第7話 縫い目のほつれた世界

 村に戻らなきゃ──


 その言葉が口をいて出るような勢いで、リナとルゥは来た道を駆け戻った。

 ただ。

 ふたりは石の回廊を走ったが、何度出て行こうとしても森に舞い戻ってしまう。


「くそっ」


 地団駄を踏む。


「ほかに道はないのかよ」

「ダメだよ。さすがに三回もやって、あの井戸の出口に戻れないってのは……」


 焦りが、憤りが、そして苛立ちが。

 のどに込み上げて、腹にちくりと落ちる。


「なら、森に出るしかない」

「……うん。そうだね」


 ルゥは反対しなかった。

 もはや気が気でないからだった。


 そうと決まれば話は早い。


 森に出てから振り返ると、さながらひとつの建物のようだった。白灰色の石積みの壁、尖塔とドーム状の屋根。そこここにヘビカズラとイワマキヅタが絡みついている。

 緑の大聖堂──

 その言葉がお似合いだった。

 ふたごは身の丈ほどの高い石段を登った。

 これは倒れた石の扉に見えた。

 巨大な石造りで彫り込みもある。

 壁画のように描かれた世界もあった。


 しかしふたごはこれを気にする余裕がなかった。ただ前に、森の出口を探して歩みを進めていくほか関心がなかった。

 空は暗雲垂れ込めたような暗さだ。

 リュウノコケラの一群はすでにとおりすぎていた。にもかかわらず、木陰から差し込むはずの光は遠ざかっている。


 ふたごの体感では、いまは昼下がりのはずだった。

 せいぜい日が傾いている程度だろう。

 だが、光はこの地には一切届かない。

 くらやみがそこかしこにうずくまる。

 そのようななかを踏み出した。

 人間ひとりまともに通らない、そのような樹々と下生えの草花を蹴散らしながら、ふたりはあるべき道筋を模索する。


 入会地の雑木林と異なり、この森は全体的に黒の基調が強かった。

 それもそのはず。

 生えている樹々は、オドロハリマツを中心とした針葉樹で、要所要所にヘビカズラ、ツノムグラ、リュウゼンモウといった下生えが足元を邪魔している。


 おまけに。


 踏み固められていない土くれの大地に砂利、岩が絡みつき、シトリゴケがその表面を覆っている。うっかり足を掛けてみようものなら、よほどの反射神経の持ち主でない限り転んで怪我することが避けられない。

 くわえてルゥの藍色のローブが、ここぞというときに低い枝に引っ掛かるのだ。


 あッ、とか、うわッ、とか、そんな言葉を残してよく転ぶ。

 朝露の名残りか、地べたを這うシトリゴケの水気を受けて、頬に土くれが付いて離れない。せっかくの美しい容姿が台無しだ。ローブだってところどころ破けている。ルゥは乱暴に手の甲で汗ごと拭いながら、いらだちを大きく息として吐き出す。


「ああ、もう」


 ついにルゥはローブのすそに手を掛けた。ビリビリに破いて、すねをむき出しにする。さんざんな見かけになってもなお、負けじと歩を進めた。


 いっぽうリナは、進むにつれて、何か思いがけぬ映像めいたものが、意識のうちに往き来するようになっていた。

 道なき道を歩いているはずなのに、なぜか憶えているような気がした。それはルゥの秩序だった言葉よりもなお明確に、手応えのあるものとして、足の行き先を決めている。


 一歩、一歩の歩調にあわせて、自分の中でくすぶる何かがかすかにぜる。さながら風に紛れて聞こえる音のようでもあった。


 それはたぶん、空耳だった。


 リナに確信はない。しかしもし現実のものであればふたごの弟が気づいて然るべきだった。ルゥは気が付かない。ということは、これは昨日から自分の心のうちだけで繰り返されるあの現象に他ならない。

 前まではただの石同士がかち合うような、火花を散らすだけだった思考が、いまやひとつの確かな影を持ち始めている。パチパチと音を掻き立てて、自分の中で熱を蓄えつつあるを感じ取らずにはいられなかった。


 だが、答えはまだ見えない。

 それがもどかしい。

 リナは結論を急ぐため先に進んだ。

 ルゥはもう、ふらふらだった。しかしふたごの姉がさっさと行ってしまうので、負けじと足を止めなかっただけだ。


 そして数刻掛けて、ようやく──


 ふたりは思いがけず、森を抜け出ることに成功した。


 出たところは、あのタケダカソウが生い茂る原っぱ──それを見下ろす小高い場所だ。

 入会いりあい地のはなれ山。

 そこへ向かう道を脇にれ、より奥まったところに進んだそのけもの道。この果てに、ふたりはいたのだった。


「やっぱり」

「ん。でもさ、ここが〈不入いらずの森〉なら、なんで──」


 と、言いかけて、リナは右手に持っていた剣が急に輝きを帯びるのを見た。


「わっ」


 光が弾けて、消えた。

 文字通り、剣ごと消えたのだった。


「ウソだろ」


 手を開き、そして閉じる。


「リナ。それよりも……」


 禁域を示す茨の紐が、ふたりの目の前を通せんぼしている。

 これをくぐって、かれらは先を急いだ。

 足元には、ヒトの足跡がやはりある。

 だが足踏みをしたみたく入り乱れている。

 ルゥはけげんに思った。ただ、それを口にするのではなく、頭の片隅に置いておいた。


「急ごう。村が心配だ」


 坂を下る。タケダカソウのなかを風になって駆け抜ける。

 急報を告げる風だ。

 不穏な空気を運ぶ風だ。

 しかし草花はただ揺れ動き、何食わぬ顔でただ右から左へと無常をうたっている。


 屋根の破れた納屋も通り過ぎ、赤錆を塗りたくったような重い空へと突進する。

 かつてこの道を通ったあらゆるものが、胸のうちに去来した。


 秋口にコケラブナの木の実を食わせるため、藁束を引きずられるように歩んだケヅノシシの群だとか。

 荷車を引いてサトムギを積んで上がった村の農夫たち悪童たちとの、くだらない、どうでもいい会話だとか。


 侮辱だとか。

 からかい話だとか。

 笑ったことも。

 泣いたことも。


 ぜんぶ。ぜんぶ。


(もう少し、いろんなことしてればよかったかもな──)


 そんな後悔の苦味が、のどの奥からこみ上げてくる。

 予感だった。

 だが間違いではなかった。

 ふたごが目の当たりにしたのは、何者かによって破壊し尽くされたメリッサ村の残骸そのものだったからだ。


「そ、んな」がっくりとひざを突くルゥ。


 リナは黙って茫然としている。

 目を見開いたまま。

 惨状を目に焼き付けている。


〝くやしいか〟


 記憶のなかからだれかが呼びかけている。

 いや、父の声だ。


〝お前があこがれた騎士の道は、こうしたことの繰り返しなんだぞ。ただ無力を思い知らされる。できなかったことの数だけが積み上がっていく。そんな道なんだ〟


 そういう父の声は、自身に言い聞かせるようにして、呟いていた。


〝それでも、行きたいのか〟


 問われた。その答えは、自分のなかにあるはずだった。


「行こう」振り返らずに、言った。


 ルゥの手を取る。

 それでしぶしぶ立ち上がった。


「リナは、強いね」


 非難がましい口調が、どんな鋭利な刃物よりも鋭く、心をちくっと刺した。

 リナは応えなかった。ただ首を振った。


「いいから」


 そのままふたりは、破壊の痕跡を指でなぞるように歩いて回った。


 黒焦げて屋台骨だけとなった家屋おもやが並び、畑も無数の異形の足跡によって踏み荒らされている。野菜やサトムギは穢れに冒され、原型を留めないほどにただれている。

 シシ垣は崩れ去り、中身の土と石の破片がごちゃ混ぜになって飛び散っていた。


 瘴気はほとんどない。

 代わりに焦げ臭い刺激臭がただよう。


 ここはもはや集落ではなかった。

 ただ集落痕跡そのものである。


「……あの森で、」とルゥは堪えきれなかったように口にする。「あの森で迷ってた時間が、ボクたちを守ってくれたんだ」


 でも、とルゥはためらいがちに、


「ボクはそれでも、間に合ってたかったよ」

「そりゃ、そうだろうな」


 寺院も同様だった。鐘楼が枝のようにぽっきり折れて、中身を曝け出している。

 青銅製の釣り鐘も、歪んで溶けかかっていた。激しい、一時的な炎に焼かれた証だ。あたり一帯の焦げ臭さと、黒ずんだ景色のなかで、何があったかを容易に連想させる。


 まるで──


 世界に〝ほころび〟を見つけた、あの瞬間がきっかけなのかと、そう自分たちを責めたくもなってくる。

 好奇心が手繰り寄せた、〝ほころび〟の糸くずは、そのまま世界が懸命に縫合し続けた〝縫い目〟をすっかり解いてしまったかのようだった。


 代わりに開いたのは、傷口だった。

 あふれる血に溺れるように、布は赤黒く汚れ、染まり──


 ふたごが見上げた空は、そんな連想を働かせるにふさわしいほど、残酷な赤だった。


「…………」


 そしてふたごは、この悲惨と無常を前に口を開く勇気も、知識も、力もなかった。

 ただ、無力だった。

 過去は取り戻すことができない。

 にもかかわらず、覗き見ることだけが許されていたのだった。


「……ッ」


 ふと。


「……?」


 リナが振り返る。


「何か聞こえる」

「何が?」

「しッ」

「……ッ!」

「ホラ。何か」

「ボクにはわからないよ」

「あっちだ」


 指差したほうは、ルゥに見覚えがあった。


「あれ。ユリアおばあちゃんの家じゃ」

「行こう」


 まるで垂れ下がった希望の垂れ糸に、すがるように。

 ふたりは村のはなれ──シシ垣のぎりぎりに隠された、わずか一軒だけの家屋に走る。


 すると。


 唯一と言っていいほど、無傷で、まともなかたちにそれは残っていた。


「ユリアおばあちゃん!」


 扉を開けて、ベッドに駆け込む。

 まるで喘鳴のような声だったが、そこには老婆がいて、ちゃんとだれかを呼びつけようと必死だった。


 中空をさまよう、シワだらけの手を。

 ふたごの両手で覆った。

 冷たかった。でも、ヒトの温もりがくすぶった燠火のようにゆっくりと拡がった。


「ああ。よかった」


 絞り出すように、口にした。

 ユリア婆も、ふたごを目にして、目を潤ませていた。


「いたんだあね」

「大丈夫。ここにいるよ」


 三人は身を寄せ合うようにして、しばらく静かな安息の時間を過ごしたのだった。

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