第5話 古井戸の果つるところ

 魔獣──その存在は聖典では人類の原罪と結びつけて考えられている。


 またの名を、〈原罪の怪物〉。しかしこの呼び名は煩わしく、いつしか簡潔に〝魔獣〟とのみ知られるようになっていた。

 魔獣は、けものとは別物だ。第一、動物とは限らない。


 例えば──

 蟲。その形態を取ることもある。


闇蜘蛛オドラデクだ」


 リナが身構え、視線の先にとらえているそれは、まさにそう呼ぶのが相応しい。


 黒いガスの塊が球状にまとまり、そこから細長い脚とでもいうべき円柱が、ねじれて、折れ曲がり、うごめきながら、カサコソと、墓地に向かって移動している。

 眼があるのか、すらわからない。

 かすかにゆれる赤い輝き。それだけが、黒の球の表面に沿って四方八方に動きまわる。さながら糸車が糸くずを絡めて空回りしているかのように、活動する。


 それが、闇蜘蛛オドラデクという魔獣の特徴だった。


「やっぱり界嘯かいしょうは起きていたんだ」とルゥ。

「でも、まだ良かった。コイツが出ている程度なら被害はまだ浅い」

「わからないよ。闇蜘蛛オドラデクだけなら、リナの記憶が飛ぶほどの瘴気なんて出てこないはずなんだから」

「だとしたら、アイツを叩きのめして出どころを調べてみたほうがいいんじゃないか」


 リナは不敵な笑みを浮かべる。


「よそうよ。ガーランドさんや村長を呼ぶほうが先決だよ」

「ばか。ここからはなれ山までどれくらい掛かると思ってるんだ。アタシたちがおとなを探してるあいだに手遅れになっちまうほうが、よっぽどありえるハナシじゃんかよ」


 言いつつも、リナは興奮していた。持ってる木の枝をいまかいまかと手のひらで遊ばせている。

 ああまた始まった──と思うルゥだった。


(リナってば、どうしてこうケンカっ早いところがあるんだか)


 その昔、ルゥをいじめる悪童と素手で殴りあい徹底的に打ちのめしたことがあった。


 しかしあれは弟を助ける気持ちよりも、持て余したうっぷんを晴らす絶好のチャンスと意気込んでいるかのようだった。

 騎士になりたい。

 そう豪語した気持ちに、あこがれや格好よさがあるのは違いない。

 しかしそれ以上に、リナは自身の抑えようのないを発散させる場として、騎士というものに夢見ているだけのようにも思える。


「行くぜ」


 だから、リナがこう言って駆け出すのを、見送ることができなかった。


「まってよ。ボクも行くから」

「ん。じゃあ遅れるなよ」


 リナは駆け出した。


 振り回した得物は、しょせんは木の棒。しかし闇蜘蛛オドラデクはヒトをおそうモノではなかった。ただそこにいて、うろつき、ときどき自己防衛で逃げまわる。

 むしろ弱い。

 そう言っていい。

 ちょこまかと、すばしっこく動くわりには、叩くと霧散する。後には黒い煤けた痕しか残らないし、それも日にちが経てば消えてしまう、かすかなものに過ぎない。


 だがこの魔獣は、界嘯かいしょうの居場所を知っているのだ。


 正確にいうと、界嘯が発生した場所の付近に、それに導かれるようにして闇蜘蛛オドラデクが群がる。まるで切り傷からゆっくり血液がふくらんでいくように、それはあふれ出てくる。

 だから、闇蜘蛛オドラデクが出たら界嘯の正確な場所がわかるのだ。


 リナが狙っているのはまさにそれだった。


 案の定、リナのぶん回した得物を恐れてか、魔獣は逃げ出す。

 蹴散らすリナ。

 追いかけようと注意深く追い込む。

 やがて見つけたのは、墓地の裏手にひっそりとある古い井戸だった。

 魔獣はそこに逃げ込んでいる。

 縁に飛びつきなかをのぞくが、そこには泥っぽい底が見えるばかりだ。


「このなか……?」とルゥ。

「みたいだ」

「入れるの?」

「つるべのロープはちゃんとしてる。いけると思う」


 コケラブナ材の桶を底に投げる。

 程なくして乾いた音が反響する。

 もう一度見ると泥のような感じはすっかり消えていた。

 まさか、とリナは思った。

 あの井戸の底にうごめいていたのはすべて魔獣だったのか。


「やっぱりやめたほうがいいんじゃ」

「るっせーなッ。怖気付いたとか言われたんじゃたまったもンじゃないね!」


 すかさずロープを握り、飛び降りる。自由落下と大差ない速度で井戸の底にたどり着く。その身体の使い方は、ルゥにはとうていマネしようがない。

 恐る恐る、しかしほっとけなくて、ルゥもあとからついていった。


 その間ずっと見守っていたリナだった。

 ルゥがようやく到着する頃には、リナの目もくらやみに慣れている。

 じっと見つめ、遠くをまなざす。

 思っていたよりも広い空間が占めている。

黒々とした世界のなかに、かすかな濃淡だけで描かれた輪郭だけがあって、うごめいていたり、こちらの様子をうかがいつつ顫えていたりした。


 リナはニヤっと笑って足音を鳴らした。その場で強弱をつけて井戸の底に反響させる。

 驚き、慄く。

 空気がゆれるだけのかすかな音がそこかしこにぶつかり、くらやみが波打った。


 リナはその変化をつぶさに受け取った。

 聴き逃さなかった。


「あっちだ」


 指す。走った。


 地下空間は村の寺院の礼拝堂と同じか、それよりは広かった。三十人が整然と並んで座れれば満足、といった具合で、祈りの青の日には立って聴くものすらいる程度には窮屈きゅうくつするのが村の日常だった。

 ただ、この井戸の底はたんに水を汲むための水道よりは、もう少しだけ天井が高い。かつ、奥に向かって細長く続いている。


 音の跳ね返りから、ルゥはそう結論した。


 ただ気になることがあった。これほどの空間が村にあったとして、いつのまにそんなものが出来上がっていたのだろう。

 疑問は、くらやみに放り出されたまま返ってこない。


 とにかく走った。

 リナの速度に、追いつこうとした。


 通路が狭くなって、一本道になり始めた。

 そのときリナがおもむろにこう言った。


「これどこに続いてるんだろうな」

「リナ、そろそろ戻らないと」

「そういうわけにはいかないね。ていうか、そもそも出口がどこか、わかるのかよ?」

「…………」


 ルゥは自身の口に指をくわえた。


「わ。汚ね」

「あのね。指を湿らせれば、風が吹く方向がわかるの。それで最低限、外がどっちかは見つけられるでしょ」

「それで、出口は?」

「あっち」


 ルゥが示した方向には、まだくらやみが横たわっていた。

 リナは遠慮なく踏み越えた。ルゥは用心に用心を重ねながら、またいでいった。


 やがて。

 光の差し込む穴が見えた。


 近づく。ヘビカズラがさがって垂れ幕のようになっている。

 めくる。

 くぐる。

 すると、青い燐光を放つ蝶々が飛んだ。

 つかのま視界を覆うかのようだった。

 だが、やがて陽光のもとにかすんで、見えなくなってしまった。


 代わりに。急に明るくなった。

 崩落した天井がある。まるで水底で見る太陽の輝きのようにまぶしく注ぎ込んでいた。


 明るみに晒されたその場所は、シトリゴケが青くす岩でつくられた、さながらひとつの回廊だった。それも聖典が祝う〈聖なる乙女〉の礼拝堂をも連想する。しかしその表面はイワマキヅタが伸び放題で、多年草の草花もそこかしこに彩りを添えていた。

 ヒヨリミスズメの鳴き声が聞こえる。ナキムシクイのさえずりが割り込んでは、アオホツタカの一声で静まりかえった。


 魔獣だけは、気配すら感じなかった。


 回廊をさらに進む。

 奥に、進む。

 ガレキをいくつも乗り越えた。

 そしてその果てに、ふたりは見た。

 目の当たりにしたのだった。

 開かれた場所を。

 樹々に囲まれた、清浄の地を。

 

「…………」


 さわ、さわ、と風がふたごの衣服をやさしくなでている。


 ふたごは言葉を失っていた。疲労のためでもあり、そこで見た絶景のためでもある。

 なにせ一面の〈忘れじの花〉なのだ。陽だまりのまっただなか、白い花片はなびらを波しぶきのように風へ流して、聖域さながらの景色を織り成していたのである。


「こんなところがあったなんてな」

「ひょっとして……」とルゥ。「ここは〈不入いらずの森〉なんじゃないかな」

「え? あの禁域の?」

「でないとこんなすごい場所、ボクたち長いこと住んでて知らないなんてことないよ」

「そりゃそうだけど──」


 言いながら、リナはあるものに気づいた。


 わずかな水を流す小さな川の、その向こう側──そこに、ぽつねんと立つ大きないしぶみがあった。

 近づく。

 ふたごの背丈よりも高い。肩車をすればかろうじて追い抜けるほどだろうか。それにしても立派な黒石でできた作りものであった。


「なんだこれ……?」


 いったんリナは振り返ってから、


「礼拝堂にある、祈りのいしぶみに似てるな」


 あらためて、碑を見る。


「なんか彫ってある」


 顔を近づける。

 さいわい、刻印文字は叙事詩圏で用いられる神聖古典語の一種だった。


「なになに──〝来るべき日に備えて。運命に打ち克つために〟──これって」

「お父さんが書いてた言葉とおんなじだ!」


 ルゥはとっさに、わざわざここまで持ってきた黒い書物を引っ張り出した。そしてその刻印文字をつぶさに観察し、書物の茨文字と照らし合わせて見る。

 読めるかと思った。

 だが、期待は外れた。

 そもそもが筆記体と彫り込み文字だ。

 綴りを比べたところで、同じ意味になるかもわかったものではなかった。


 それでも。

 わかったことがある。


「〝魔女たちの祈りを受け入れよ〟」


 これは〝ほころび〟だ。大人たちがていねいに縫い込んだ世界という織り物。そのなかに生まれた、小さな糸くずのようなほつれ。

 わずかな好奇心で引っ張る、ただそれだけですべてが紐解かれていくかのような──


「〝これは《記憶》という名の書物である。読まれたページは過去として消える。ゆえにわれわれは語り継ぎ、碑文を遺すことにした。過去はまだ開かれていない。この言葉は常に開かれてることを待っている〟」


 ルゥの読み上げたのは、碑文だった。

 しかしまるで鮮明な思い出を手繰り寄せているかのような、確信に満ちた声だった。


 そのまま食い入るように碑文を読み解くルゥだった。

 ところが、リナには全くその内容が入ってこない。


 退屈なのだった。


「あー、もう。またルゥはこれだ」


 リナは何か手がかりが欲しくて、その手を伸ばした。

 碑に触れる。ひんやりと冷たい感触が、じんわりと抜け出る温かいものと入れ替わる。自分という器に注がれた液体を、そっと流し込むように熱が伝わると、急に水が跳ねたみたく碑に力強い脈動が起こったのを感じた。


 とっさに手を離す。

 ルゥがけげんそうに見る。

 が、目を丸くした。

 なんと、碑が青白く光り輝き始めたではないか──


「な、なにこれ」

「ンなもんアタシが知るかよ」


 心臓の拍動のように、ゆっくりと明滅するそれは、まるで生きているかのようだった。

 ふたごは目を瞬かせる。

 なぜ。どうして。

 そもそも。これは何?

 父と母との関係は?

 さまざまな疑問が、言葉のないやりとりのなかで交差し、答えを求めてさまよう。


 ところが。

 その意味を言葉にして問うより前に、全てを消し飛ばすほどの恐怖の咆哮ほうこうがとどろいた。


 振り向く。風が押し寄せ、背筋が凍るような気配が全身を通り抜けた。

 あとから逃げ出すように黒い煙──闇蜘蛛オドラデクの大群が、リナたちのいる場所を避けつつ駆け抜けていく。


 まるで黒い叢雲むらくもに包まれてしまったかのように、波立ち、潮騒しおさいのように引いていく。それに合わせて、地鳴りの音が一歩、二歩、三歩と怠慢たいまんに連続する。

 そしてついに現れた。樹々のはざまからのぞき込んだ、黒いちゅうるいのような眼。


 竜だ。


 それも、魔獣図鑑に載るなかでもっとも邪悪な種──黒竜がそこにいたのだった。

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