第9話 氷月の乙女、ヴェラステラ
顔面にかかった魔術刻印。
そしてなにより、携えた杖。
「〈
「ふふ。あなたさっきからそれを説明していたのではなくて?」
イタズラっぽくほほえむ。
それが、場をゆっくりと冷やして、まるでシャーベットでも作るかのように。
冷徹な、突き放した。
そんなまなざしに、一行は晒された。
さながら捕食者を前にした小動物に同じ。
射すくめられ、警戒し、縮こまる。
それから身構えて──
戦うしかない、と。
確信が場を満たした。
「お前さんたちは裏木戸からお逃げ」
ユリア婆がこそっと伝えた。
ふたごが振り返る。
ガーランドはうなずいた。
「でも」とルゥ。
「いいんだあよ。もうどうせ、わたしの
そっと笑む。
忘れられないほど、優しい笑顔だった。
「ばあちゃん」とリナ。
ただ、寂しそうに眉をしかめた。
それだけで、リナには充分だった。
「行くよ」とガーランド。
ふたごの手を引き、
それを見送ったまま、ヴェラステラは目を細くする。
「ねえ、いいの? わたくし、そんじょそこらの魔女とは別格なのだけれど」
「わたしもねえ、そんじょそこらの魔女だけど年季が違うもんでねえ」
おもむろに差し出した手のひら。シワだらけのたなごころから、無数の
飛び出す。
跳ね散る。
あふれ出る。
何か言葉を吐き出す間も無く、家屋は一個の結界と化したのだった。
「走って!」
ガーランドはふたごを連れ立って、荒れ果てた村へと駆け出した。
シシ垣を尻目に坂を下り、空回りする水車小屋をも通り過ぎ、家屋の群を、寺院の廃墟を、石塀の隙間を。
すり抜ける。
後にする。
ふたごは精いっぱい走った。
走って。走って。走って……
ルゥが息切れるころには、村の裏木戸から外に出て、開かれた世界に飛び出していた。
「まだ行けるかい」
「…………」ぜえぜえと息を吐く。
「おぶるか」
ガーランドはリナを見た。
「リナはまだ行けるね」
「うん」
「よし」
そして三人は、もとい、二人は。
たそがれから夜の世界に逃げ出した。
赤。
血染めの夕日が落ちるその
紫。
天空に一番星の覗き穴を開けて。
青。
空気が次第に明るい闇に包まれる。
星々はただ傍観していた。
我関せずと。
白々しく、されど夜空を飾る。
そして濃紺が舞い降りて。
月。
山の端からねぼけ
それだけが、かれら三人の逃避行、その目撃者のはずだった。
「そろそろ街道に出る」
道なき道。
けものの小道は車輪の
そのまま平野の道に合流した。
馬車道。近隣の集落ではそう呼ばれた。
轍の跡も残る、この道を、大まかに西に向かってたどっていくと、城市タリムがある。
メリッサをはじめとする、村落があてにしている辺境の経済拠点──ここまで到達できれば、市壁のなかだ。
そこまで行こう。
そういう話になった。
「ここからは歩きます」
ルゥは、その後ガーランドに礼を述べた。
「……ところで、黒竜はどこに行ったの?」
ふと。少年は歩き出してから疑問を言う。
「そういえばそうだったな。昨日の夜から起こったことをかんたんに話そうか」
ガーランドが語ったのは、メリッサの村長やヘルマン司祭がいかに混乱していて、そのために誤った判断に陥ったのかの事後報告に等しかった。
「
「でも、ガーランドさんは教導会寄りなんでしょう?」
「さあてどうかな。ひとをそうやって決めつけるのは、よくないね」
どうやら触れられたくない過去があるらしい。ひと言で〝異端審問官〟と言っても、考えることがみな一様とは限らないようだ。
「とにかく、〈不入の森〉の近辺まで出かけるところまでは確認した。だがわたしは途中から別件があって、ことの顛末を見届けたわけじゃない。わたしが知っているのは、黒竜とリュウノコケラの一群が空を飛び、村のほうに向かったこと、それらがまた、はなれ山のほうに飛び立ったことだ」
「…………」
ルゥは納得がいかないようだった。
「戻った?」
「そうだ」
「でも、ボクたちは竜が森から出ていくのは見たけど、戻ってくるのは見てない」
「古代種の竜は魔法を使うからね。他の近縁種ともちがって、あの種族だけは魔法の力で空を飛ぶと言う話だし、まだよくわかっていないことが多い」
だがルゥは、この話にどこかうさんくさいものを感じ取った。
「何か、隠してませんか」
「…………」
「それも、ボクたちには言えないような、何か」
「ルゥ」急に声が冷たくなる。
それに少しだけ
「世の中にはね、あえて知りにいかなくていいものもたくさんある。もちろん、きみたちも知らなきゃいけないことはあるだろう。でもね、触れなくていいこともあるだよ」
「──〈エル・シエラの惨劇〉の真相、とかですか?」
ガーランドは振り返った。
その目は、月の影に隠れて、どうなっていたのかわからなかった。
沈黙。
そのさなかに、リナの耳が迫り来る危機を察知した。
「なんかが息切らして走ってくる」
そのひと言で、ガーランドはけものが二匹、遠くから駆け寄ってくるのを目視した。
「
使い魔の一種だ、と説明された。
「て、ことは……」
「──そういうこと、でしてよ」
馬車道を一里ほど進んだあたり。
そんな場所に。
魔女は月明かりを浴びていた。
「月の光っていいわよね」
だしぬけに、言う。
「温かくもないけど、冷たくもない」
「……」
「ヒトを欺くにはうってつけ」
ぱちんと指を鳴らす。
それで世界の色が変わった。
「……ッ!」
ほんの一瞬、何かが彼らの空気を覆った気がした。
光がふわっと包むような。
水がうっすら身にまとわりつくような。
違和感。
肌がチリチリする。
緊張が張り付く。
「ア空間だ」ガーランドがぼやく。
彼らは見た。
世界が二重の膜に覆われているかのように、景色が屈曲している有り様を。
「どこかにこの境界をつくってる依代があるはずだ。その外側に出ないと──」
「無理よ。だって」
ヴェラステラはせせら笑った。
「この月のどこに逃げ場があると言うの?」
魔女ヴェラステラは、君臨した。
ここがわたくしの玉座の間であるということを。
指し示した。
「〈氷月の乙女〉、その二つ名はただの吹聴された詩ではないのでしてよ」
ガーランドは肚を決めるしかなかった。
前方には魔女ヴェラステラ。
後方にはその下僕たるけだもの二匹。
「ふたりとも、道の傍に逸れて」
まずは後方を警戒する。
どうもうな、唸り声。切らした息を小刻みに震わせながら、赤いまなこが、剥き出しの牙が、毒々しい唾液が、彼ら三人を逃すまいと強い意志を見せている。
四つ脚に見えるそのけだものは、猟犬のような肢体をしているが、その実態は煙のように変幻自在で、肉体を持たない。
厄介な魔獣──使い魔だった。
この手の魔獣を仕留めるには……ガーランドはその知識を駆使して考える……聖別された武具でしかその本質をとらえることができない。だから黒魔術の産物を取り扱うには専門の知識と訓練が要る。
かれは訓練も教育も受けてきた。ただ、それを実現するための手段が、心許ない。
ふところから抜き放った、短剣。
柄には聖別の証たる宝石を埋め込み。
月明かりを前に白刃を輝かせる。
この刃の間合いで、あのけだもののふところに飛び込むのは、さすがに無謀だった。
おまけにあの魔女の動きまで、警戒しなければならない。
つ、と冷や汗がこめかみを駆け抜けた。
明らかな不利。絶体絶命。
そんな言葉すら脳裏に過ぎる。
「さて、どうするつもり?」
にやにやするヴェラステラを、
そのためには──
ガーランドはふところからもうひとつの秘技を繰り出す。
横一閃に、腕を拡げ。
そのさなかに散るは、粉。
月の光に照らされて。
大袈裟にも見えるほど、きらめいた。
まるで透明なカーテンを引くかのように、自身のすがたがゆらぎ、ガーランドは。
二人。
鏡写しのそのたたずまいを見せる。
「幻術、ね」と、ヴェラステラ。
「あいにく黒魔術はそちらだけのものとは限らない」
写し身のガーランドが先行し、
けものはすかさず飛び出した。
待ちくたびれた。獲物だ。
そう叫び散らすように。
大口を開けて、咬みつこうとする。
だが。
写し身のガーランドは腕を盾に、これを庇った。まさに餌を遣るようなもの。
しかしその牙は、獲物をとらえない。
すり抜ける。
空を切る。
そして、落ちて行く。
喉笛を。
もうひとりのガーランドが、どこからともなく現れて、切り開いた。
血のような、黒い煙のようなものが、吹き出して、一気にそれは途絶えた。
二匹目の
しかしその判断は遅かった。
出し抜けに蹴りを喰らい、中空に身を躍らせる。腹を見せて仰向けに落ちた、その瞬間を手練れの男は逃さない。
すかさず仕留める。
たった刃渡り一尺もあるか、ないかの短剣で。
手短に済ませた。
瘴気の香りをまとった煙が吹き上がる、その光景を後ろにして。
ガーランドは、魔女の前に立った。
ところが──すでに。
ふたごの黒い髪の片割れが、魔女の腕に羽交い締めにされたまま、立ちすくんでいた。
「ルゥ!」
リナにはあっという間のできごとで、手も足も出すいとまがない。
身構えるガーランド。
ほほえむヴェラステラ。
「お前たちは、何を望む?」
「何度も同じことを言わせないでよ」
魔女はふきげんそうに、指をルゥのこめかみに突き立てる。
そのまま、まるで泥人形をほじくり返すかのように指を押し進めた。
痛みはない。
触覚も。
けれども。
逆にそれが気持ち悪い。
ルゥは自分が一個の書物になって、無造作に開放され、読み解かれているような、そんな感触を抱いた。
意識の奥底に向かって、指が指し示すベクトルを感覚する。鋭く細く呑み込まれていく言葉の渦、螺旋階段、飛び散る獣皮紙の記憶の数々──その、底の、底に。
光。
何かを、心の眼が、とらえた。
「みいつけた」とヴェラステラ。
その指が、摘もうとする。
とたんに。
ガーランドが不意を突いて、ヴェラステラの作業を中断させた。
中空を舞い、さながら操り人形の糸を切るかのように。
ヴェラステラは飛びすさり、ルゥは力なく崩れ落ちた。
あわててルゥを助け起こすリナだった。
「ルゥ、ルゥ、しっかりしろ!」
虚ろな目──その焦点の定まらない目つきに、リナは既視感を覚える。
(これは──あの時)
茨文字の書物を開いた、あの時と。
似ている。
いや、同じなのだ。
直感がよぎった。
あの時閉じた本を。
今度は開かなければならない。
(なんだっけ、茨の秘密は──)
おのれの手を血に染めて。
リナは自分の親指を、歯に掛けた。
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