愛情溢れ出づるユートピア
第11話 何かが変わり始めた、1980年
この1980年、昭和55年という年は、すべてが変わり始める年になったように思えてなりません。
少なくとも、私にとっては。
増本さん宅は、この年から一番上のお兄さんが薬学部に合格して確か2年目だったかな。今ふと思い出したけど、この年の冬の1月に四国の大学に戻るのを母親と一緒に見送りに行ったのよ。
この年の半ばに関西圏では快速列車のグリーン車を全面的に廃止して、残りを全部需要の高い首都圏に持っていくことになったのです。
宇野線の快速は新幹線からの乗継ぎもあるから、急行「鷲羽」で夜に来ていた急行電車と夜に来て朝向こうに戻る関西圏の快速列車の間合いを使って運用されていて、必ずグリーン車が入るようになっていたのよ。そのお兄さんは普通車に乗って帰られたはずだが、その時の人物光景より、近くに連結されていたグリーン車の雰囲気をね、肌身で覚えているのよ。忘れもしない。なぜかは、わからない。
でも、あのお兄さんが乗った列車は確かデッキがなかったたはず。
それで普通車に乗っていたとなれば、あの列車は「鷲羽」の153系と165系の間合いじゃなくて、大阪から夕方来て朝帰る列車の岡山滞留の間合い運用の列車ではなかったかな。多分、そうだろう。
急行鷲羽も、この年の10月改正で廃止された。新幹線開業前は昼間に何本も大阪方面から来ていたけど、岡山まで新幹線が来た時点で夜行を除いてすでに廃止されていたからね。
ふと今、あのときのお兄さんのお顔を思い出した。
何だか、辛そうにされていたねぇ。
実際はそうでもなかったかもしれないけど、母親はじめ親族と数カ月にわたって会えないわけだから。あまりにせいせいとした顔で大学に戻られても、母親にしてみたら何か面白くもないところあろうってものでしょう。面白くないどころか、なんか余計なひと悶着が起きかねないようなところもあったな。
そういう何かを持った人物であることに、ぼくはまだ気づいていなかった。
ともあれ、上のお兄さんの居場所が空いたことを機に、この年は大学生の下宿に2部屋を開放したのよ。
1学期のいつだったか、何かの用があって立寄ったことがあったけど、家の表札に聞き覚えのない人の名前が掲げられていた。
聞いてみたら、2階の部屋を大学生の下宿にしているってね。
この下宿だけど、どうも具合がよくなかったのか、お二人とも1年を待たずして退去されていました。その後、大学生の下宿にすることはなくなった。
あの頃の岡山大学近辺には、こんな調子で民家の空いた部屋を大学生の下宿にして言うなら不動産収入を副業的に稼いでいる家もあったようです。
無論、学生用のボロアパートもすでにたくさんあった。新しいアパートも、少しずつだが増えていたように思う。
一般家庭の下宿先ってお互い気を遣うし、うまく行かなくなったときはいろいろありますからね。だんだんと、そういう生活を避けてアパート暮らしをする学生さんが増えてきていた時期でしたね。あの時代自体が。
5年生の時の夏は、そう遠くはないけど、倉敷方面に出かけた覚えがある。どんな場所だったかは覚えていないが、行った先でアイスクリームを頂いたことだけは覚えています。
ひとつ、思い出した。
あの家に行けることで子どものころ何がうれしかったかと言って、冷房のついた部屋にいられることが何よりうれしくて、ね。
最初、茶室があったって言ったでしょ。その客間にね、屋根につけるのではなくて床に置いている冷房機があったのよ。お客さんが来られるときにはこれをつけていたけど、のべつ冷房をつけているってことはなかった。
なんといっても、施設内に冷房のある場所なんてなかったから、これは本当にありがたかったね。
それで今もうひとつ思い出したけど、この年の夏の泊りのときに、遠出じゃないが街中の少し外れまで路面電車に乗って出かけることがあった。裏の子も一緒にいたかもしれない。
実はこの年の夏を前に、岡山電気軌道は冷房付の新車を2両投入したのよ。その後1年に2両ずつ、十数年にわたり投入し続けて旧車を置換えたわけだけど、その最初がこの年。
ぼくがその母親に無理を言って、冷房車が来るまで待ってもらって、それでその新車の冷房車が来た段階で東山の電停から岡山駅まで乗って、そこからまたバスに乗換えて家まで帰ったことがありました。
そういうことになるとねぇ、やおらこだわりが出てくるところは当時も今も我ながら変わってないなぁ。
当時は国鉄の電車をはじめとして、公共の場でも一部禁煙を徹底された場所もあるにはあったが、たいていの場所では喫煙が暗黙に許容されていましたよね。
だから、冷房のある建物もそうだけど、その家の冷房をかけたときなんかの、煙草の匂いと冷気が妙に混じったあの独特の臭いって、印象的でしたね。今となっては、そういう場所に行くことがほとんどないですもん。
私自身は煙草を吸わないし、吸ったこともありません。
ま、酒を飲むけど煙草までは金がもったいないからっていうのが一番。
酒もそうだけど、煙草はとりわけ体にはお世辞にもよくないからね。
私の父親は酒こそ晩年は飲まなかったが、煙草はじゃんじゃん吸っていた。その割には、検査したら私ら非喫煙者並に肺がきれいだったそうで。
まあそういう体質の人は、煙草を吸ったところで何ともないし、そりゃ他の理由ではともあれ、現に父親は御存知のとおり自死してしまいましたけど、今存命であるとしても、煙草絡みでの病なんか患ってなかろうってことは容易に想像がつきますよ。
道理で、このくらい酒飲んでも何ともないのは、父親譲りのところがあるのかもしれませんね。そのくらいやっていないと、別の意味で生きていけない体質なのでしょう、どちらも、ね。
なんだかんだ言っても、これまで回想してきて思い出すことと言えば、食べ物のこととあとはどこかに出かけたこと、それに連動して鉄道の話ばかりでしょ。
もっとその家の人たちとのやり取りなんかを思い出してもいいはずなのだけど、もう40年以上前のことと言ってしまえば、まあそれまででしょう。だけど、それだけでない何かっていうのも確かにあって、それが原因でこういった記憶ばかりがよみがえってきているのかもしれない。
こんなの、映画化しろと言われても、無理だろうな(苦笑)。
逆に言えば、この体験を軸にしつつ、好きな物語が書けるたたき台のような回想になっていると言えるかもしれない。
だから、映画化ともなればできなくもなくて、脚本の自由度が上がる、ってことになるかな。もっともこれ、私の買い被りかもしれませんが。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
「確かに、聞いていて鉄道の話と食べ物の話が多いなという印象は強いよ。
増本さん宅のお父さんについてはそれなりのイメージがわいてきたけど、お母さんや他の兄弟の方のイメージが、もう一つ鮮明に沸いてこないのよね。
せーくんが話しているのがどうしてもいつ何をしたとかどこに行ったとか、そういう話になってしまっているのがその原因だろうとは思うけど。ふと聞いていて感じたのが、その家のお母さんにあたる人に、随分複雑な思いを持っているなって。
確かにあなたは、そのお母さんの愛情をしっかり受容れていたことはわかるの。
だけどね、どこかそれを突き放しているような感じがしてならないのよ。
その理由は、恐らくもっと先で強烈に出てくるでしょうね」
青い目の女性大学教員の質問に、作家氏は答える。すでにビールは飲み切っているが、目の前のウイスキーの栓はまだ空けていない。
彼は、水を一口飲んで話し始めた。
「まったくもってメル姉の御指摘のとおりでね、確かに、ぼくはこの家の人たちの個々の人の性格とか何とか、具体的にこんなやり取りがあったなんてことをほとんどと言っていいほど語っていない。語ろうにも、もう昔の話だから覚えていないっていうのもある。ただ、それだけじゃない。
その後に起こったさまざまな出来事のおかげで、この頃の良いも悪いも経験していた記憶が薄れていることもその理由になるのではないかと思っている。
前にも言ったでしょ、隣にお住いの母親の父親にあたるおじいさんが亡くなられたこと。それからこれは何度も言って来たけど、高校受験に失敗して大学受験までの3年間のこと。
それからも何度かこの御家庭には挨拶に行っていて、いろいろやり取りがあったわけだけど、その頃の経験が悪いとは言わないにしてもお世辞にもよいとは言えないところで影響を与えているように思われてならないのよ」
「それはわかる。正直、私もあなたが苦しかったという頃の増本さん宅でのやり取りについては、怖いもの見たさから湧き出る興味と同時に、できれば聞かずに済ませるのが幸せなのかなと思えるところも感じるの。
もう50歳も超えたいい年の紳士でいらっしゃる方だから、言葉を荒らして酒飲みまくって暴れたりされないけど、それゆえの怖さもないわけではないの。
ただ、あなたの話を聞いている範囲で現段階での印象を言わせてもらうなら、あなたは増本さん宅のお母さんの愛情というものを、しっかりこの時期受容れていたことは間違いないわね。
それは今のあなたにとっても大きな糧になっているってことは、確かよ。そうでなかったなら、私の前でこんな話、ゼッタイしなかったでしょ?」
彼女の指摘に、作家氏は頷いた。
ここで、少し休憩を取ることに。まだ夕方まで時間がある。このホテルには今日と明日、彼らは別の部屋を取って宿泊することになっている。
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