第12話 増本家を支える慈母
私の誕生日は、9月12日です。
この年11歳になる誕生日かその近くのいつだったか正確な日は覚えてないが、増本さん宅のお母さんが私のいた某園を訪ねてこられてね、誕生日のプレゼントということで、収集した切手を保存するコレクトブックを買って持ってきてくださったのです。私は切手こそ集めていませんでしたが、切符を集めていましたからね、鉄道の。だから、それにも応用できるであろうことを想定されて、お持ちくださったわけだ。そんなことになるとは思ってもいませんでしたから、その時間に合せて某園でお会いしたわけではなかったと思う。
でもね、不思議なことに、そのお母さんが自転車に乗って某園を後にする姿が、今でも瞼に浮かぶのよ。勝手口側の細い路地を、西に向って帰られる姿が。
ひょっとしたら、少しはお会いできたのかもしれない。
でも、そこで会って話した記憶もないし、贈り物を直接手渡しで受けた記憶さえもないのよ。ただ、その帰っていかれる姿だけは、妙に印象に残っているのよ。
なんか、不思議だけど、ね。
いずれにせよ、それはあらかじめ来られるとわかっての話ではなく、サプライズともいうべき出来事であったことは間違いないです。
でもなぁ、その時直接お会いして話した記憶もないのに、なぜまたその母親が某園を自転車で去っていく後姿を今も強烈なほどに覚えているのか、私には不思議でならないのよ。
ちょっと斜め上下から見るような見方をするなら、こうだ。
切手ホルダーとはいえ、それは私の集めた切符を入れるためのもの。鉄道というライフワークに使うものとなるわけよ。それを小学生のぼくは受取った。
一方母親はと言えば、それを渡して、自転車に乗って黙って去っていった。
これ、ある意味その後の両者象徴する光景なのかもしれない。
母親は、私の進むべき道に必要なものだけを渡して、やがて去っていく。
そんなことを今、ふと思ったのよ。
現に、あの家の人たちが郊外に転居されて以来一度も面と向かってお会いしたことがないものでね。
あの家の人らの行先を特定するにも実は一苦労した。それは後で話します。
それから、その年下宿されていた男子学生のお二人ですけど、冬の頃には退去されていたように思う。どうしても他の御家庭の部屋を借りての下宿って、やっぱり貸主家族との相性の問題がありますから、仕方ないよね。
その代わり、そこら辺のアパートよりは安くついていたことは間違いない。安さにつられて入居したはいいが、あまりに相性が悪くて半年かそこら、いずれにせよ1年と持たずに引っ越した人は先輩にもいますね。
ある下宿の話ですが、何とか頑張って1年間は持たせたという人もいるけど、聞けば鉄研のある先輩もその数年前に入っていたお宅で、その方は正月を待たずに転居された。1年持たせた方は、今弁護士をされています。
その下宿はおばあさんがおられて、なんとまあその、宗教下宿とあだ名をつけられたくらいのところでして、その教祖様のお話とか何とか、下宿人にされておられてね。
最初こそ安いからここでと思ってきたのはいいが、世話を焼いてくれるのもまあ百歩譲って有難く受けるとしても、かくもかれこれ言われては、滅入りますよ。
増本さん宅は確かに先ほどの先輩方の宗教下宿ほどではないにしても、やはりあの母親という存在が良くも悪くも響いていたことは間違いない。
私だって、もし大学生になってあの御家庭に下宿ってなったら、1年も持たなかったと思うね。
小学生からのお泊りだったからこそ、良かったのよ。
ただそれも、中学、高校と成長していくにつれ、何と言っても高校入試になまじ失敗なんかしてしまったこともあって、それがこの家の家族でいられなくなっていく方向へと成長がさらに加速してて行ったことは間違いないでしょう。
ぼくが小5のときの増本さん宅で、一時とは言え下宿されていた大学生の皆さんは今どこで何をされているかなんて、無論、さっぱりもうわからない。
あの家のこと、少しでも覚えていらっしゃるだろうか。
覚えていらしたとしても、もはや遠い昔のかすかな記憶でしかないだろうね。
先ほどの宗教下宿も増本さん宅もそうだし、実際私が学生時代の3年間下宿先にさせていただいた方の家も、結局、そこの母親か祖母あたりが中心になって管理されていたってこと。それは、良くも悪くも家庭的な住環境サービスでもあった。
なんせ賄付(まかないつき)なんて下宿もあの頃はまだあったからね。
宗教下宿のおばあさんや増本さん宅がそうされていたのかどうかはわからない。
私自身の学生時代の下宿は、賄付ではなかった。
衣食住のうちの衣まではともかく、最低でも住環境、それに加えて食に至るところまで、家族的・家庭的なサービスというのが、あの時代の下宿の特徴だった。風呂も便所も共同でね。洗濯もたいてい共同ですよ。
そういう家庭的な雰囲気というのは、確かに一見いいように思える。しかもそこらのアパートやマンションに比べて賃料は相対的に安かったからね。
ただその分、余計な人間関係というか、しがらみも出来てしまうのよね。
これがアルバイト先だったら、まだいいよ。
お聞きした話によれば、当時の岡山大学の共済会の食堂が学生会館にあって、そこでアルバイトをしていた先輩が私のサークルに何人かおられたの。そのバイト生のつながりが卒業後もあるって、ある方がおっしゃっていたのを思い出しました。
そういうのは、悪いとは思わない。嫌なら出向かなきゃいい。
だけど、下宿ってところは、無論そういう関係性が生きている人たちもいるかもしれないけど、なんだかんだで、終わってしまえばはかなく消え去っていくようなものでしかないように思えてならんのよね。
今ふと思ったけど、この年の一時期とは言えこの家が大学生の下宿になったという事実は、私のその後にとって実は大きな変化をもたらす予兆となっていたのかもしれないですね。
それが何の事例につながるかは、御存知のあの事件です。
あのときの記憶は、もう、今でもしっかり残っています。
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「鉄道研究会に「スカウト」された話ね」
メルさんもこのことは既にご存知の話である。
「その通り。あれが1980年の11月下旬のこと。あのような動きが私自身に起こる予兆のようなものが、増本さん宅においても見えていたってことだ。これはこじつけかもしれないが、私があの家に泊りに行っていた10年間のうちで、あの年だけなのよ。大学生の下宿に使われた期間っていうのが、ね。不思議といえば不思議な話なのよね。なんでまた選りによってあの年だけだったのかな、って」
彼の問いかけのような話に、女性はすぐに乗っかかってきた。
「それは単なる偶然なのかもしれない。でも、せーくんにとってはそういう形で自分の行く道を、他人、とはいっても家族のように接してくださっていた方々の周りを使って示されていたのかもしれないね」
時間にしてはまだ16時。夕方というには早い時間帯。もう1時間くらいはこの仕事をできよう。
作家氏は何本かビールを飲んでいるが、メルさんはまだ酒と名をつけられるような飲み物は一切飲んでいない。飲めないわけではないが、かの作家氏のように大酒を飲むわけではない。
飲んでいたビールの酔いも冷めている作家氏(これはあくまでも作家氏基準)が向かいの少し年長の女性の問いかけに答える。
「だろうね。実はその頃、某園には移転問題が持ち上がっていてね、翌昭和56年度初めより新天地となる郊外の丘の上に移転する方向で動いていたのよ。そうなるとこの世にも利便性もあって環境も良い文教化しつつある住宅地から去らねばならんのね。問答無用で。そうなる前年、ぼくにとってはとてもありがたいことに、その後生きていく上で必要な基盤を周囲からしっかり作ってもらえていたってことに今さらながら気づいたところよ」
「そうなの。聞いていて、それをなぜか強烈に感じられてならないのよ、第三者でその場に居合わせていない私にも。その年、1980年だっけ、小学校の5年生のあなたに起こったお話、もっと掘り下げて聞きたいわ」
そう言って、彼女はパソコンの動画スイッチをクリックした。
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