風が鷹揚に、歩み寄った。
〝リナ、リナ……思い出して〟
振り返った。
そこには。
(……母さん?)
否。ルゥがいた。
ただ、赤い宝石のような瞳をしていた。
〝せめてどうか、忘れないでいて。あなたが持っているのは《鍵》──閉じた世界を、もう一度開くための〟
白い花片が散る。
青い蝶々が群がる。
そして、金の柄の白刃を掲げて。
そのすべてが幻影として、星空に溶けた。
つむじ風が、少女アデリナの傍らを、温かくも、残念そうに遠ざかろうとしている。
〝リナ、リナ……アデリナ〟
何度も何度も、名を呼ばれる。
神聖古典語で、〈
〝ルゥ、ルゥ……ルート〟
そしてふたごの弟。かれは〈
このふたつの名前を、ともに授かって。
ふたりはこの世に生まれてきた。
たったそれだけのこと。しかし重要なことを忘れてしまっていたなんて。
「ちきしょう、なんだってんだよ」
泣き笑いの表情が、図らずもアデリナの顔に浮かび上がった。
それはわずかに瞬き数回のうちに現れては、ほどけるように消えた。
手を伸ばす。
剣をにぎっていた、その手を。
何もないその場所にかざして、にぎる仕草をした。
何もなかった。
あるわけがなかった。
ただ、そこに白い花片のひとひらを、手は探りあてていた。
長いあいだ、夢を見ていた気がした。
それはとてもはかなく、美しい幻──まるで
だが、それは夢ではなかったのだろう。
ただ過ぎ去ったことだけが明白な、むなしい後ろ髪。その痕跡を、
(もう出かけるよ、父さん、母さん)
さよならは、まだ言いたくなかった。
だから無意識にこう言い換えた。
いってきます、と。
振り返った。そこには、満身
アデリナは近づいて、少年の寝顔を軽く蹴った。
「おい、おきろよ。ルゥ」
「ん……」
目を開いた。
その色は、深い湖の青だった。
「魔女は?」
「いなくなった。でもまた来ると思う」
「そっか。じゃあ、行かなきゃね」
「うん」
ふたごの背後に、ガーランドが歩み寄る。
その目は険しい。
とがめる色が宿っている。
「……言いたいことは山ほどあるが、ひとまずはタリムへ急ごう。話はそれからだ」
「わかった」
うなずいた。
彼女はまだ生意気な小娘でしかなかった。しかしその足は歩き出していた。騎士になる。その夢に向かって、ずっと。ずっと。
†
「あーあ。まさかあれが娘の手に渡ってたなんてね」
盛大に独りごつのは、さきほどまで激戦を繰り広げていた魔女ヴェラステラだった。
彼女はいま、遠巻きに三人が城市へ向かうのを眺めながら、物思いにふけっている。
そこに。
足音が、ゆっくりと迫っていた。
「イシュメル
名を呼ばれたその女は、誰しも初見でギョッとするに違いない。
紫水晶の瞳と、褐色肌。かつては豊かな銀髪であっただろうその頭部には、刈り込んだ痕がその名残りを見せるだけで、ほとんど禿頭といっても差し支えないほどの無機質さ。
おまけに体格も大柄で、男も顔負けの
そのイシュメルは、土のうのようなものをかついでいた。ゆっくり降ろす。そこにはユリア婆の安らかに眠った遺体があった。
「かわいそうに」とヴェラステラ。
だがイシュメルは淡々と続けた。
「ヴェラ、しくじったのか?」
「歯に衣着せずに言うと、そうなります」
「それほどか」
「いえ。聖剣が、子供の手に渡ってました」
「ほほう」
目が細くなる。まるで宝玉でできた針のように、それは鋭い。
「となると、われらの計画にも差し障りがあるだろうな」
「そうでしょうね。ただ、ことは余計に複雑になってしまいましたわ」
「まあさほど違いはあるまい。きみか、あるいはあの子供たちか。それに──」
──もうひとり。聖剣の主人となるべき人物を忘れてもらっては困る。
イシュメルが放った言葉は、だれの耳にも届かず、ただ虚空をただよっていった。しかしこれは確信だった。予言でもある。
「ことの成り行きを、あえて見守ろうではないか。ヴェラ。そのうちきみの望む未来の糸も手繰り寄せられるかもしれん」
どうもうな、肉食獣のような笑みが、くらやみの空の下、ゆっくりと顔を覆った。
月はいまや目醒めていたのだった。
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