親離れ、そして・・・
第27話 大学合格後の顛末。そして、祖母の死。
大学の合格発表を見てすぐ、私は増本さん宅に挨拶に行きました。
おっと待った!
その前に、行きがけの駄賃で東西道路の西側の三差路前にあるK商店の隣にある煙草屋さんの2回におられた、鉄道研究会の先輩に御挨拶しました。これは純粋に場所の問題ね。あの人らのところなど後回しでいいとか、そういう問題ではない。
「鉄研、後は頼んだぞ」
それから、半田山の丘のふもとの増本さん宅に行って御挨拶しました。
「君はあれだけの環境でその成果を挙げたのか、たいしたものだ」
親父さんが静かに述べられたのが、今も印象に残っています。素直にうれしかったと言い切れるほど私も人がよくはないが、このお言葉はありがたかった。
この親父さんの弁は、それまで以上に、他の家族の方々以上に、重みをもって私に迫ってくるようになりました。
母親はもとより、息子さんたちとは明らかに一味もふた味も違う方でした。
大学合格後も、何度かは御挨拶と称して伺っていました。
実の母と一緒に挨拶に行ったことも2度ほどあったかな。そのときかな、隣から母親の母親であるおばあさんが来られていたのが、今も印象に残っています。息子の嫁にあたるおばさんも、挨拶がてらに来られていたかな。
ただ、隣の子らは一番上がこの時高3、順に高校生と中学生でして、その後彼らと顔を合わせることはまったくと言っていいほどなくなりました。
そりゃそうですよ。彼らは彼らで進んでいかねばならぬ道があるのです。あの母親がその子らにどんなことを言っていたのかはわかりませんが、下手なことを言おうものなら弟である父親が何を分かったことを言いやがるのかとなるでしょうし、まあ、甥ということで血がつながっているからと言ってそれほど現状にそぐわないことをテメエのかじった程度の経験と見たことくらいで話す伯母なんかの話を、あの子らだって聞く耳を何時までも持つとは思えんわな、今となって思えば。
私は二部学生でしたから、昼間、仕事していました。それはいいけど、大学の修業年限は5年。その5年目ですから、1992年、平成4年のことですね。
ついに隣に住む母親の母親、その昔、私が小学3年生の夏に冷やしあめを振舞ってくださったおばあさんがついに亡くなられました。数えの享年89でした。
当時住んでいた今の岡山市北区のアパートにも、訃報の葉書が届きました。
その前後に、あの家自体に最後に訪れたのがいつだったか。
おばあさんの亡くなられる前か後かは忘れたが、恐らく後だったと思います。
とにかく、1992年のうちか1993年になって早い段階かで、御挨拶に行きました。大学を卒業することが確定したからね。
あの母親と対面して話した内容で、最後に覚えているのは、これですよ。
卒業式に、母親を呼ばないのか、ってね。
私は、言い返しましたよ。
大学の卒業式なんてものは、卒業証書なりなんなり、欠席して後で受取る手間を省くためのものであり、くだらん感傷を感じるために行くのではない。まして幼稚園や小学校の卒業式なんかでもあるまいし、と申し上げたのよ。
そこは、傍で聞いていた上のお兄さん、当時はもう結婚して子どもさんもいて、両親と同居されていましたけど、この方がうまいこと言ってくれて助かった。
「まさに「超現実主義」じゃな」
ってね。この「超」というのは、現実主義を超えたなにかという意味ではない。
無論、芸術における「シュールレアリズム」とは方向性がまったく異なります。
要は、徹底した現実主義であり、そこに情緒論や郷愁論を入れることを認めない方向性のものであるという趣旨と、私は受取りました。
ようやく、わしの本質が理解されたかと思うと、嬉しかったね。
母親にしてみれば、寂しさのような感情を抱かれたかもしれないけど、わしの本質はあんたが思うようなものとは違うわと言いたくなったけど、そんなことはもちろん言っていないよ。
くだらないいさかいを今さらここで起こしても仕方ないからね。
このとき、下のお兄さんはいなかったのではないかな。
とりあえず、私の話はおいておきまして、この時感じたあの地の異変を話しておきたい。これは、この顛末に大きく影響することです。
すでにおじいさんは亡くなられて10年近くになるし、おばあさんもついにお亡くなりになった。当時の現状として、隣の家には母親の弟一家が居住しています。おばあさんが亡くなられたのに伴い、今度はそちらが核家族になったわけね。
しかも、子どもさんたちは既に大学生か高校生、一番下の子も確か、あのとき高3ですからね。自立するのも時間の問題。残るは、弟さん夫婦のみ。
いずれ子どもの誰かがこの家に同居してくれるにしても、ずっと子どもの頃と同じペースでその地に住めるとは限らない。まして大学に行っていれば、岡山にいなけりゃ下宿でしょ。大学を出たって岡山に住めるとは限らない。
ま、住みたくなくて大学を出たら出ていく人も結構多いけどな。
さあ、こんな状況になったら、どうなる?
ここからが、そういうお話の始まりよ。
このとき帰るまでに、私は母親と上のお兄さんから、軽く聞かされていた。
どうも、隣の家との確執が抜き差しならないところまで来ているらしい。
近くこの家を出て引越すつもりであるが、今の段階では誰にも言えないし、言わないでほしい、とね。その理由は、特に聞かされていなかったかもしれない。ま、私が聞いたところで、その確執を解消できる力もないからね。
さすがに「辻田の家」と明言はされていなかったと思う。
その話をしていたのは、小学3年生で最初に来た時に通された茶室を兼ねた客間でした。その壁の中心部分に、そのときも、10年近く前に亡くなった住職姿のおじいさんの写真が飾られていたのを今も覚えています。
大学を出た私は、司法試験の準備をしながらアルバイトを重ね持つようになりました。病院の事務当直と、学習塾ね。
だけど、どうもこれではということになって、結局私はアルバイトで入った学習塾にそのまま専従として入り込んで仕事するようになりました。印刷会社は、大学を卒業して間もなく退職しました。大学に行くにあたってしっかり便宜を図ってくださったことには感謝しています。
まあしかし、これで私もプライド持って生きていけるだけのインフラが揃えられたということになりますわな。
こうなればもはや、母性など今さら必要なくなったわけよ。要は、酒を飲むおっさんが、母親の母乳なんか飲むか、って話や。飲食物の問題ではなく、社会的にどうかって側面まで含めての例えとしてご理解ください。それでわかるでしょう。
あの母親にしてみれば寂しい話だったかもしれないが、寂しかろうが嬉しかろうが、あんたが何を感じようが思おうが、それが現実だってことや。
高校受験に落ちたとき、現実を考えなさいとか何とか、物事を知りも調査もせずにわめいておったうちの一人がこの母親だったが、そのブーメランが今、時空を超えて御自身に戻って来たってわけや。
この後どうなったかは、追って、お話していきましょう。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
14時きっかりに始めたところ、ここまでで約10分少々。
作家氏は淡々と、その後の状況を話してきた。朝のあのヒートぶりは、まるで嘘のように引いている。
対手の大学教員の女性が、持ってきていた氷をグラスに入れ、目の前のグラスの減っている部分に更なる緑色の液体を補った。
「朝のあの荒れ具合が嘘みたいに引いてきたわね」
「まあ、ここまでくればそう怒るようなこともないから」
「何だか知らないけど、この後さらに引くようなことが起こるような気が」
「今度は、メル姉御指摘のお言葉通り、ただし、別の方向にね」
作家氏は目の前のお茶をすすり、そのことについてヒントめいたことを述べた。
家庭教師のトライさんかな、昔、motherの mを取ったら他人other というCMを作っていたことがある。
マザーのエムを取ったら、他人です。
これなら確かに、子どもの自立という点においては象徴的なフレーズだ。
だけど、これをヒントに、ちょっと考えてみたい。
兄弟の brother の br を取ったら、どう? これまた、other で、他人。
ブラザーのビーアールを取ったら、他人!
こうなると、子どもの自立みたいな話で済まないことになる。
ほら、遺産相続なんかその象徴じゃないか。
実は、この増本さん宅、要は辻田家繋がりの母親と、その隣にいる母親の弟、どちらも同じ父母から生れた、言うなら血を分けた兄弟。しかも隣同士で済み続けてきたわけだが、そんなしあわせのような光景は、いつまでも実現しないものなのかもしれんな。そのきっかけは、相次ぐ父母の死。決定打は、おばあさんの死。
それだけじゃない。子はかすがいというでしょう。増本家こそ結婚した娘さん以外の男兄弟が同居していたが、隣の息子さんたちは相次いで成長していく。もはや集まって何かする必要も、そんな暇もなくなってきた。
遺産だの金目の問題だけじゃないものが、そこにはあったってことだ。
そうなれば、あとはもう、アンドゥトゥロアの3歩目から先ってことや。
ほな、もう少し話させて。この顛末を述べます。
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