あしたのために(その6)三悪というより三バカか
「なにが不条理だ」
川地たちは生徒たちが大騒ぎしている廊下を歩いていた。
窓の向こうを見ると、花壇で理事長が黙々と水をやっていた。首にタオルを巻き、麦わら帽子を被っていた。
川地は立ち止まり、その姿を見た。
なんとなくいい風景だ。
校舎で見かけると、いつだって背筋を伸ばし厳しい表情をして歩いている理事長が、草花を前にして顔を綻ばせている。
生徒たちは校内に花が咲き乱れていることを気にも留めない。校舎のあちこちにある花壇のどこかで、かならず花が咲いていることに川地だって最近気づいた。
理事長が丁寧に手入れしている姿を見かけるたびに、入学式のことを思いだした。
「もうみんな、忘れちゃったよね。この学校がどうなろうと知ったことじゃないし」
沢本が言った。
休憩時間ということもあり、教室のあちこちで生徒たちが集まって騒いでいた。
日中はまだまだ暑い。窓は開け放たれていても、教室全体がほんのりと汗臭い。
「いつくるんだろうね、イシハラ」
姿を見たことがないクラスメート、石原ヤスユキの席を見て沢本が言った。
石原は入学式に出席していたという。式後のオリエンテーションで教室に集まるときには勝手に早退していて、それから登校したことがない。
「あ、進路志望書、書くの忘れてた」
沢本がポケットから、くしゃくしゃになった用紙を出した。
「カワちんも、私立文系志望だよね」
「だな」
「じゃ、D組だ、そのまま推薦で一緒の大学だねえ」
かばんのなかにある進路志望書に、川地はまだなにも記入していない。
成績は悪くない。よくもないけれど。このままどこか適当な大学の推薦は貰えるだろう。でも、なんとなく自分の意思とか希望とは違う気がする。先が決まっているってことは、なぜこんなにも、自分のやる気を吸い取ってしまうのか。
教室で好き勝手に過ごしている同級生を見回した。みんな、すでに将来を決めているんだろうか。
男子校というのはどうも、おかしい。異性がいないからなのか、なんだか頭が悪くなっていく気がする。そして門を入った瞬間、恥じらいというものが失われていく。異性のいない場所で、女性の想像する百倍、男は幼稚になる。バカと一言で言い表したら、バカがかわいそうなくらいだ。
かつてのイチ高はどうだったのだろうか。歴史と伝統ある名門校、なんて冗談としか思えなかった。
「そうだ」
川地は立ち上がり、教室の一番後ろの窓際で、腕を組み、机に足を投げだして寝ている小林のところへ向かった。
一瞬教室が静まった。
いつものことだが、川地は皆が注目するのが煩わしかった。
「コバやん」
川地が声をかけると、眠っていた小林の目が開いた。高校生とは思えないギラつきかただ。
「なに?」
「今日、文芸部の集まりがあるから、中平さんがこいってさ」
「りょ」
とだけ短く吐き捨て、小林は再び目を瞑った。
どうせこないに決まっている。それに行ったところでなにか議題があるわけでもない。逆にジュースをたかられる恐れがある。
川地が席に戻ったときには、教室の喧騒も元通りになっていた。
小林とまともに会話ができるのは、川地と沢本だけだった。他のみんなは小林を警戒していた。失言して機嫌を損ねやしないか、とびくついているのだ。
そんなことはない。小林はそこまで制御不能な暴力装置ではない。よっぽどのことがない限り、人を殴るなんてことはない。
体育のときだって、小林の入っているチームが負けたとしても、癇癪を起こしたことなど一度もないし、食堂で食いたいものが売り切れていたら午後はずっと不貞腐れているが、ただそれだけだ。
みんなは、「気を悪くさせたら殴られる」なんて恐がっている。中学のとき、傷害事件を起こした、とか教師を殴った、とか悪い噂が広まってしまっていて、影で同級生たちは『三茶の狂犬』と呼んでいた。
「コバやん、どうせこないよね」
沢本が言った。
「部活したいから入っているわけじゃないから」
たまに三人で並んで歩いているものだから、文芸部の三人は、なにもしていないのに、『イチ高の三悪』扱いだ。小林とその子分AとB。
おかげで川地と沢本も、謎に恐れられていた。
非常に、居心地が悪いけれど、おかげでこの学校生活、まったく舐められることも喧嘩をふっかけられることもない。台風の目に自分たちはいた。中心は静かで穏やかだ。
授業開始のチャイムが鳴り、かったるそうに担任の西河が入ってきた。
ざっと教室を見回してから、
「じゃ、前回の続きから」
まだ喧騒が収まらない教室の雰囲気などまったく気にせず、出席もとらずに喋り始めた。校則に関してはやたらと厳しいくせに、生徒たちが授業を聞かないことにはまったく関心がないらしい。
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