母性の愛情の陰と裏

第23話 うちは「貧乏」だから

 その母親の口癖について、少しまとめてお話したい。

 彼女の人物像を語る上で、この言葉は避けて通れないと思ったから。どこで話にするか悩んでいたが、やっとまとめてやれる状況が整ったので、話しますね。今思うに母親の言葉で問題視せざるを得ないのが、これ。


「うちは「貧乏」だから」


という言葉。

貧乏だから金がない。金がないからいろいろしてあげられない。

つまり、貧乏故にしてあげられることはあまりに限られている。

それでもできる限り「一生懸命」してあげている私に感謝して、

ってか?


 そういう公式が成立するようなお話でしょう。

 先ほどの言葉もね、裏を返すならそういうこと。

 金があるならいろいろやってあげられるのにという趣旨を言外に込めていることになり得るが、だとすれば、それはそれでやはり問題ではないかな。大体、そんなことを言う人間は金があったってまともなことなんかできやしないって。

 ここは「金がない」という言葉から始めてもよさそうな話ではあるが、さらに一般化した「貧乏」という言葉を使っているこの時点で、彼女の本質が見えてこないだろうかと、私はそう考えるのです。


 単に「金がない」だけなら、実はそれ、物理的な状況の説明に過ぎない。

 それだけなら客観的にこれだけの金がある、もしくは金はこれだけしかないという客観的な数値をプレゼンできる余地があるだけまだマシですよ。

 何をするしないは、無論別。プレゼンのできる余地があるかどうかが問題なの。

 これ「だけしか」ないのか、これ「だけも」あるのかという言葉をプラス思考の具体例としてしきりに挙げる人もおられるが、そんな価値判断などどうでもいいのよ。あんなものは、騒ぐべくして騒いでいるだけの馬鹿騒ぎですよ。


 しかしながら、彼女の言う「貧乏」という言葉は、その程度の話で済まない要素を孕んでいる。この言葉を使ってしまうと、単に状況として金がないだけにとどまらず、他の状況にも今述べた言葉の要素が波及していってしまいかねない。

 言霊説の受け売りでもないけど、まさに貧乏というのは話者の主観を示す言葉だですからね。その対義語である金持ちも、同様。繰り返すが、これは確かにより深刻な問題を起こしかねない要素を孕んでいますよ。


 かの母親の夫は裁判所書記官で、父は元公務員でした。

 そんなに財産のある家で育ったわけでもなく、なおかつ結婚後の家庭も親元にいたときとそう変わるものではない。

 人並程度の生活はさせていただいているという思いがあったかどうかは今となってはわからないし、そこを問いかけてみてもさほど意味があるとも思えません。

 ところで当の彼女御自身は、本人も公務員として共働きで勤めていればいざ知らず、そういうわけでもないですから。そりゃあ、世間も狭くなろうものです。

 

 今思えばあの親父さん、よくそういう言葉を使う自分の妻であるあの母親に対して注意しなかったのかなと思うね。

 ま、子どもらを一時的に言うことを聞かせるには大いに効果的な言葉であったことは確かですよ。特に子どもが小さいときほど、その効果は絶大だろう。

 何か買ってとせがむ子らをとりあえず黙らせる方便としては、ね。

 だけど、その言葉を母親がむやみに使う姿を見て育った息子さんや娘さんがかわいそうな気がしてならないよ。特に息子さんたちだ。

 親父さんはおそらくわかっていたのではないかな。そんな言葉を年端の行かない子どもらに向けて使うことの弊害くらい。何度かは注意されたかもしれない。

 だが、子どものことになろうものならやたら声は大きい人物ですから、もう一切何も言わなかったのではないかという気もしないではない。無論よほどのことになれば話は別だが、そうでなければ見守るだけにとどめていらしたか。

 まったくの他人の子である私にしても、たまに呼ばれるのはいいとしてもそういうことを言われたあかつきには、裏ぶれるのを通り越してみじめになる気持も失せて、もはやある種の清清しい気持ちにさえなろうものですよ。


 うちは貧乏などと言い訳がましいことを言うなら、初めから子どもの面倒なんか見るな!

 そう言いたいね。

 今当時のあの場所にいる彼女に対して言えるなら。

 無論、今の私が出向いての言葉だ。


 当時の私にそんなことが言えるだけの力はなかったし、言おうものならまあ、子ども扱いにして言い訳にもならんことを声高に並べられたのがオチでしょうけど。

 ただ彼女は、表面的にはヒステリックになる要素はあまりなかったな。そのあたりは抑制が効いていたように思われます。それが救いと言えば救いだったかな。とはいえ、彼女の言動は理知的・論理的なそれとは程遠いものだったけどね。

 ああいう人間に限って、世の中は厳しいだの社会に出たらどうたらこうたら、大層な御託宣を並べられるものなのですよ。テメエの社会性のなさ、あったとしても低いところから見た方が早いような次元のそのお粗末さを棚に上げて、よく言えたものだと今でも思っている。

 そんな押しつけがまし気なことを言う人間に限って、子どものような自分より弱い相手には、言い訳はいけないなどと大層な説教を垂れるものですよ。


 今、思い出したな。小学生の頃でしたか、何か言い返したときに、

「言い訳はいけません」

などと言われたことがあった。

 そのくせテメエはどうだ。物を知らずにさも知ったかのようなことを、何の権限もないのにわあわあホザいてくれただろうか。テメエの、もといあなたの子どもさん相手には通用したかもしれないが、わしには通用しなかったようだな。

 

 さすがにこれだけ言い倒したら、疲れたよ。

 ある意味も何も恩人という言葉ではくくれない立ち位置にいてくださった方に対してここまで言うというのはいかがなものかと思うし、私自身がとんでもないヒトデナシにでも思われそうで、正直、嫌なのは嫌なのよ。

 だけど、こういうことは一度はっきりと言葉に出し切って世に公開しない限り私自身の総括も出来ないし、過去をきちんと検証することもできない。

 それだけではない。これをすることによって、世の中の同じような構図で苦しんでいる人たちにある事例を提示することで、御自身のあるべき姿を改めて見つめなおしていただく材料やきっかけとなっていくはずです。


 こういうことを言っているとね、お世話になった人をなぜそこまで責めるのかなどとホザいてくる低能や無能が湧いて出てくるのが相場だが、そういう指摘をするのは、まさに、低能の低能、無能の無能たる証明そのものってことよ。

 ここでやっていることは、小学生の作文コンクールでもなければ商業高校のビジネス文の授業でもねえし、文章教室の御礼の手紙文の講習会でもなければ労働組合の機関紙のよびかけ文でもないってことに気付けないのがその手合いの生ぬるい頭の生ぬるさの所以ってことや。

 そんな寝言は、テメエの子女の子ども会の会報にでも書いてホザいとけ。


 低能らの罵倒はこのくらいにしましてね、増本さん宅の話に戻ります。

 そんなに言うくらいだったら、その「短期里親」自体が無駄だったのかという疑問が沸いて出る人がいるでしょう。その疑問自体を罵倒する気は、ない。それどころか、他でもなく重要論点足り得る疑問になってきます。

 どのみち避けては通れない疑問です。これは夢夢、無視などできないよ。

  

うち=増本家=貧乏


 総括すれば、母親のその図式を言葉にして子どもらに述べていたことは、確実に子どもたちの成長・自立を阻害する要因になっていたということです。

 愛情の御裾分けもいただいたが、同時にそういう問題点の御裾分けもいただいたことになりますかね、私の場合。


 だが、完璧な人間などいるわけもないですからね。

 彼女のその言動は問題点の塊ではあったが、その人の、というより人間そのものまで範囲を広げて、そういった側面が人間には本質的にあることを知ることによって大きな糧を得られるきっかけになっていることもまた、確かです。

 良いも悪いも肌身で知ることで、私自身にとってはその後の人生における羅針盤の精度を上げることができた。

 そのことに対して、何より私は、あの母親に感謝しています。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


「ちょっと、やすも」


 聞き手の女性は、区切りのいいところで動画ボタンをクリックして、その一言だけ述べた。話し手の男性は、黙って頷いた。

 列車の本数はおおむねピークを越えた頃だろう。だがまだ、多くの通勤通学客がこの街に押し寄せている時間帯ではある。

 目の前にあるペットボトルの珈琲の残りを、彼女は相手と自分のグラスに注ぎこんだ。しばらく、目の前のグラスの飲み物をどれということなく飲みながら、お互い黙って休憩を取っている。


 話し手の作家氏が改めてユニットバスに行って手と顔を洗ってきた。

「じゃあ、そろそろ再開しよう」

 相手の女性は軽く微笑みながら、黙ってパソコンのマウスをクリックした。


・・・・・・・ ・・・・・ ・

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