第32話 母性の補強とメンテナンス

 じゃあ、思い出すままに、まずは本当にどうでもいいようなお話をします。

 これね、私がこの話を始めてしばらくして、ふと、思い出したのよ。


 あの増本さん宅は、少なくとも1978年という昭和後期のあの時点ですでに洋式トイレを使われていたのね。それまでそのような形の便器を見たことがまったくと言っていいほどなかっただけに、あれは新鮮でした。

 当時の国鉄の列車トイレなんて、洋式なんてほとんどなかったはず。新幹線の一部と優等車にはあったろうけど。あと、外国人観光客の多い街中のホテルなんかにはすでにあったでしょう。それから、ユニットバスになっているビジネスホテルもね。それは安全上と衛生上の問題があるからじゃないかな。大体、和式トイレでユニットバスなんか使ったら、ユニットバス内でこける可能性も出てくるからね。こけるだけで済まなくて、頭でも打ったらオオゴトだ。洋式なら、その危険は回避されるからいいでしょうがね。

 とはいえ、あの頃ホテルなんか小学生が一人で出入りするはずもなかったし、列車に乗ってあちこちいくことなんかままならなかったものですから、そりゃあそういうものに出会う確率は限りなくゼロだったわけです。


 ところが、この家に来て最初にトイレに入ったら、な、なんと、今まで見た覚えもないあの形のトイレね。

 そりゃ、びっくりするわな。

 今となってはもうほとんどの家が洋式になってしまって、和式はほんの一部残っているだけの状態になってしまっているけど、なんか、あの家にいるときに洋式のトイレを使えるのは、なんか、ハイカラになった気分でしたよ。大体、ぼくは小学生の頃から歴史の図鑑なんかを喜んで読んでいた口ですからね、明治時代の洋風化のあの雰囲気、好きなのよ。そんなこともあったから、余計にね。


 トイレの使い方はおおむね察せられたから、それはまあ問題ない。

 だけど、その家のトイレの入口のドアに、ちょっと引っかかるシールがガラス面に貼られていたのよ。


有料トイレ


 最初見たとき、びっくりしたね。

 で、思わず家の人に聞いたよ。これ本当に有料トイレなのかって。

 それは冗談だから別に金はいらないと言われたか何だか、とにかくマジで有料なんてことはなかったから、そこは一安心しました。

 今思い出してみれば、当時の増本さん宅は最初に述べた通り一番下の息子さんが当時高1、中学浪人しているから高2の年だよ、本来。下がそこだから、上はもう成人されている時期ですからね。おそらく、誰かが小学生化中学生の頃に何かの縁でそのシールをもらって、それをそのままトイレに張ったままになっていたってところが真相でしょう。こんなことで真相も何もないかもしれんけど。

 ちなみにそのシールですが、増本家の母親の実の母親である辻田の家のおばあさんの死後間もなく、辻田家との確執が頂点に達して増本家が相手に知らせることなく転居するまでにわたって、あの家のトイレの前のガラスに貼られていましたね。


 本当にこれなんて、どうでもいいようなエピソードでしょ。

 あの家で過ごしたときっていうのは、案外、こんなどうでもいいようなエピソードもたくさんあったはずだし、実際、あったでしょう。ただ、あまりに日常で記憶がどうしても飛びやすいものだから、すでに記憶が失われているように思えるだけのこと。だけどそれが、何かの拍子でふと思い出されるときもあるのね。

 きっかけこそ、特殊な事例やお出かけのときのエピソードがどうしても多くなるのは仕方ないけど、日常的に起こったことなんて、この有料トイレの話みたいに、何かの拍子でひょっと思い出すこともあるからね。案外、人間って記憶は完全に消えるものでもないらしい。それが何かの拍子で戻ってくることもあるのだなとつくづく感じているところですよ。

 しかもこうしてね、嫌な頃のことを吐き出したら、あとは存外、一見どうでもいいような話とか、むしろいい話とか、いろいろ、出てくるものです。


 有料トイレのあのシール、ひょっとして、私に忘れていた何かを今思い出させるために私の意識の中に戻ってきてくれたのかもしれませんね。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


 中学や高校にもなればそんなことはなくなりましたけど、そうですね、小6の終わりくらいまでは、この家を離れて某園に戻るのは、とても苦痛でした。

 もう、今生のお別れかというくらいの悲しさでね。


 そうそう、あの家のお母さんと、こんな話をしたこともあるわ。

 ドラえもんでしばしば出てきますよね。タイムマシン。

 タイムマシンがあったら、来た日の最初からもう一度繰り返せるのにと、そんな話になったことも、ありました。

 小学生の頃は、いくら男の子でも、いや、男の子だからこそと思えてならんのだけど、何だかんだで、母性の影響って強いのよ。それが不足していると、どうしても将来何か良きにつけ悪しきにつけ影響をもたらしかねない。

 前者はいいとしても後者の形で出てしまったあかつきには、人様に迷惑もかかろうものでしょうが。

 そこに来て、乳幼児期に母親、それから父方の祖母と、この両者間については反目反感の塊だったにせよ、息子や孫である私に対しては、どちらも、愛情をもって接していたことは間違いない。実はそれがあったがために、養護施設での母性の真似事の如き雰囲気や保母らの対応、そこから派生した様々な行事などに反感を持っていたのも確かです。


 子どもらしさという名の押し付けだ、あんなものに未来なんかないですよ。


 そこまで言えるようになっていたのは、他でもなく、6歳で養護施設に来るまでに育まれていたものが、複式簿記で言うなら資本、今でいう純資産の位置にしっかりと蓄えられていたわけだよ、私の場合。

 そこに加えて、小学3年生から増本のお母さんという方がかかわって下さり、その部分の補強とメンテナンスをしてくださったわけです。

 そう考えると、というかそんなこと考えるまでもなく、実にありがたきもの、滅多にあるものでないという意味でも、本当に、ありがたいことでした。これは決してゼニカネで買って入手できるものなんかじゃ、ない。


 この一連の短期里親事業、あえてそう定義しますけど、この事業で一番の眼目というのは、私の人生に将来的に位置づけされるべき「母性」というものの本質を肌身で感じることで身に着けることだったと言えましょう。

 それはしかし、制の側面だけでなく、負の側面に対しても同じように学ばなければ意味がない。その点に関しても、この事業においては抜かりはまったくと言っていいほどありませんでした。

 それが、増本家の親父さんの存在というものです。

 ちょっとそこに行くまでの枕詞というか前置きが長くなり過ぎましたけど、これはやはりその前に行っておくべきことであると思料されたので、申し上げました。


・・・・・・・ ・・・・・ ・


「確かに前置きが随分長くなったと思う。でもせーくん、あなた、今回初めて使った言葉があったわよ。何なら後で、テープ起こしというか動画起こしでもしているときに確認してごらんなさいよ。メルはすぐに、ピンと来たわ」

「何か、わし、変なこと言ったかな?」

「御期待に沿えるような変なことなら言ってないわよ。話としては、笑って済ませられるような内容ではないわね。それを言うならむしろ、重いテーマにつなげられる話でもあるし、もっと言えば、あなたのこれまで行ってきたことがここでころりと変わったと言っても過言ではない言葉が出たのよ、2回も。何だかわかる?」


 作家氏は、メルさんの指摘にもうひとつピンと来ていない模様である。

「なんのこっちゃ。わし、そんなターニングポイントになるようなこと言った?」

「ええ。せーくん、これまであなた、増本さんのお母さんのことをなんて言っていたか覚えているわね?」

「普通に「母親」と言ってきた。客観性を持たせるには実質この言葉一択だろう」

「それはそうでしょうね。ではなぜあなたは「お母さん」という言葉を使ってこなかったのかしら?」

「そっちを使ってしまえば、客観性が失われかねないという判断や」

「でも今回、はっきり明言されたわよ。「増本のお母さん」と、2回も、ね」


 作家氏は、目の前の飲み物をすすりつつ、少し考えこんでいる。

「そこであの言葉を言うつもりは、なかったけどな。もし言っていたとしたら、ナニユエに。わしとしたことが・・・」

 対手の大学教員の女性は、微笑をたたえつつ目前の男性を黙って見ていた。

 しばらくして少しはほとぼりも冷めたと思われる頃、彼女は目の前の飲み物を少しばかり口に含んで、静かに告げた。


「じゃあ、せーくん」

「何、メル姉?」

「そろそろ、増本さん宅のお父さんのお話、してもらわないとね。最初の頃に幾分聞かせてもらっているけど、こちらにも、あなたはその「お母さん」以上に糧となる財産をいただいているでしょう。今のあなたには、そちらの情報のほうがむしろ役に立つところとなっているのではないかと、私は思いますけどね」


 青い目の大学教師は、動画のボタンをマウスでクリックした。


・・・・・・・ ・・・・・ ・

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