あしたのために(その56)お前はよくやってる
早退した日、すぐに帰る気にもなれず、川地は三軒茶屋の書店でずっと立ち読みしていた。
「なに読んでるの?」
声をかけられて本から目を離すと、芦川が立っており、本の表紙を覗きこんだ。
「『悲しみよこんにちは』?」
「はい」
まるで自分の手柄のように誇らしげに頷いた。
「わたしも好き」
芦川が言った。
「そうなんですか!」
「うん、感想教えて」
「はい!」
なんて偶然だろう。川地は嬉しくなって、買うのを迷っていたが、レジに持っていくことにした。
「これ、映画があって。渋谷の映画館で上映しているみたいだから行こうかなって思ってたの」
「そうなんですか」
「今週やってて」
芦川がスマホで検索しだした。スマホを持っていたら、ライン交換したりして、読んだ感想を伝え合ったりできるのになあ、と思った。
「あ、あと一時間後だ」
芦川が言った。
「だったら……一緒に行きませんか」
川地は勢いで、誘った。
間ができた。
あ、また失敗したかもしれない。
恐れ多い提案をしてしまった。どうやって言い訳してごまかすべきか、川地は言葉を探し、あたふたした。
「うん、行きたいね」
おこがましいことをぬかしました、ごめんなさい、と謝ろうとしたとき、芦川が先に応えた。
「え?」
「一人で行くより、一緒に観て感想とか話したい。でも、読む前に映画観ちゃっていいの?」
「はい、行きましょう。ええと、空気感とか、映像で感じるのもイメージ広がりますよね!」
と川地は即答した。
「わたし、まわりに本読む友達いないから、嬉しい」
芦川が言った。
まるでこれは夢じゃないのか。ふたりで渋谷に向かっている。
芦川と一緒に、映画が始まるまでのあいだの時間潰しにと、途中にあった雑貨店を覗いた。
「見てください、ちいかわですよ!」
川地は舞い上がってしまい、まるで子供のようにはしゃいで、目に見えるものを芦川にいちいち紹介していた。
「かわいいよねえ」
「芦川さんはどれが好きですか?」
ストラップ付きのぬいぐるみを手にして、川地は訊ねた。
「わたしは、ハチワレかなあ」
「ああ、サワもんも好きです」
「もしかして、沢本くん?」
急に芦川の表情が沈んで、川地は動揺した。
「サワもん、なにかしましたか?」
川地は訊ねた。
「実は、今日、沢本くんと待ち合わせをしていたんだけど」
「えっ」
どういうことだ?
「わたし遅れちゃって、着いたときには待ち合わせ場所にいなかったの。ほら、沢本くんってスマホ持ってないでしょう」
持っていたら、連絡先交換していたってことか? 川地は持っていたマスコットに力をこめた。そのとき、不愉快な声が聞こえた。
いたいよお!
「は?」
マスコットから声が聞こえた気がした。
「どうしたの?」
「いや、すみません、なんでもないです。でも、サワもん今日学校休んでいたから、大丈夫ですよ」
「そうなんだ。お大事にって、伝えておいて」
「はい!」
ほっとする芦川に、もやもやした。絶対に明日、サワもんを追及しなくてはならない。あいつはなにか裏で変なことを企んでいるのかもしれない。朝に教室で聴いた歌詞だって、もしや。
芦川が店の奥に入っていったとき、これ、買ってプレゼントしようかな、と川地は大それた事を考えた。
急にただの知り合いからプレゼントされたら重いよなあ。
お金があるならフルーツ・オレ奢ってくれよ〜。
耳元で囁かれた気がして、川地はマスコットを落とした。
「まだ買ってないんだから大切に扱えよ〜!」
そう言って、マスコットを拾ったのは。
「中平さん?」
「驚かせてごめんね」
川地にマスコットを渡して、中平は笑った。いつもと雰囲気が違った。影が、というより存在が薄く、どこか弱々しい。
「え、え? なんでこんなところに」
「渋谷くらい、ぼくだってくる。ただ、これまで気合でなんとかやってきたけれど、限界が近いみたいだから、きみに挨拶しておこうかなってね」
「なんの話ですか? 限界?」
「気にしないでくれ」
さっぱり意味がわからなかった。声は、中平から聞こえてこない。頭の奥から響いてくる。どういうことだ?
中平の輪郭が次第にぼやけてくる。
川地は頭を叩いた。
「川地くんどうしたの?」
芦川がやってきた。
「いえ、あの」
中平のほうを向いて、紹介しようとしたら、消えていた。「なんでもないです、行きましょう」
買わないでいいの?
また頭の奥から声が響いた。
「……ちょっと待っていてもらっていいですか」
マスコットを掴んで川地は店に入っていった。
自分は、悪い病気にかかってしまったのかもしれない。こんなこと、ありえない。
会計していると、
「最後に一つだけ」
と声がした。「きみは立派だ」
「中平さん、どこにいるんですか」
すぐそばで聞こえたのに、あんなに目立つ人が、見えない。
「踊りの秘訣は、捧げること。生きていることを祝福すること、それだけだから」
「祝福?」
なにを急に。これまでまったくアドバイスなんてしなかったくせに。それに抽象的すぎてわからないよ。川地は口をぱくつかせることしかできなかった。
「もうひとつ。西河に伝えておいて欲しいんだ」
「なんですか」
川地はぞくっとした。会計をした店員が、川地のことを気味悪そうに見た。
「お前はよくやってる、ほんとうに、頑張ってる。それだけ伝えといて。バイバイ」
気配が失せた。
川地は芦川の元に戻った。
「すみません」
「なにかあった?」
「え」
「なんだか、おばけでも見たみたいな顔してるよ。疲れた?」
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