第4話 アの世とコの世のあわいから

 夢のなかでは、リナはまだ幼い少女のままであった。

 目を開けているつもりでも決して見えることのない闇──〝無〟を一枚の絵に表せたならきっとそうに違いない。そのような暗黒のただなかを、リナの意識はうつらうつらとさまよっていた。


 何も見えない。聞こえない。にもかかわらず、歩みを止めない自分の足の裏の感覚だけが研ぎ澄まされていて、生々しい。


 それを自覚したとたん、急に全身に鳥肌が立つような悪寒に囚われた。ぶわと風が足元から吹き上げたかと思うと、暗幕がめくり上がるかのように景色ががらりと一変する。


 まさに一面の花、花、花──


 どこまでも透明な青空へと白い花片はなびらが飛び散っていく。それを目の当たりにしながら、リナはこの風景を何度か見たことがあるのを思い出した。

 しかしなぜ、どうしてなのか。あるいはどこのどんな場所だったのかは、記憶の底からよみがえってくることはない。


〝……ナ、リナ〟


 どこか遠くで、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。

 とても懐かしくて、泣きたくなるほど嬉しい気持ちが込み上げる。そんな声だ。


 頭ではわかってる。これは夢だ。錯覚だ。


 だから目を開けることさえできれば、きっとこんな景色は砂の上に描いた落書きのようにあっけなく消え去る。そして二度と同じものは戻ってこない。そのはずだった。

 しかし直感はそうではなかった。リナの意識はまさにその声のありかに向かって、足を踏み込む。一歩、一歩のその感触が、夢のなかでありながらまさに現実でもあることを裏付けようとする。


 少女はいつしか走っていた。


 花が散る。白いかけらが舞い上がる。雪のように、綿毛のように、ふわりふわりと少女の周囲を夢見心地に柔らかく取り囲む。

 一度走り出すと止まらない。たおす花々が増えれば増えるほど甘美かんびな香りがそこかしこから立ち昇って、少女の心をとりこにした。


 そのままゆっくり沈むかのように──


 やがてたどり着いたのは、青空を貫いてなお抜きん出ようとするほどの巨大な一本の樹だった。高みを臨めば青空に溶けて消えてしまいそうなほどで、その根元は塔の礎石そせきのようにどっかりと存在感がある。さながら根の一本一本がひとつの幹だったのだ。

 声の主はその太い根の一端に腰掛けるようにたたずんでいた。


 女である。


 黒くて美しい髪が風にたなびく。ほのかに垣間見える、力強い光を湛えた青いまなざしを目の当たりにすると、身が引き締まる思いがする。けれどもそれは嫌な気分ではなかった。むしろ暖かく、懐かしく、ほこらしい気持ちにすらなるものであった。

 ところがここまで近くに迫ってもなお、少女にとってその人物がなにものであるかを思い出すことができなかった。


〝憶えてなくてもいいのよ〟


 女はさえずるように言葉を発した。


〝いまはまだ、知らなくていい。わからなくたっていい。けれども、どうかこれだけは忘れないでいて。《鍵》はあなたのなかにある。だから、その時が来たら──〟


 風が、強く吹いた。

 少女はとっさにき返す。しかし女は構わず話し続けた。


〝──どうかその時が来ないことを祈っています。しかし近いうちに来るでしょう。だから、決して迷わないで〟


 さらに風が強くなる。そして花片の波しぶきとともに少女を押し飛ばした。

 尻もちをつくかと思った。ゆっくりと背中から落ちていくその感覚は、しかし足の裏が離れたとたんにどこまでも際限なく続いた。


 まるで果てしない水底みなそこへと沈んでいるようだった。

 ゆっくりと落ちてゆくなか、少女は無数の泡沫うたかたのような白い花片と、その向こう側にある、十字架にも似た樹の枝の影を見た。


 りいん、とベルの音がする。そして──


 目が、醒めた。


「あ、れ……?」


 寝ぼけまなこをこすって見えるのは、天地が逆さまになった我が家の光景だった。

 どうやらベッドから落ちたらしい。よっ、とひと息で上体を起こす。彼女はふたごの弟がいつのまにかいなくなっていることに気が付いた。もう一度目をこする。しかしこれは現実のようだった。思わず頭を掻く。


 食卓に向かう。しかし朝日が差し込み、誰もいないことがはっきりわかるだけだ。

 かまどの火も落ちている。灰も冷たい。納屋も見たが気配すら感じない。仕方がないので裏手に回って汲み置きの水で顔を洗う。


 そして、ぱしゃっと顔がぬれた瞬間、何かが弾けたように思い出が戻ってきた。


 ところがそのひとつひとつは火打ち石の、火花のなかに映る壁画のようなものだった。


 振りかざした木剣と打ちのめされた体験。泥と砂を噛んだざらざらした感触。そして見上げたところにいる金髪碧眼へきがんの男──かれは片腕で、リナのことを無感動なまなざしで見つめている。

 「どうして」と彼女自身が口にしたような気がした。しかし男は答えてくれなかった。ただ二、三、小さく口が動いた以外に彼女の記憶には何も残ってなかった。


 この一連の回想は、あまりにも取り留めがなく、見たとさえ言えるか危ういほどにおぼろげなものでしかないのだ。


 リナは目を何度もしばたたかせる。

 それからグッと強くまぶたを閉じると、もう二度と戻ってこないものを思い出そうとして、虚しい想いを噛み締めた。


「ちきしょう、なんだってんだよ」


 もう一度顔をぬらす。最後にもうひとすくいすると、そのまま口元に持っていき、寝起きののどを潤した。

 ごくりと気持ちの良い音を立てる。そしたら先ほどの不愉快な追想のことなんか、もはやどうでも良くなっていた。


 と、そこに、足音がやって来る。

 見れば、ルゥが戻ってきていた。


「おはよぉ、メシは──」

「もう。さては寝ぼけてるね?」


 腰に手を当てる。ほおをふくらませて呆れ果てている様子は、懐かしい面影があった。


「なんだっけ」

「昨日のことは憶えてる? ボクたちこれからお母さんのお墓参りに行くんでしょ」

「あー、そうだった」

「早いうちに出ないと、そうでなくても今日は忙しいのに」

「メシは」

「あとで」

「えーっ!」


 げんなりするリナに、ふたごの弟は容赦がない。


「ボクはもう準備できてるから。あとはリナだけだよ。早くしてよ」



     †



 シシ垣を出てすぐの山道には、すでに何人かが出歩いた痕跡があった。はなれ山のほうに向かって伸びている──


「やっぱり界嘯かいしょうが起きてたのかな」

「でもそうだとすると、アタシはともかく、ルゥが大丈夫じゃなかっただろ」

「うーん。たしかに」

「オマエそういうとこ落ち着いてるよな」


 ルゥははなれ山のほうを見た。

 それから、もうひとつの分岐に目をやる。


「共同墓地はあっち。だから、魔獣がいてもまだ大丈夫……だと思う」

「根拠薄いな」

「いまやっとかないとどうせ後悔するよ」

「そうだな」


 リナが先導し、ルゥがあとに続く。その腕にはひこばえで編まれたかごがあった。白い花がいっぱいに摘まれている。

 〈忘れじの花〉、とそれは呼ばれていた。聖典が記したその花の、正しい名前はだれも知らない。ただ薫りがある。教えがある。死者に供える花はこれにしなさいという、記述がハッキリ刻まれてある。


 だからなのか、そうなのか。

 とにかくお墓参りならこの花を持って行こうと、そう言ったのはルゥだった。


 寺院の裏手に位置する細い道をたどると、シシ垣の陰にひっそり隠れるようにしてそれはあった。白い岩石を磨いて作られた、台形のいしぶみが等間隔に並んでいる。その周囲ではタケダカソウやクチヒゲヤナギの樹々が、そよ風に揺られながら寂しい音を奏でていた。

 ふたごの母エスタルーレの墓は、この片隅にひっそりと立っている。通り一遍の墓石と同様、台形に削り取られた白い岩石にられた墓碑銘。〝ラストフの妻エスタルーレ、ここに眠る〟と、それだけ書かれていた。


 叙事詩圏では墓石の手前に献花台があるのがふつうだ。それもかたちが独特で、川を渡る舟のような形状をしている。

 それというのも、聖なる伝承いいつたえにいわく──


 死者の日に〈忘れじの花〉を流れに乗せよ。水面みなもがその白き花片はなびらにてうずもれ、〈沈黙もだしの地〉へ続く飛び石となるように。さすればの地に旅立つ霊魂みたまたちが、ふるさとをおもい出すだろう。花は〈忘れの河〉に架ける橋に他ならない。その水にくるぶしを浸すことなく、彼らが河を渡らんがため。

 

 教導会の名のある神学者は、〈忘れの河〉が人間の輪廻転生うまれかわりをうながすための場所である、と考察していた。

 一説によると前世のけがれを落とすため、またある説に基づくと来世への渇望がその水を欲すると言われている。しかしこの河の水は、死者のたましいが生者の世界をおとなうことを例外なく妨げた。生きているものしかこの河を渡ることができないというのが、この伝承の残す要点なのである。


 花は、この死者のたましいと生きている人間とを結びつける、かすかな絆なのだった。


「……なんもないね」

「そうだな」


 花を供え、手を合わせる。祈りの掌をつくり、黙ったまま、心で三つかぞえた。

 けれども、ただ墓石は墓石だった。小憎らしいほどに白い岩石の台形が、そこにある。リナはその表面をさすりつつ口を開いた。


「こういうときってさあ」

「うん」

「なんかこう、もっとさあ」

「うん」

「もっと面白い感じになるよな。騎士道物語とかだと」

「……うん?」


 ルゥの目が、「なに言ってるのコイツ」と──「て思ってんだろ! わかってんだよ!」物語るより前に、リナが口を挟んだ。


「父さんが意味深に残したメモ書きが、これで終わりなわけねーだろ。なんかあるって思わねーのかよ」

「いや、べつに……」

「はー想像力。仕事して」

「なんだろう。リナに煽られるとイラっとするねえ」

「あンだと?」

「ハイ、ナンデモアリマセーン」


 ルゥは首を傾げつつ、〈忘れじの花〉を供えた献花台に触れた。とくに他と違いがあるようには思えない。ありきたりな、ザラザラした肌触りの──


 いや、違った。


「なんか切れ目みたいなのがある」

「おっ」


 リナがかがんで横から見る。たしかに献花台の真下に、他と違ってくぼみがある。一線を画したような横一文字。おもしろ半分に強く押してみると、力は要ったが、かすかに動いた。そのまま強く押す。途中で引っかかったのを察知して、これは蓋だと理解する。

 ふたりがかりでよいしょと持ち上げると、そこにはまたしても極彩色の箱があった。今度は鍵がかかってない。恐る恐る開くと、今度は一枚の獣皮紙が収まっていた。


 読む。


「トリスタン殿。下記アデリナなる人物の技能・身体能力を鑑み、当人の希望に基づいて従士試験への推挙を致します。我が名の追憶ありしかば、畏れ多くも保証人となってくれますようお願い申し上げます。


 署名:ノエリク・ガルド──てだれ?」


 いや、それよりも……とリナは慄える。


「トリスタン、てあの聖堂騎士パラディンヴァラのこと?」


 トリスタン・ヴァラは、叙事詩圏でもかなり名の知れた人物で、聖櫃城仕えの騎士たちを統べる役割を果たしている。騎士団長トリスタン──この名に関連する騎士道物語を、語らない詩人は世間知らずとののしられた。

 それほどの存在との結びつきを、暗示するこのノエリクなる人間はだれなのか。


「しかも、なんでアタシのことを?」

「んー。お父さんの、知り合いの、知り合い?」

「いやわけわかんねーし」

「でなければ偽書だよ。こんなもの」


 ルゥは腕組みして考え込んだ。


(でももし、この推薦状と、あの茨文字の手帖が両方ともほんものだとしたら?)


 余計に訳がわからなかった。それと父が行方不明になったことがつながるとするなら、きっとここが手がかりになるはずなのだが。

 しかし考えている時間の余裕は、決して与えてもらえなかった。


 初めはリナだった。突拍子もなく身構えて近場に何か得物がないかと手探りする。ようやく見つけた長い木の枝を片手に、墓地の奥にある暗がりに目を凝らした。


「いた。魔獣だ」


 そのひと言で、ルゥは思考を断念された。

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