あしたのために(その4)隠し事なんてみんなあるから
水飛沫がきらきらしている。
温水プールでは体育の授業の真っ最中だった。プールサイドに一人だけ、ラッシュガードを身につけ見学している生徒がいた。
川地は足を伸ばし腿を揉みながら、ぼんやり同級生たちが泳いでいる姿を眺めていた。
「カワちん、大丈夫?」
身体からぼたぼた水滴を垂らしながら、沢本が近づいてきた。
「ん、大丈夫」
「いきなり溺れちゃうんだもん、びっくりしちゃったよ」
沢本が川地の隣に座った。
「足がつるなんて思わなかった」
いつものように飛びこんだというのに、その日は散々だった。
今日の朝、遅刻しそうになり世田谷線の駅まで走ることになってしまった。いつも乗っている電車にぎりぎり滑りこんだ。
混雑する車内で窮屈になりながら川地は探した。
いない。
沿線にある甲洋女子高校の女の子だった。彼女は川地のことなんて知らない。
彼女がいるかと探すようになったのは、二年生になってからだ。あるとき車内で横に立ったとき、彼女が熱心に見ているタブレットを覗いた。
どうやら小説を読んでいるらしい。ついつい画面を盗み見てしまった。
あ、と思った。
川地が昨日読んだ文章がそこにあった。同じ小説を読んでいるのだ。
それ以来、彼女がなにを読んでいるのか気になってしまう。でも、声をかけることはしなかった。ただ、なんとなくだがこの人は、自分と似ているような気がすると勝手に思った。
あの女の子は別の時間に乗るようになってしまったんだろうか、と考えたら寂しくなった。
授業が終わり、みんながぞろぞろとシャワーを浴びて更衣室へと去っていった。
「サワもん、着替え持ってきて」
川地は言った。
「ちょっと待ってて」
沢本は急ぎ足で更衣室に入っていった。
川地はトイレで、沢本がやってくるのを待った。
もう九月も終わろうとしていたが、温水プールのおかげでこの学校では年中水泳の授業がある。もう別に川地がラッシュガードを身につけていても、誰もちょっかいを出してこない。事情があるんだろうな、と察してはいるんだろうが、みんな無関心を装い、とやかく詮索してこなかった。沢本と口裏を合わせていたのに、入学式以来披露することもなかった。川地は水泳のある日は朝からラッシュガードを着て登校し、授業が終われば、隠れて脱いだ。
一年のときの寒中水泳大会と、今年の夏にあった富士登山もなんとか背中を見せず、乗り切れた。週に一度の水泳の授業を、あと一年半我慢すればいい。
小林が入ってきた。
川地は小便器で用を足している小林の後ろ姿をぼんやり見ていた。
背中は広く、しっかり筋肉がついている。サッカー部のボス、
隠し事なんて、みんな持っている。
気になる女の子がいる、ってレベルじゃなく、もっと根源的な、周りに対する負い目みたいなものを誰もが抱えている。
ぼんやりしていると、用を足した小林が振り向いた。
「なに?」
「いや、すごい背中だなって思って。漫画みたいで」
川地は言った。
「べつに、たいしたことねーだろ」
小林は水着を履いた。「なんかさ、ションベンしてから濡れた水着履くと、損した気しねえ?」
「え?」
「いくら振って出しても、ションベンが染みてそうじゃん」
「もうべつに着替えるだけだし履かなくてよくね?」
「たしかに」
小林は少し笑った。「背中、痛くないのか?」
川地はびっくりした。
「背中?」
「やけど」
急にそんな話題を振られ、川地は即答することができなかった。
小林は顔を逸らして、
「どうでもいいけど」
と言った。
「カワちん、お待たせぇ」
沢本が着替えの入ったナップサックを持ってくると、小林は入れ替わるようにして出ていった。
「なんかコバやんと話したの?」
不思議そうにしている沢本に、
「なんにも大した話はしてない」
と答えた。「ちょっとダルいから、着替えたら部室で休もうかな」
川地は個室に入った。
そして、ラッシュガードを脱いだ。
誰にも、見られていないのに、いつだって、誰かに見られている気がする。急いでタオルで背中を拭いて、水着を脱ぐより先にTシャツを着た。
大丈夫、誰にも見られていない。それはわかっている。
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