第26話 最期のおとまり
幸せが長く続くか続かないのかは知らんが、少なくとも、不幸というものは案外そう長く続かないものなのよ。
既成事実を積み上げ、大検に合格して共通一次の願書も出した。
さあ大学受験というその寸前、1988年の1月初旬のことです。
元旦の1日こそ某園にいたが、2日の昼過ぎかそこらからだったと思うね、某園の児童指導員に連れられて、かつて住んでいた津島の小学校近くの増本さん宅に参りました。滞在先で問題なく移動できるよう自転車を積んでもらったか、ひょっとして増本さん宅のどなたかの余った自転車を借りて移動したか、どっちだったかはもうこの際いいけど、とにかく、行くことになりました。
泣いても笑っても、あと4泊5日だ。
この期間、増本さん宅では特に何かした覚えもない。
ただ、この10年間の総決算ということになるからね。それにまつわる話はいろいろしたことは覚えています。
だけどまあ、その内容面は正直、思い出したくもない。あの母親との会話においては、ぼくにはもはや何の得るものもないなという心証をえていましたからね。
そんなことが恐らく、言葉の端々に出ていたのでしょうよ。
この母親の当時のぼくに対する姿勢における最大の問題点は、自分こそが一番あなたのことを心配して見守っているのですよと、そういうことを惜しげもなく口にして出してくることだった。
あなたを心配しています。それは思想の自由だ。だが、それを過度に押し付けてテメエの思い通りに操ろうとすると、そりゃあ相手も馬鹿じゃないからそこから何をしてでも逃れようとするわぁな。この時期はまさに、この状態でしたね。
思い出したぞ、こんなやり取りがありましたね。
中3のとき、鉄道研究会のある先輩にいろいろ思うところを相談したのよ。その方は、ぼくの言っている個々の内容に対して逐一反応することはなかった。基本的に黙って聞いて下さっていた。それで、1984年11月中旬の土日の昼から夕方までじっくり、その先輩の下宿でお話したけど、この方の結論は1点のみ。
「いいか、とにかく、暴力だけは振るうな」
それだけでした。何だか呆気も素っ気もないようだが、この1点だけ守れば最悪の事態を超えた状況を回避できるわけよ。それで私は助かったのよ。
この話に対して、母親は難とホザいた、もとい、述べたか。
「でも、口(くち)の暴力というのもあるのよ」
だとさ。一見そのとおりの指摘で小マシな説諭でもしているように見えるが、そう見えるだけ。実態たるや、まったくお門違いの指摘だな。
そのときのことを、大学に受かって後にさっきの先輩のご自宅に伺った時に申し上げたら、そりゃあ確かに口の暴力もあるが、こればかりは避けられない側面もある。言論の自由というものが背後にある以上、ね。そこは言い過ぎにならないように気を付けるしかない、でもまあ、あれ言い足りなかった、今度こそユータロ! なんてものはあかんけどな、ってことで終わり。
他にも思い出したぞ。あのバアサン、言いたいこと言いまくって人に謙虚になれのと、御大層な要求をホザいておった割には、テメエはどうじゃいと言いたくもなる話ばかりしでかしくさったが、トドメが、これや。
「私はあんたが憎くて言っているのではないの。ためを思って言っているのよ!」
わしがそんな言葉に感動でもしたとでも思うか?
だとすれば、テメエは相当な盆暗だな。つける薬ねえからとっとと病院に行きやがれとどやし上げたりますわ。
ま、いずれにせよこれでこのバアサンはこの先のわしの人生にはもはや必要ない人物であると判断せざるを得んところまで来たってことよ。
この言葉については、もう一つ、これは某園のかの児童指導員相手に述べたエピソードがあるから、それを紹介しておきます。
私は彼に、こう述べたのよ。もう大学生になって後のことだ。某園に思うところあって言うなら「抗議」的なことを述べていたのよ。
ためを思って言えば何でもいいというものではありませんよ。
あなたがためを思っていようが尊い思いがあろうが、内容がなければそんな話は聞く必要などない。しかし、相手が金儲けのつもりであろうが何だろうが、話を聞く内容があると思えば、それは聞きますよ。
こんなことは当然のことだろうが、なぜ皆さん、できんものですかねぇ。
ってね。これを私に言われた児童指導員さん、顔が青ざめていたよ。
小学校3年生の夏のお盆前に始まって10年。その間いろいろあったけど、これで増本さん宅ともお別れのときが来たのね。
大学に合格して以後、卒業する前くらいまではこの家に何度か挨拶がてらに行ってこの母親とも何度となく話したが、ベースがいかんせんこれだからな。それに加えて世間も狭いわ、物事を知っておるとはお世辞にも言えんわ。人を子ども扱いしていつまでもテメエのペットか何かくらいに思ってケツカルのか知らんが、タイガイにしやがれと思っておった次第。
そういえば、高校受験に落ちてすぐのときのこのバアサンの言動、わしが後に大学に入ってテレビのインタビューを受けた後に電話で話したとき、大検という制度について一言述べたのだけは、忘れもせんわ。
「大検なんて知らなかったから、云々」
よくもテメエ、知りもしないで調査もしないで憶測にもならん根拠で好きなことをほざき倒してくれたのうと、マジ、電話口で怒鳴り散らしたくもなったが、すんでのところで抑えたよ。
怒りが勢い良くなりすぎたようだから、あの家のお泊りの話に戻りますね。
とにかくあの年の年明けは、4泊した。小学生で最初に来たときのように。
最後に泊った日は、1988年・昭和63年の1月5日だ。
あの頃は泊まるときには、黄土色というのかな、豚さんをかたどった枕を使わせてもらっていたのよ。その豚さんとも今生の別れかと思うと、なんか、切なさを感じずにはいられなかったね。
あと、洗面台のところには私専用の歯ブラシも用意してもらっていたのよ。滅多に来ないから消耗は少ないわな。これとも、翌朝歯を磨いたらお別れだ。
翌日6日の夕方、もう日が暮れて久しい時間。午後7時頃か。
かの児童指導員さんが来られて、今回ばかりは家人である御両親と念入りにお話して、それから某園の公用車に自転車等一式載せて丘の上の某園に戻りました。
これでまた有象無象の集団の中で暮らすのかと思うと憂鬱だが、それもまあ、あと数か月と思えば割切れたよ。
こんなところにいつまでもとどまる必要なんかない、ってね。
結果は、御存知のとおりよ。これから3か月しないうちに、ぼくはその小学校の学区に戻ってきました。理由は、もういいでしょう。天下の岡山大学の威光が如何にすごいかよ。わしはおまえらとは違うとすごまなくたって、この威光があれば、この片田舎街の雑魚どもはそれなりの目で見るからな。
馬鹿でもチョンでもなんて言葉があるけど、まさにその言葉を使えば、そういう手合いでもわかる魔除け虫除けが得られたってことになるわな。
小学5年の秋以来、鉄道研究会という場所を通して言うなら「夢の前借」をさせていただいてきたことが、この期に及んで晴れて大きく実ったということです。
その後、増本さん宅に泊ったことは一度もありません。移転先に至っては、一度も伺ったことはありません。そらあんた、そうでしょう。私は天下の大学の看板をいよいよ正式に背負わせていただいた時点で、そんな保護など必要ないだけの力が身につけられたのだから。いまさらお泊りして出来損ないの社会論なんか酒もなしにはした飯つままされながら聞く必要もないってことが立証できたのだからね。
もはや、某園関係者も増本さん宅のあの母親も、私にはうかつな手を出せない存在になったってことですわ。これは買い被りでも何でもない。
もしその看板がなかったら、こうは成れていないはずよ。如何に人間としてよければのヘチマのと、愚にもつかぬ美辞麗句にもならぬ詭弁を並べてみたところで。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
「ここに来て、せーくんの怒りの勢いが頂点に達しちゃったみたいね」
「うん。でも、われながらその怒りの勢いをうまくコントロールできているなと思う。その怒りの正体をこうして述べつつも、一方では、冷静にここまでは言ってもいいがここから先はだめだと判断を下している自分がいるのよ」
そう言いつつ、作家氏は静かに目の前のお茶を飲む。その上に、まだ残っている氷をつまんでいくつか入れ、さらに少しばかり冷えた液体を口に運ぶ。
時刻は、9時30分を幾分過ぎている。休憩をいくらか挟んでいるとは言うものの、片や自ら語り、片やその聞き役を徹していれば、否応なく疲れようもの。加えて、お互い朝から食事をしていない。
「メル姉、わし、疲れた。あとは昼からにしよう」
「何時から?」
「じゃあ、14時くらいで。4時間は休めるよ」
「そうしよ。どこか行くの?」
「少し休んで、外で食べてくる。酒は飲まないよ」
「でも、買ってくるでしょ?」
「ま、まあね。ちょっと、わし自身の話すべきことをもう一度検証しなおしたい。何とか山は越せたと思うから、あとは、これまでより楽に話せると思う。話足りていないことや、思い出したことも追加で話しておきたいし」
「じゃあ、14時を目途に私がここに来るからね」
「それで、よろしく」
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